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先週、公開されると同時に、大きな話題を集めたのが、稲垣吾郎主演・三谷幸喜原作・脚本の映画「笑の大学」です。この作品の舞台は、昭和初期の浅草。日中戦争の最中…芝居を見てバカ笑いするなど不謹慎だとされたこの時代に、稲垣扮する喜劇作家と役所広司演じる冷酷な検閲官のやり取りを描いたこの映画は、フィクションであると同時に、日本の喜劇が歩んだ悲しい現実を忠実に描いたリアルストーリーでもあるのです。そこで今回は、明治・大正・昭和のニッポンで急成長を遂げた喜劇の足跡を追いながら、戦火の中ではかなく散った、ある天才喜劇作家の運命に迫りました。
喜劇王エノケンと菊谷栄
1968年、青森市郊外にある明誓寺の墓地で、人目をはばからず泣き続けるひとりの男がいました。彼の名は榎本健一。昭和初期の浅草を駆け抜け、日本中に笑いの渦を巻き起こした喜劇王・エノケンです。その功績を称えて授与された勲章を、彼は墓前に供えました。この墓に眠る人物こそ、国民的スター・エノケンの黄金時代を支えた喜劇作家・菊谷栄という人物なのです。

ふたりが出会ったのは、大正から昭和に代わって間もない1920年代末。画家を目指して青森から上京したものの、なかなか芽が出ない菊谷と、オペラ演劇の下っ端役者としてくすぶっていたエノケンが、東京・本郷のおでん屋で世間話をする内に、意気投合。ほどなくエノケンは浅草で、歌とダンスと笑いを織り交ぜた、レビューと呼ばれる軽演劇の一座を旗揚げ。舞台上をところ狭しと駆け回り、ナンセンスなギャグを連発する笑いのスタイル「アチャラカ」コメディーは大衆の心をつかみ、彼はあっという間に人気者にのし上がっていきました。

そんな中、エノケンは「自分の劇団に入らないか?」と菊谷を誘いました。ただ、一員になると言っても、脚本家としてではなく、美術スタッフとしてでした。エノケンは、画家としての成功を目指していた菊谷に、セットの背景画を描く舞台装置係「バック描き」として劇団に入るよう勧めたのです。自らの将来に不安と迷いを感じていた菊谷は、その誘いに応じ、エノケン劇団の一員となる決意を固めました。

当時、榎本健一が率いた一座の文芸部には、優秀な作家たちが勢揃いしていました。あの「りんごの唄」を作詞したサトウハチロー、後にメロドラマの傑作「君の名は」を生み出す菊田一夫といった蒼々たる面々でした。ある日、菊谷は一冊の脚本を携えて、菊田一夫を訪ねました。その本は「ジャズ・ルンペン」というタイトル。これを読んだ菊田一夫は、その新しい演出の発想に『グズグズしてると負けるぞ』と、感じたそうです。そして彼は、美術スタッフ菊谷が書き下ろしたこの台本を舞台にかけることを約束したのです。

それから約2ヵ月後の1931年7月、「ジャズよ、ルンペンと共にあれ」という演題で、菊谷栄の脚本作品がついに上演。この日を境に彼は、背景描きから喜劇作家へと転進したのです。菊谷の脚本は、エノケン・コメディに新風を送り込みました。笑いのセンスの新しさ、ジャズやダンスを絶妙に織り交ぜ、アチャラカ喜劇をより斬新で洗練されたものへと発展させたのです。こうして、エノケンの浅草レビューはヒットを連発。劇団は着々と規模を拡大し、団員150名、オーケストラ25名という堂々の大所帯を率いて、浅草最大の松竹座で公演を打つまでになりました。

そして菊谷栄は、エノケンの大躍進を支える劇団の中心的な作家として、約7年の間に100本以上の作品を書き続けました。民謡を絶妙なジャズにアレンジした『民謡六大学』、エノケンのキャラが見事にはまった『与太者シリーズ』、そして日本の喜劇史上最高傑作と謳われ、戦後も何度となく上演された『最後の伝令』など…。しかし、全てが順風満帆だったわけではありません。1929年に起こった世界恐慌の煽りを受けて、当時日本は大不況にあえぎ、一層軍国主義に拍車がかかっていました。その影響で、反体制的であったり、風紀を乱したりするような演劇を政府は厳しく取り締まるようになっていったのです。

軍国主義と演劇への弾圧
映画「笑の大学」の中でも、稲垣吾郎扮する作家が、役所広司扮する検閲官から、実に80ヵ所以上も台本にダメ出しをされるシーンがありますが、これは誇張ではありません。実際、菊谷の脚本も、『弥次喜多・親子編』では55ヵ所、『山猫の春』では72ヵ所、『メイフラワー』では何と88ヵ所の削除命令が出ているのです。こうした厳しい検閲に対し、温厚で通っていた菊谷も「無味蒙昧な阿呆どもがぼくのホンをいじる」と激怒し、改作を拒否することもあったそうです。

