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米同時多発テロがきっかけで、再び戦争の危機が叫ばれている。21世紀を迎えた我々は、今世紀も戦争の歴史を繰り返すことになるのだろうか。そこで今回、20世紀に起きた数々の戦争を再検証し、なぜ戦争が起きるのか、そのメカニズムを探っていく。

 ふたつの大戦を経験した20世紀は、戦争の世紀といわれた。その世界大戦以外でも、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中東戦争と、世界史の教科書には数多くの戦争に関する記述がなされている。一体、この地球上でどれだけの血が流されたのだろうか。そんな20世紀において、たびたび戦いが繰り返されてきた土地が、西アジア、南西アジア、更には北アフリカの一部を含む中東と呼ばれる地域である。なぜこの地では戦争が繰り返されたのだろうか。

 近年の、中東における戦争の歴史は、第二次世界大戦後まもない1948年の第一次中東戦争に始まる。イスラエルとアラブ諸国による、この戦争はパレスチナをめぐる戦いだった。
 紀元前、パレスチナにはユダヤ人たちが暮らしていた。ユダヤ人とは『旧約聖書』を信じるユダヤ教徒を意味する。しかしその後、この土地はローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ人たちはヨーロッパ各地に離散していった。この時、彼らは「いつかきっと、この土地に我々の国をつくろう」と誓い合った。では、なぜユダヤ人たちはパレスチナにこだわったのだろうか。ユダヤ人たちが信じる『旧約聖書』によれば、パレスチナは神があなたがたの子孫に分け与えると言った「約束の地」なのである。
 ユダヤ人たちが離散した後、やがてこのパレスチナ地方にはイスラム教徒のアラブ人たちが住み着いた。彼らアラブ人たちにとっても、このパレスチナ地方は特別な土地となっていく。なぜなら、そこにはエルサレムがあったからだ。言うまでもなく、エルサレムは、イスラム教にとっても「聖地」であり、またユダヤ教にとっても「聖地」という極めて特殊な場所なのだ。

 そして、20世紀初頭、パレスチナには依然アラブ人たちが暮らし、オスマントルコという帝国が支配していた。そこに、1914年、第一次世界大戦が勃発。中東も戦場となった。この時、のちに中東戦争へと発展する引き金を引いたのが、当時、強大な力をふるっていた大国、イギリスである。イギリスは、オスマントルコに支配されていたアラブ人に対して、「我が国に協力すれば、戦後、パレスチナを含むアラブ地方にあなたたちの独立国をつくる・・・」と約束した。更に、ユダヤ人に対しても「資金援助するならあなたたちがパレスチナに独立国家をつくることを支持する・・・」と約束する。イギリスは、自分たちの戦いを有利に進めるため、アラブ人、ユダヤ人双方に、エサをぶら下げたのである。
 第一次世界大戦後、結局ユダヤとアラブに対する約束は守られず、パレスチナはイギリスの統治下におかれた。しかし、第二次世界大戦後、戦争で痛め付けられたイギリスにはもはやパレスチナを統治するだけの力はなく、この土地をどうするか、その判断を国連に委ねたのだ。その結果、1948年5月14日、パレスチナにユダヤ人による独立国家イスラエルが建国される。これに対し、パレスチナに自分たちの独立国家を建設できると思っていたアラブ人たちが黙っているはずはなかった。

 イスラエル建国の翌日、アラブ連合軍がイスラエルを攻撃。こうして始まったのが、第一次中東戦争である。全ては『イギリスの二枚舌』によって始まったのだ。しかし、実はこれだけではなかった。溯ること32年、第一次世界大戦のさなか、イギリスは同盟国であるフランスとロシアに対し、「戦争が終わったら、中東を分け合おう」と持ちかけていた。その結果が、第1次大戦後のイギリスによるパレスチナ統治だった。つまりイギリスは二枚舌ならぬ三枚舌を使っていたのだ。以降、中東戦争は、第二次、スエズ戦争、第三次六日戦争と、たびたび繰り返された。その後も中東では、イラン・イラク戦争、湾岸戦争が繰り広げられ、この地域で戦火が上がらない時はなかった。20世紀は戦争の世紀だった。そして、21世紀初頭の今年、米同時多発テロが世界を震撼させた。いま、その復讐の炎は、再び中東に向けられようとしている。21世紀も戦争の世紀となってしまうのだろうか。

■中東戦争
イスラエルとアラブ諸国との間の四回にわたる戦争。
イスラエル独立時の第一次戦争(一九四八〜四九年)、エジプトによるスエズ運河国有化に端を発した第二次中東戦争(スエズ動乱、五六年)、六日間の戦争でイスラエルがヨルダン川西岸、ガザ地区、ゴラン高原、シナイ半島を占領した第三次中東戦争(六日間戦争、六月戦争、六七年)、第一次石油ショックの原因となった第四次中東戦争(一〇月戦争、七三年)。第三次中東戦争の際に成立したのが、(1)占領地からのイスラエル軍の撤退、(2)中東域内のすべての国が安全に生存する権利を尊重、の二点を骨子とした国連安保理決議二四二で、その履行を再度求めたのが第四次戦争の際の国連安保理決議三三七。両決議は中東和平交渉(別項)の基礎となっている。なお、八二年にイスラエル軍がPLOゲリラを壊滅するために、南部レバノンに侵攻したレバノン戦争を、第五次中東戦争ともよぶ。

■湾岸危機/湾岸戦争
一九九〇年八月二日イラクがクウェートに侵攻したことで引き起こされたペルシャ湾岸をめぐる政治・軍事の緊張状況が湾岸危機である。アメリカをはじめとする西側世界は、世界でも有数の産油国である隣国クウェートを侵攻・占領したイラクのサダム・フセイン政権のねらいが、世界石油市場支配にあるとみて激しく反発。ブッシュ・アメリカ政権はイラクにクウェートからの即時撤退を求める国連安全保障理事会決議採択をとりつける一方で、クウェートを武力解放するため西欧諸国およびエジプトなどアラブ内の反イラク諸国と大規模な多国籍軍を結成した。多国籍軍は九一年一月一七日イラク空爆を開始して湾岸戦争が勃発した。多国籍軍は二月二四日地上戦に突入、二六日クウェートを解放。戦闘は二八日に終わった。日本も多国籍軍への「国際貢献」を迫られ、自衛隊派遣を拒否する一方で、総額一三〇億ドルを支援した。

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