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SmaSTATION特別企画『宝塚歌劇団〜92年の歴史が語るタカラジェンヌの強き絆〜』
映像・資料提供
©宝塚歌劇団
(株)宝塚クリエイティブアーツ
(財)阪急学園 池田文庫
1995年1月17日、6000人を超える人々が犠牲となった阪神淡路大震災。
実はこの時、壊滅的な被害を受けながらも奇跡的な早期復興を遂げた劇場がありました。宝塚歌劇団です。当分、復興は不可能と思われていましたが、なんと震災当日には復旧作業が開始され、わずか2ヵ月半で奇跡の復活を遂げたのです。創設から92年にわたり人々を魅了し続けてきた宝塚歌劇団。これまでに上演された演目は実に2500を超え、在籍した劇団員の数は計4000人にのぼります。その宝塚の歴史と魅力をたっぷりと、ご紹介します!
宝塚歌劇団は、「花組」「月組」「雪組」「星組」「宙組」の5つの組で構成されています。各組は、舞台の花形である「男役トップスター」を頂点に、約80人の「組に所属する出演者」で構成され、それぞれ組単位で一つの公演を行っているのです。「花組」は、大浦みずき、真矢みきら、数々の男役のスターを輩出するなど、古くから「男役の宝庫」ともいわれています。娘役では八千草薫がこの花組出身。創設されたのは、今をさかのぼること85年前、1921年のこと。現在のトップは春野寿美礼です。「月組」は、「花組」と同時に誕生した最も歴史ある組の一つ。淡島千景、大地真央、涼風真世、黒木瞳らを輩出。あの名作「ベルサイユのばら」の初演をつとめたのが、この「月組」です。現在は、瀬奈じゅんがトップを務めています。「雪組」は、「月組」、「花組」の誕生から3年後の1924年、公演数・生徒数の増加を理由に、3つ目の組として結成。麻美れい、一路真輝などを輩出しました。現在は、朝海ひかるがトップです。「星組」は、東京宝塚劇場建設に伴い、1933年に結成。初代トップスター春日野八千代を輩出し、以降も、鳳蘭、遥くららなど個性派スターを生み出しました。現在は、湖月わたるがトップを務めています。そして「宙組」。今から8年前の1998年に誕生した最も新しい組。初代トップは姿月あさと、現在は和央ようかがトップを務めています。この5組の劇団員、計470名のほかに、演出、照明、衣装など、およそ130名の舞台制作スタッフと、劇場管理、営業部門などをあわせた総勢900名が宝塚歌劇を支えているのです。そんな宝塚歌劇は、どのように誕生したのでしょうか。
宝塚の生みの親となった男性の存在

1914年、大正3年。日露戦争に勝利し、列強の仲間入りを果たした日本はこの時代、積極的に海外の文化を取り入れ始めました。そんな中、宝塚はある一人の男性の発案によって産声をあげます。阪急電鉄の父と言われている、小林一三です。当時、小林は大阪の中心地・梅田から兵庫県・宝塚を結ぶ現在の阪急宝塚線を開通。その開通にあわせ、沿線住民の乗車利用拡大を目論んだ小林は、古くからの温泉地であった終点の宝塚にモダンを売りにした宝塚新温泉をオープンします。そして、小林は目玉になるアトラクションはないか、考えを巡らせていました。その時、小林の耳にこんな噂が届いたのです。それは、東京の老舗百貨店・三越が客寄せの一環として少年音楽隊なるものを結成し店内の広場で余興として演奏を披露したところ、人気を博している…というもの。三越少年音楽隊とは、20〜30人の可愛らしい男の子達が洋装に身を包み、鳥の羽根のついた帽子を斜めにかぶったチャーミングないでたちで、当時としては珍しい西洋音楽を歌い披露するもの。これが東京で大人気となっていると聞いた小林は、「東京が男の子なら、こっちは女の子だ!」と、女子だけの音楽隊の結成を思いついたのです。早速、募集を開始した小林は、単なる音楽隊結成に止まらず、うら若き少女達をあずかるには、それなりの人間的教育、しつけにも責任を持つべきだと考え、上下関係や礼儀作法などの生活指導も担う「音楽学校」を設立したのです。後に、小林が掲げたモットーは「清く正しく美しく」は、今なお宝塚を象徴する言葉です。一期生として採用された少女は、16名。こうして誕生したのが、宝塚歌劇団の前身、宝塚少女歌劇です。第1期生となる彼女たちは、宝塚新温泉の宴会広場などで桃太郎を題材にした「ドンブラコ」やダンス「胡蝶」などの演目を披露しました。これが、思いのほか人気を博したのです。当初は、行楽地の余興程度に考えていた小林でしたが、誕生の翌年には年間、実に25万人の観客を動員。少女たちの可憐でレベルの高い歌劇は全国で噂となり、「みだれ髪」で知られる歌人、与謝野晶子や、「当世書生気質」の坪内逍遥らが、わざわざ東京から公演を見に足を運びました。当時、大正初期は、海外から流入したばかりの「活動写真」が人気を博すなど、民衆が「新しいもの」を強く求めていた時代。そんな時代背景もあり、宝塚少女歌劇は一躍大きな支持を得ていったのです。こうした人気に後押しされるように、小林はかねてから胸に秘めていた「新しい国民劇の創造」、さらに「質の良い芝居をより多くの大衆に見せる」、という2つの理想を実現するため、ある構想へと向かっていきます。