このような逆境の中にあっても、エノケン一座を中心に浅草のレビュー小屋は活況を呈していました。そんな彼らの強力なライバルといえば、劇団『笑の王国』を率いた古川ロッパ。彼が最も得意とした芸は、モノマネ。「声帯模写」という言葉の生みの親で、あの早川雪舟や歌舞伎役者・中村歌右衛門など、数々の有名人の声マネが驚くほど似ていたといわれています。東京丸の内に君臨したロッパ一座の若手劇団員の中には、後に一世を風靡する若き日の森繁久弥もいました。

そんな中、エノケンは、舞台と平行して映画界にも進出。『エノケンの青春酔虎伝』『エノケンの近藤勇』『孫悟空』『ちゃっきり金太』などのヒットを飛ばし、その知名度を全国区に広げ、「日本の喜劇王」の名を欲しいままにしました。当時大学新卒の月給が50円ほどであった時代に、エノケンは毎月3500円もの高給を手にしていたのです。

が、その栄光の日々にも暗雲が…。1937年7月の日中戦争勃発です。そしてその2ヵ月後、菊谷栄の元に一通の手紙が届きました。召集令状――いわゆる赤紙でした。故郷青森の部隊に合流すべく、菊谷は一旦帰郷。いよいよ出征の日を迎えました。一方、エノケンは、新宿で菊谷の脚本作品「ノー・ハット」を上演中。

そこに、「菊谷を乗せた列車が品川駅を通過する」という知らせが入ったのです。すると彼は、突然幕前に立ち、観客に向かって深々と頭を下げました。

「今、この本を書いた一座の座付作家が、お国に召されて品川駅を通過します。わがままを言って済いませんが、一時間半だけ暇を下さい。どうかお許しください!!」

この切なる訴えを聞いた客席からは、「行ってこい!」「みんなこのまま待ってるぞ」と声が上がり、拍手が巻き起こりました。エノケンは、一座を率いて品川駅へと急ぎました。プラットフォームで静かに出発を待つ列車。そこに駆けつけたエノケンは、僅かばかりの停車時間、無二の親友にして、最高の恩人である菊谷栄を激励し、その雄姿を見送りました。そしてこれが、ふたりにとって今生の別れとなったのです。出征から2ヵ月後の1937年11月9日、中国・河郭鎮の激戦で菊谷栄は、敵の銃弾をこめかみに受け即死。35歳の若さでした。日本喜劇界に大輪の花を咲かせようとしていた不世出の才能が、異国の大地で無残に散ってしまったのです。菊谷は自らの死が近づいている事を察知していたのか、激戦の直前、作家仲間に宛てた手紙に次のような言葉をしたためています。

「今こそ本心を語りたいのです。忘れようと努めて忘れ得ない愛着のレビュウです。僕は敵弾にたおれる最後の時迄、レビュウ人として、ものを見るでしょう」。

無言の帰国を果たした菊谷を、エノケンは劇団葬で弔りました。式場では、生前菊谷が愛したジャズが鳴り響いていたそうです。もし菊谷栄が戦死せず、その後も活躍し続ければ、日本の喜劇、そしてミュージカルは現在とは違うものになっていただろうともいわれているのです。
喜劇界の新しい波
1941年、日本は太平洋戦争に突入しました。東京大空襲の中、それでも防空頭巾を被って劇場に詰め掛ける観客たちを励まそうと、エノケンは舞台に笑いの灯を灯し続けました。そして迎えた終戦。混沌とした時勢の中で、日本の喜劇界は世代交代を迎えます。新宿の劇場ムーラン・ルージュで気を吐いたコメディアンが、かつてロッパ劇団で下積み時代を送った森繁久弥です。ラジオのレギュラー獲得を口火に、森繁はあっという間にポスト・エノケン&ロッパの地位を確立。そして森繁同様、ラジオ出演から人気に火がつき、正統派のアチャラカで人気を博したのが三木のり平や、バンドマンでありコメディーもこなしたフランキー堺でした。フランキー堺の活躍は、歌あり・笑いありというコミックバンド登場の下地を作り、1955年にはあのクレイジーキャッツが誕生。ハナ肇、谷啓、植木等らが圧倒的な人気を集めたのです。

