世界の車窓から世界の車窓からFUJITSU
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撮影日記1

「ドイツでは日本より一足早く春が来ました」と、着陸前の機内アナウンス。これはツイている?4月のドイツはまだまだ寒いと思っていた。ターミナルから出ると、なるほど暖かい。

ドイツを縦断。それもミュンヘンを起点に東よりに沿って行く。まっすぐ北へ行ってもよいのだが、縦断の達成感を得るためには、まずは南の国境付近まで行っておきたい・・・。
ということで、最初に目指すのは、ミュンヘンからキーム湖岸を通って、地図でいう右下の隅。オーストリアの中にちょっと飛び出しているところ。ベルヒテスガーデナー・ランド地方という場所だ。国じゅうを細かく鉄道が網羅しているドイツのこと、予想通りそこへも鉄道が通っている。まずは、ミュンヘンからオーストリアのザルツブルクへ行く普通列車に乗る。何の緊張感もなく、毎日国境を越えて普通の列車が行き来しているというのは、島国日本では考えられず、島国でなくてもアジアでは想像しにくい。「国際列車」などという言い方が、こちらでは既に死語なのか。

さて、ドイツにあまり高い山のイメージはないけど、冬季オリンピックに強い選手が出場するからあるんだろう、という漠然とした疑問を放置して人生を送ってきたが、それが解決する日がきたと意気込んで出発したものだから、ミュンヘンを出て、あまりにもすぐに山が見えてきた時には、ちょっと拍子抜けした。国境の手前の駅で乗り換えて、山に挟まれるようにして、ベルヒテスガーデンに到着。ドイツでもっとも美しいとまで言われる、山岳風景。すぐ近くのオーバーザルツベルクの斜面は、観光地として、保養地として、19世紀の終わりから人気が高まっていたという。ところが1930年代に入ると、この地に目をつけたヒトラーをはじめとする、ナチスのメンバーによって次々と別荘地として所有されることになった。やがて、ベルリンに代わる「第二の首都」としての役割を果たすようになり、各国の政府要人なども大勢招待されて、外交の拠点としても活用された。当然、戦争が始まると連合軍による爆撃の目標となり、豪華な別荘の多くは破壊された。そして戦後は長くアメリカ軍が駐留することになる。
今も変らない美しい山々と、忌まわしい20世紀の歴史のコントラスト。

ところで春だと思ったのは、早合点だった。2日後には、気温は8度。冷たい雨の中で撮影を続けることになる。

ディレクター 中村博郎
山間部を抜けるベルヒテスガーデン・ラント鉄道
元気いっぱいの少女たち
ベルヒテスガーデン駅舎
撮影日記2

山に来たついでというわけではないけど、登山電車に乗る。この日はほぼ快晴でよかった。悪天候の山で、ただ灰色の車窓を撮るのでは虚しい。ヴェンデルシュタイン山に登るこの鉄道は1912年に建設されたもの。有名なスイスのユングフラウ鉄道もそうだけど、今から90年も前の技術でどうやってこんな難工事を成し遂げられたのだろうか。標高差およそ1200メートル。山頂駅でも1700メートル台というのは、そう高くもないけど、削られた岩肌の崖っぷちを走るところはなかなかの迫力。列車は新しいものが導入されていて、乗心地は滑らかだしスピードも出る。乗車時間は25分。途中の登山道には、歩いている人の姿も大勢見かける。かなり人気のある山らしい。

まだ雪があちこちに残っているものの、まったく寒さは感じない。頂上からの眺望はすばらしく、連なるバイエルン・アルプスの山並に見とれてしまう。ただ、ドイツ最高峰ツークシュピッツェの姿を探すも、そこだけ雲がかかって見えなかったのは残念だった。

ミュンヘンに戻って、ビアホールを撮影。ドイツとくればビールを撮らずに済ますわけにはいかないところ。大きなジョッキを1度に10個持つことのできる女性スタッフなど、さすが!しかし、みんなの豪快な飲みっぷりを予想していたら、見事に外れた。ちびり、ちびりと、暗い表情で飲む人の何と多いことだろう。ぼそり、ぼそりと、いったい何を話し合っているのか・・・。哲学?人生?家庭問題? いや、だったらわざわざこんなところには来ないよね。日本であれば、何はともあれビールを頼み、乾杯して「ぐびぐびぐび、ぷはー!」までは一直線ということが多いと思う。意外。

ところで、今でこそミュンヘンと言えばビールという気がするけど(CMの影響かも)、16世紀まではろくなビールがなかったのだそうで、ビール好きなバイエルン大公は仕方なく他国からビールを買っていたのだという。それでは宮廷の出費がかさむのでどうしたものか・・・側近たちが思いついたのは「大公自らがビール醸造所をお持ちになってはいかがでしょう?」喜んだ大公は、その日のうちにビール醸造の名人をスカウトしたとか。美味しいビールにかける執念のたまものですかね。

ディレクター 中村博郎
ヴェンデルシュタイン鉄道と乗客
ヴェンデルシュタイン山からの眺望
ミュンヘンのビアホール
撮影日記3

いよいよ、北へ向かって出発。ミュンヘンから、ALEX(アレックス)という鉄道に乗車。実は、この鉄道、次の日からストに突入してしまったので、本当にギリギリセーフという感じ。ドイツには巨大なドイツ鉄道(元国鉄)があるから、競争するのは大変なのだろうと想像する。天気は悪く、風景は暗い。窓からレンズを出すと、雨滴がついてしまうので、撮影は不自由。もっとも、スピードが速いので、強い風圧を受けてカメラが揺れてしまうから、どのみち外に出すのは難しいのだが。

