それから約2ヵ月後の1931年7月、「ジャズよ、ルンペンと共にあれ」という演題で、菊谷栄の脚本作品がついに上演。この日を境に彼は、背景描きから喜劇作家へと転進したのです。菊谷の脚本は、エノケン・コメディに新風を送り込みました。笑いのセンスの新しさ、ジャズやダンスを絶妙に織り交ぜ、アチャラカ喜劇をより斬新で洗練されたものへと発展させたのです。こうして、エノケンの浅草レビューはヒットを連発。劇団は着々と規模を拡大し、団員150名、オーケストラ25名という堂々の大所帯を率いて、浅草最大の松竹座で公演を打つまでになりました。 そして菊谷栄は、エノケンの大躍進を支える劇団の中心的な作家として、約7年の間に100本以上の作品を書き続けました。民謡を絶妙なジャズにアレンジした『民謡六大学』、エノケンのキャラが見事にはまった『与太者シリーズ』、そして日本の喜劇史上最高傑作と謳われ、戦後も何度となく上演された『最後の伝令』など…。しかし、全てが順風満帆だったわけではありません。1929年に起こった世界恐慌の煽りを受けて、当時日本は大不況にあえぎ、一層軍国主義に拍車がかかっていました。その影響で、反体制的であったり、風紀を乱したりするような演劇を政府は厳しく取り締まるようになっていったのです。