「芝居というものが特定の人間のものじゃなくて、多くの方々に愛されて、多くの方々に提供する文化だと。そのためには劇場を大きくして、小屋を大きくすると入場料が安くなる、そうすると安い料金でご家族そろって楽しんでいただける、そういう文化を提供しようというのが、大きな前提にあったと思いますね。」(演出家・植田氏)

宝塚少女歌劇結成から10年後の大正13年。小林は宝塚大劇場建築を決意するのです。当時、日本最大だった東京の帝国劇場が収容人数1700人だったのに対し、小林が考えたのは、収容人数4000人を超える大劇場。日本はもちろん、当時としては東洋一の大きさを誇る規模でした。さらに小林は、大劇場にふさわしいショースタイルを模索するため、所属の演出家・スタッフをパリに派遣。当時のパリでは、「ムーランルージュ」に代表される“レビュー”と呼ばれるショースタイルが全盛でした。“レビュー”はパリで生まれ、毎年12月に1年間の出来事を、場面を転換させながら風刺的に演じた喜劇が元となったもの。歌と踊りを中心に、多彩な演出と豪華なセット、華やかな衣装で観客を魅了する最先端のショーを目の当たりにした演出家たちは、帰国後すぐさま小林にレビュー導入を進言しました。しかし、レビューの導入には大きな問題がありました。「莫大な経費」です。この公演を実現するには、衣装や舞台装置、音響設備など準備費用だけで、それまでの公演1年分もの制作費がかかってしまうのです。さらに、脚や肩など露出の多い衣装に、多くの反発が寄せられるのでは、という懸念もありました。世界最先端のレビューショー導入は、夢物語に終わるかに思われたとき、小林は言いました。「それが素晴らしいものならやりなさい!」と。小林の英断により、昭和2年、日本初のレビュー「モンパリ」が真新しい宝塚大劇場で幕を開けたのです。斬新な舞台、ラインダンス、大階段を使ったフィナーレに観客は圧倒され、大反響を呼びました。この「モンパリ」は、実に9ヵ月にも及ぶ宝塚としては初のロングラン公演を記録。レコード発売されたテーマ曲、「うるわしの思い出モンパリ」も大ヒットとなりました。さらに、東京の歌舞伎座や新橋演舞場でも公演された「モンパリ」は大喝采を受け、日本初のレビューは大成功をおさめたのです。そんな光景を目にした小林は、「何とか東京でも毎日宝塚を見てもらいたい」と考え、昭和9年(1934)、東京の中心地・日比谷に3000人収容の東京宝塚劇場を建設しました。オープン以来連日、大盛況。レビュー以外にも新作を次々に上演するという、宝塚の第一次黄金期を迎えることとなるのです。昭和12年には劇団員は394名にまでふくれあがり、全国から集まった良家の子女たちがトップスターを夢見てしのぎを削りました。宝塚トップスターの人気は、当時、絶大な人気を誇った歌舞伎役者や劇役者・榎本健一をしのぐほどだったといいます。公演終了後、宝塚のスター達の出を待つファンが会場前に溢れ返るという情景も、この頃から続いているものです。しかし、そんな時代も長くは続きませんでした。

