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今週のゲスト・中村勘九郎さんは、ことし3月、18代目中村勘三郎の名を継ぎます。歌舞伎400年の伝統を受け継ぐと共に、新しいことにも次々と挑戦してきた勘九郎さんですが、実は、歴代の中村勘三郎たちも勘九郎さんに負けず劣らず、新しいことに常に挑戦し続けていたのです。そこで今回は、歌舞伎中級編として中村勘三郎の歴史を紐解きます。
 初代中村勘三郎が生まれたのは1598年頃と言われ、現在の京都、山城で武士の3男として誕生したと伝えられています。豊臣秀吉が亡くなり、安土桃山時代が終わりを迎えようとしている時代でした。そんな中、新しいものが大好きだった勘三郎は、当時上方で始まったばかりの歌舞伎を早速身につけ、一座を率いて京都から江戸へと移り住んだのです。そして幕府の許可を得ると、いまの日本橋近く、中橋南地に芝居小屋を建設。1624年2月15日、歌舞伎興行を始めました。これが江戸歌舞伎誕生の瞬間です。

 当初は小屋のオーナーを務めていた勘三郎ですが、やがて自らも舞台に立つようになりました。実は勘三郎、京都時代すでに狂言師として名を成しており、その芝居には非常に定評があったのです。舞台に立つようになった勘三郎は、一躍スターになり、四代目将軍家綱の前で舞を披露したこともあったといいます。

 勘三郎が建設した芝居小屋は「猿若座(さるわかざ)」と呼ばれ、最初はまだまだ規模の小さいものでした。間口は10間、およそ18メートル。木の塀の真中に小さな入り口、そして勘定場がおかれていました。質素な平屋作りで屋根があるのは舞台と桟敷席だけ。2等席は土間で、照明などはまだありません。この「猿若座」は、のちに3代目勘三郎のとき名前を変えました。それが「中村座」。この名が、以後300年以上にわたって受け継がれていくことになるのです。

  新しいものに果敢に挑戦していった、初代勘三郎。その心意気は、彼のつくった芝居小屋の随所に見ることが出来ます。歌舞伎の象徴ともいえる、三色の引き幕、定式幕(じょうしきまく)が、開業間もない中村座にはすでに設置されていました。この幕のもととなった布地は、勘三郎が伊豆から江戸への舟に乗ったとき、こぎ手の手が揃うよう、歌をうたって音頭をとるなど、勘三郎が活躍をみせたため、幕府から褒美として与えられたという品。元は船の覆いだったといいます。それを勘三郎は芝居の幕として利用したのです。この斬新なデザインが瞬く間に他の芝居小屋にも伝わり、定番となりました。いまも歌舞伎座では、白を萌黄に変えた、3色の幕が使われているのです。そしてもうひとつ、初代勘三郎がはじめたものといえば、歌舞伎がまもなく開演することを告げる、太鼓。当初はやぐらの上に太鼓を乗せ、人寄せに使っていましたが、中村座が城に近かったため、旗本が城に参上する時の太鼓と紛らわしいと、舞台の袖で打つようになりました。これが、いまのの歌舞伎座にも受け継がれている開演30分前の着到太鼓のはじまりなのです。こうして初代勘三郎の始めた江戸歌舞伎は、町民たちに熱狂的に受け入れられ、江戸の文化となっていきました。

 3代目中村勘三郎が登場したその年、江戸に定着しつつあった歌舞伎がある人物の登場で人気を確実のものとしました。このころすでに江戸の芝居小屋の権威となっていた中村座で初舞台を踏んだ初代市川團十郎です。1673年、『四天王稚立』(してんのうおさなだち)という演目に、14歳の初代團十郎が坂田金時役で登場。体を赤く塗り、顔には隈取りとよばれる化粧…斧をもって荒っぽい豪快な立ち回りを演じた団十郎は大喝采を浴びました。これが、現在の市川団十郎家に代々伝わる、『荒事』の始まり。「睨み・見得」といった、江戸歌舞伎の象徴も中村座の舞台から生まれていたのです。元禄文化として町民文化が花開いたこの時代、市川団十郎ら稀代の名優の登場で、江戸歌舞伎は芸術として飛躍的に発展していくことになります。そして、歌舞伎の発展に伴い、代々の勘三郎は、中村座において舞台装置や演出など、次々と新しいモノを取り入れていったのです。

 6代目勘三郎の時代、中村座に初めて登場したものといえば、衣装の早代わり――引き抜き。1731年、中村座の新春公演「傾城福引名護屋」(けいせいふくびきなごや)で、初代大谷広次(おおたにひろじ)が初めて衣装の引き抜きをしてみせたのです。大谷が大阪滞在中に見たカラクリ人形からヒントを得たというこの技に、観客は沸き返ったそうです。