そして1961年、植木等が歌う「スーダラ節」が大ブレイク! このヒット曲の作詞を担当したのが、当時気鋭の放送作家だった青島幸雄でした。また当時、浅草出身のコメディアンで、テレビ進出をキッカケに人気急上昇し、のちに昭和を代表する俳優に転進していったのが渥美清です。「男はつらいよ」シリーズの寅さん役でおなじみの渥美は、もともとは浅草のストリップ小屋出身で、ストリップの合間に観客をコントで笑わすコメディアンでした。後にテレビ進出した彼は、1961年から、あの永六輔が作家を務めるNHKのバラエティー「夢であいましょう」でレギュラーとなり、お笑い界のスターになったのです。

一方、関西の喜劇界はというと、日本最初の喜劇役者、曾我廼家五郎・十郎の流れを組む、曾我廼家十吾が戦後、劇団を再編して「松竹新喜劇」を旗揚げ。その舞台には、のちに関西の喜劇を背負って立つ、青年・藤山寛美の姿もありました。そして1959年には、松竹新喜劇の牙城を切り崩すべく、吉本新喜劇が設立。寛美らが得意とした人情系の笑いとは一線を画し、徹底的にドタバタで爆笑を取る路線を追求し、花菱アチャコや芦屋雁乃助、財津一郎といったスターが活躍しました。そして1962年から大阪の朝日放送で始まった時代劇コント番組「てなもんや三度笠」には、当時、若手コメディアンであった藤田まことがレギュラーに抜擢されました。この番組は爆発的な人気を呼び、最盛期にはなんと視聴率50%を記録したこともあったのです。

テレビブームに乗って登場した脱線トリオに続いて、60年代半ばには、全国的にトリオブームが吹き荒れ、伊東四朗が名を連ねた「てんぷくトリオ」、東八郎率いる「トリオ・スカイライン」、関西には「チャンバラトリオ」らが現れました。

そんな百花繚乱のお笑い界に、新たな国民的スターが生まれようとしていました。
1966年、浅草の松竹演劇場で、往年のエノケン、いや、それ以上の剣幕でところ狭しとステージを動き回る人物――萩本欽一と坂上二郎です。このふたりが組んだコンビがコント55号でした。瞬く間にお茶の間のスターになっていった彼らも、テレビに進出した当時は、浅草からNHKのある渋谷まで、移動する地下鉄の中で、新しいコントの稽古を繰り返していたそうです。

こうした激動の波をよそに、「喜劇王」榎本健一は耐え難い試練に晒されていました。最愛の息子を結核によって失い、自身も突発性脱疽という病気に襲われ、右足を大腿部から切断。失意の中で彼は、自殺も考えたというのです。しかしエノケンの喜劇人としての人生は終わった訳ではありませんでした。彼は義足を付け、再び舞台にカムバックを果たしたのです。1968年、63歳の榎本健一は、かつての盟友・菊谷栄の故郷青森を訪ねました。地元の劇団が菊谷の半生を描いた演劇を上演するにあたり、この舞台に特別出演することにしたのです。エノケンは予定の合間を縫って、菊谷栄が眠る青森市郊外の明誓寺を訪れ、しばし墓前にたたずみました、そして、喜劇人としての活躍を称えて国から授与された紫綬褒章(しじゅほうしょう)を、自分の胸から外しそっと墓に供えたのです。

「勲章もらったのは、本当は菊谷栄なんです。アタシぁそれを、キクさんに見せたくって、どうでも一緒に喜んでもらいたくって…」。

『ニッポンの喜劇王』エノケンが流した涙――それは浅草レビューの輝かしい時代を共に築き、共に笑い、共に泣いた同胞に対する、誠心誠意の哀悼と感謝の証だったのです。
 

「喜劇を語るのは難しいです…。昔の喜劇って、実は今見てもオモシロくない。それは喜劇がライブだから。あくまで、その時代の人々に向けて、その時代の人々が書いて演じるもの。だから僕の作品も、50年後の人たちにウケる自信もないし、ウケる必要も無い。喜劇ってそういうものだと思います。現代では、検閲はないけど色んな制約があります。連ドラの場合、まずは放送時間の制約。民放の場合、CMもあります。でも僕は、これをプラスに受け止め、CMによる中断を劇中に上手く使うよう努力します。CMが明けたら、ストーリーの中でも2分経ってるとか…。ホント言うと、もっと色んな制約があるんですよ! 俳優同士の仲が悪いとか、途中から関係が悪化するとか、年で台詞があんまり覚えられないとか…こういう制約を僕は楽しむようにしてます。最後に香取さん、僕はアナタを日本一のコメディアンだと思ってます。だから「嫌だ嫌だ」と言わないで、是非一度舞台をやりましょう!香取さんは、背中を押さないと何にもしない人だから、みんなで背中を押して、舞台に引きずり出したいと思います」。
 
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