戦争突入により劇場が封鎖。そして、終戦を経て復活へ

第二次世界大戦の勃発です。「敵国の文化を演じるとは何事だ」と、軍部の意向により、宝塚の象徴とも言うべき“レビュー”の上演が禁止されてしまったのです。それまでの華やかな世界から一転、決戦服と呼ばれたもんぺ姿で舞台に立ち、「軍国物」の上演を強いられたのです。しかし、非常事態において女性だけの歌劇は不謹慎なものとして目をつけられ、宝塚への軍部の圧力は日増しに強くなっていきました。そこで、当時在籍していた劇団員たちは、ある行動に出ます。「移動隊」を結成し、全国各地、時には満州や樺太へも訪れ、出兵中の軍人や戦時下の人々を励ますため、慰問公演を行って回ったのです。しかし、宝塚歌劇団の思いが日本軍に届くことはなく、大劇場での公演は全面禁止。昭和19年3月には、劇場が日本軍により接収、閉鎖に追い込まれたのです。タカラジェンヌの聖地、宝塚大劇場は、海軍に接収され、客席は取り払われて軍人予科生たちの訓練教室となりました。さらに東京宝塚劇場は、陸軍に接収され、劇場内は何と風船爆弾の工場に用いられたのです。トップスターの楽屋はもちろん、華やかな衣装部屋にも火薬箱が積み上げられたといいます。踊る場を失ったタカラジェンヌたちは、それでも映画館やダンスホールで密かに稽古を続けたのです。そして、昭和20年8月15日…終戦。
しかし、宝塚をめぐる厳しい状況は変わりませんでした。劇場は、日本軍からGHQへとそのまま引き継がれたのです。昭和初期には400名近くいた劇団員たちは、終戦後100数十名にまで減少。さらにGHQは、日本の経済力を弱めるため財閥の解体措置を実施。宝塚歌劇を運営していた阪急グループは、財閥には指定されていなかったものの有能な経営者・小林一三は公職追放にあい、財産は没収、企業経営からも退くことを余儀なくされてしまいます。宝塚は、創設者という歌劇団を支える大きな力さえ失ってしまったのです。小林の力なくして、復興はありえない。誰もがそう考えました。しかし、残された劇団員、そしてスタッフが立ち上がったのです。さらに、当時、宝塚を代表するスターであった天津乙女らの呼びかけにより、宝塚の全生徒から接収解除の嘆願署名を集めGHQに提出。また、進駐軍の基地を訪れては積極的に公演をおこない、接収解除をアピールしたのです。こうしたタカラジェンヌやスタッフによる決死の努力が実り、終戦から8ヵ月後の、昭和21年4月22日、ついにGHQの接収は解かれ、宝塚大劇場は宝塚歌劇団の手に戻ったのです。再開初演となったのは「雪組」公演の「カルメン」。この公演には、戦時中軍需工場へ動員されていた生徒なども戻り、なんとか上演可能な59人が集まり幕を開けたのです。娯楽や希望に飢えていた人々は劇場に殺到しました。宝塚の美しくきらびやかなレビューショーは、戦後沈みかけていた日本人の心を勇気付けました。こうして宝塚は、完全復活を遂げたのです。

天才漫画家・手塚治虫と宝塚の意外な接点とは?