 さらに11代目勘三郎が取り入れたのが「廻り舞台」。1762年、大阪で並木正三によって作られた廻り舞台。江戸で「本格的な」廻り舞台を最初に取り入れたのは中村座でした。1793年4月、中村座の「仮名書あづま鑑」という演目に登場した廻り舞台は、いまも歌舞伎に綿々と受け継がれています。ちなみにこの廻り舞台、なぜ最初に大阪で作られたのでしょうか。その訳は、豊臣方と徳川方が戦った「大阪夏の陣」にあります。大阪城を舞台に戦ったこの戦で、徳川は全国から優秀な人材を集め、大阪城へと続くトンネルを掘らせていました。その技術が、舞台の地下を掘り、廻り舞台を作り上げるのに、大いに役立ったといわれているのです。そして当時、「奈落」とよばれる舞台の下に入って、人力で装置を動かしたのは、お尋ねモノなど、顔を見られては困る人たち。それでも、役者の安全と演出には欠かせないことから、その人たちのことを「縁の下の力持ち」と呼ぶようになったのです。廻り舞台を使ったのは、歌舞伎が世界初。その後、パリのオペラ座やモスクワのボリショイ劇場など、世界中の劇場で使われるようになっていくのです。更に、中村座から生まれたもうひとつの歌舞伎の定番――それは歌舞伎の看板でおなじみ、勘亭流の文字。9代目勘三郎の時代、書道家・岡崎勘六こと「勘亭」に、中村座の看板を書かせたところ、それが評判を呼び、その「勘亭流」がその後、歌舞伎文字として定着したのです。実はこの勘亭流の文字の線が太いのは、「スキ間が少なくなり客席にスキが無い様に」、丸っこい文字なのは「丸みを持たせ興行の無事円満を祈願」、独特の内側へのハネは、「内側にはね、お客をハネ入れる様に」、という願いが込められているのです。

 12代目中村勘三郎の頃、中村座は他のふたつの芝居小屋と共に浅草、猿若町に移転、ここで歌舞伎は文化としてますます栄えていきます。このころには、中村座の建物もかなり立派になっていて、間口は、12間、およそ22メートル。芝居小屋の象徴、櫓の高さは3メートル近くありました。客席は2階桟敷、1階桟敷、そして土間席があり、客は座れるだけ詰めこまれていた。大入りのときには舞台の上まで客であふれたといわれています。当時、中村座の料金は最も高い桟敷席で銀35匁程度だったといわれています。これは、いまの金額にしておよそ4万5000円。ちなみに最も安い席だと130文、およそ2500円程度。庶民にとって桟敷席で歌舞伎を見るのは夢のまた夢だったのです。
 明治維新を迎え、世の中が大きく変わる中、芝居小屋を集めるという猿若町のシステムは30年あまりで崩壊。中村座も浅草西鳥越町へと移転しました。さらには1893年、明治26年、中村座は火事によって建物を焼失。以降、中村座を始め、江戸の芝居小屋が果たしていた役割を、新しく作られた、歌舞伎座が果たしていくことになりました。そんな中、1909年、3代目中村歌六の三男として生まれたのが、17代目勘三郎。中村勘九郎のお父さんです。17代目勘三郎は7歳で初舞台を踏んで以来、70年以上にわたり活躍した昭和の名優。その芸は立役・女形から敵役までと実に幅広いものでした。当たり役は「髪結新三(かみゆいしんざ)」「連獅子」「一条大蔵バナシ」など数え切れません。そして17代目勘三郎もまた、歌舞伎以外の世界でも活躍するなど歴代の勘三郎同様、生涯挑戦を続けていました。1961年には森繁久弥、三木のり平、山田五十鈴らと組んでいまも名作として語り継がれる「狐狸狐狸ばなし」を上演。そして1964年には日本人として初めてシェークスピアの名作「リチャード3世」に挑戦しました。さらに「お江戸みやげ」では自ら声をかけ、朝岡雪路ら女優を入れた歌舞伎を上演したこともあったのです。

 そしてこの17代目勘三郎の息子にして、まもなく、この大名跡、18代目中村勘三郎を襲名するのが中村勘九郎です。1959年歌舞伎座「昔噺桃太郎」(むかしばなしももたろう)で初舞台。このときから名乗っている「勘九郎」という名は、初代中村勘三郎の長男と同じ名前。子役時代から「天才」と呼ばれ、父勘三郎はもちろん、祖父6代目尾上菊五郎の芸をうけつぎ、当代の人気役者となりました。そして代々の勘三郎と同じく、新しいものにも果敢に臨んでいきました。1994年5月には渋谷シアターコクーンで『東海道四谷怪談』を上演。コクーン歌舞伎とよばれる斬新な演出はまさに社会現象となるほどの人気に。そして2000年11月、浅草・隅田公園に立ち上げたのが「平成中村座」。定式幕にやぐらなど往年の中村座を再現、100年ぶりの復活を果たしたのです。この平成中村座、2004年にはついに海を渡り、ニューヨーク公演も果たしました。リンカーンセンターに芝居小屋を丸ごと作り、さらには地元ニューヨーク市警まで登場するというこの演出は、「珍しい日本の伝統文化」としてではなく、「国籍を超えたひとつの芸術」として、舞台には厳しいニューヨーカーからかつて無いほどの高い評価を得る結果となりました。

 そして2001年には歌舞伎座であの野田秀樹が脚本・演出を手がけた、『野田版 研辰の討たれ』を上演。この時なんと、歌舞伎座の歴史上初めてと言われる、スタンディングオベーションが沸き起こりました。さらに現在は同じ野田秀樹演出による新しい試み、シネマ歌舞伎に挑戦。これは歌舞伎座で上演された「野田版:鼠小僧」を映画の形で上映するというもの。歌舞伎座までは遠い、値段が高い、、そんな人達にも歌舞伎を身近に親しんでもらおうという試みなのです。伝統を守りながらも新しいものに挑んでいく中村勘九郎のあくなき挑戦。果たしてこれからどんな勘三郎をみせてくれるのでしょうか。
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