そんな宝塚激動の時代を、間近で目にしていた一人の天才漫画家がいました。手塚治虫です。幼少期を兵庫県宝塚市で過ごした手塚は、宝塚のファンだった母に連れらて、2歳の時に初めてその舞台に触れました。小学校時代、イジメにあっていた手塚は、自らの沈んだ心を解き放ってくれる夢の舞台の虜に。学校を休んで観劇したことも、一度や二度ではありませんでした。幼い頃から絵を描くのが得意で、宝塚のスター達をスケッチしては、家族に披露していたといいます。漫画家を志すようになった手塚青年は18才の頃から、宝塚歌劇団の機関誌「歌劇」編集部に出入りするように。スターの似顔絵や「未来の宝塚像」を漫画化する仕事を請け負って生計を立てていたのです。その後、日本を代表する漫画家にまで上り詰めた手塚は、「鉄腕アトム」発表の翌年、昭和28年、宝塚への思いからある作品を生み出します。それが、今も手塚の代表作の一つに上げられる「リボンの騎士」です。天使のいたずらから、男女二つの心を持って生まれた王女「サファイア」が、王位をめぐる争いに巻き込まれながらも、恋や冒険に活躍する様子を描いた不朽の名作。手塚が、「リボンの騎士」以外にも、中性的なキャラクターを再三漫画に登場させた背景には、愛してやまなかった「宝塚」が大きく影響していると言われています。このように戦後多くの人々に影響を与えた宝塚歌劇団。映画にとってのテレビ。落語にとっての漫才。そして、歌舞伎にとっての現代劇や喜劇など、日本の芸能史においては、必ずといっていいほどライバルが出現し、斜陽な時代を迎えることがあります。しかし、宝塚だけはいつの時代も、その唯一無比な存在感から、多くの熱烈なファンに支持され続けてきました。そして、終戦からおよそ30年後の、昭和49年。宝塚は、現在も代表作として上演され続ける大ヒット作を世に放ちます。それが、「ベルサイユのばら」です。18世紀中世に起こったフランス革命を背景に、歴史上の人物であるルイ16世王妃マリーアントワネットとスウェーデンの貴公子フェルゼンに、架空の人物である男装の麗人オスカルとアンドレを配して展開する純愛物語。当時、大ヒットしていた池田理代子による漫画「ベルサイユのばら」を舞台化したものです。圧倒的な演出と、華麗な舞台が織り成す迫力に、劇場は連日満員。通称「ベルばら」は社会現象と呼ばれるまでの大ヒットとなります。それまでの記録をはるかに上回る、2年で140万人の観客動員を記録したのです。榛名由梨が初演で花形のオスカル役を演じて以降、安奈淳、汀夏子、鳳蘭らのスターが演じ、初演から32年がたった今でも繰り返し上演されています。今年1月には、通算上演回数1500回を突破。通算観客動員400万人を記録。日本演劇史上最大級の作品となったのです。不朽の名作「ベルサイユのばら」により、宝塚歌劇団は、第2期黄金時代へと突入します。そして1982年、大地真央が「月組」男役トップスターとして華々しくデビュー。その後、涼風真世、黒木瞳、真矢みきらが後に続き、宝塚人気はさらなる黄金時代を迎えようとしていました。しかし、そんな宝塚は、またしても苦境に追い込まれることとなるのです。
1995年1月17日、「阪神・淡路大震災」です。宝塚の本拠地、兵庫県宝塚市は、阪神大震災の被害をもっとも受けた地域の一つ。震災の2年前にリニューアルされたばかりだった宝塚大劇場も、壊滅的な被害を受けました。スプリンクラーが作動し、劇場内は水浸しとなり、コンピューター制御による最新の舞台装置は破壊され、約130トンの舞台装置を支えていたボルトは真っ二つに。さらに、宝塚の華やかさの象徴、全ての衣装を保管していた倉庫も水浸しになったのです。第2次大戦後の存続危機から50年。宝塚の灯を消してはならないという熱い想いと、世代を超えたタカラジェンヌ達の固い絆がこの危機を救うことになったのです。創立から92年の歴史を誇る宝塚歌劇団。その伝統と格式を受け継ぐタカラジェンヌたち。いかに阪神淡路大震災から奇跡的復興を果たしたのか。その知られざる絆の物語は、近日大特集します!


宝塚歌劇

宝塚大劇場(5月12日〜6月19日)
月組「暁のローマ/レ・ビジュー・ブリアン」

東京宝塚劇場(5月26日〜7月2日)
宙組「NEVER SAY GOODBYE」

大阪梅田芸術劇場(6月3日〜6月19日)
星組「コパカバーナ」

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