どんよりとした曇り空のレーゲンスブルクに到着。気温は14度と寒い。でもドナウ川の水面には、ツバメが飛び交う。小さな羽虫がたくさん羽化していて、それを食べているらしい。これでもやっぱり春なんだ。東京ではこの気温でツバメはまず見かけないと思う。
天気が悪いため、旧市街の街並みも、大聖堂も、空を背景にして撮るものはどれも美しくなくなる。町行く人々も、真冬の出で立ちで、足早に家路を急ぐという空気もよくない。
それでも、旧市街の雰囲気はさすが。ガイドブックなどは「中世の街並みが残っていて」などとあっさり書くけど、ほとんどあり得ないような幸運だ。ドナウ川にかかる石橋は12世紀に建設されたというから、800年以上そこにあり続けたわけで、いくら地震がないとは言っても、大変なことだとしみじみ思う。戦争だってあったのだから。

レーゲンスブルクに来た理由のひとつが、ソーセージ。ドナウ川の川岸に、12世紀に誕生したという店がある。煙突からもくもくと出る煙。炭火の上で焼かれるソーセージは実に美味しそうだ。本来はソーセージを作るところから撮影したかったのだが、作業は朝4時に行われるということで、その時間はまだ撮影隊はミュンヘンを出てもいない以上、断念するしかなかった。値段は、ソーセージ6本とザウアークラウトで7.5ユーロ。店で食べる人もいるけど、パンにソーセージとザウアークラウトを挟んだサンドイッチだけをテイクアウトする人も多い。自分の会社の近くにこんな店があったらいいな。

この歴史あるソーセージ屋で、驚いたのは壁に彫られた水位を示す線。何の水位かって、それはドナウ川が氾濫した水位です。大河ドナウのすぐ横にあるんだから、考えてみればそりゃ何度も浸水しているに違いない。と思ってさらによく見てみると、外の壁に記された最新の水位記録の日付は、なんと今年の1月だった!

ディレクター 中村博郎
私鉄ALEX
レーゲンスブルクの石橋
ソーセージとザウアークラウト
撮影日記4

ニュルンベルク、バンベルクと旅は続く。いずれも重々しい石の町。そして背景は重い曇り空。ちょっと青空が見られただけ。ドイツでそう快晴に恵まれることはないと覚悟はしていたものの、やっぱり気が滅入りがち。不思議なのは、天気予報は「晴れ」を表示していることが多いこと。
ドイツではこの程度の曇りは晴れと分類されるのか。まさか。

「Nürnberg」という文字と音が、それだけで何だかドイツっぽく、歴史を感じさせる(私だけ?)ニュルンベルクの町は、第二次世界大戦後の軍事裁判が行われたところとして知られているけど、いろいろな意味でドイツの象徴的な都市。「皇帝の城」カイザーブルグ城が11世紀ごろ建設され、公式に「首都」と定められることはなかったものの、神聖ローマ帝国の議会が開かれるなど、暗黙の了解的に中心的な都市として存在し続けた。ヨーロッパの交易の一大拠点で、学問や芸術も栄え、シューデルの「ニュルンベルク年代記」やコペルニクスの「天球の回転について」という途方もない重要な書物が、この町で初めて出版されている。その後も、ドイツで初めての鉄道が敷かれたのがこの町だったり、ナチスは巨大なコロッセウムのような会議場を建設していたり。
景観もすばらしく、重々しい駅舎や、城壁に塔に広場など、ひと目で「あ、あれか」と思うことしきり。もっとも、この町は戦争中に猛爆撃を受け、ほとんど瓦礫の山と化していたので、現在の姿は戦後再建されたもの。旅行者としては、全スクラップではなく、再建を選んでくれて本当によかった。

バンベルクと云えば、またビール。飲んでばかりいるようだが、ドイツに来ればそれはもはや避けることのできない宿命。ドイツでは小麦の白ビール「ヴァイツェン」の人気も高く、それはやっぱり猛暑という状況があまりないから、コクのあるビールが好まれるのではないかと想像する。しかし、バンベルクにはもっと不思議なラオホビールという存在がある。あいにくと土曜日に到着したため、工場は休みで醸造作業を見ることはできなかったが、モルトを燻製にしてビールを造るのだそうだ。飲んでみると、うーん、摩訶不思議な味。イギリスの紅茶に、燻製にした茶葉のものがあるけど、あんな感じ。
このようなドイツ人だから、ビールにすごくこだわりがあるのかと思うと、ビールとサイダーを混ぜた飲料とか、レモン風味のビールなどもあって、そうとばかりも言えない。

ディレクター 中村博郎
カイザーブルク城
ニュルンベルク中央駅 駅舎
ラオホビール
撮影日記5

ドイツの駅舎は美しい建物が多いのだが、駅だから当然、前には大きな道路があり、信号や交通標識があり、車やトラムが走っていたりする。また、駅舎の壁面には、テナントとして入っている会社やファーストフード店のロゴがあったりと、せっかくの美観が損なわれていることが多い。
ドイツ人にとっては、大して思い入れはないのだろうか。あってもどうしようもないのか。
そうした駅の中でもすごいのがライプツィヒ中央駅。いやー、大きい。要塞のようです。

バンベルクからライプツィヒの間は、2度乗り換えることになったが、これはこれでなかなかよかった。異なるタイプの車両に乗ることもできたし。ドイツの普通列車で一番よく見かけるのは、プッシュプル式の2階建ての車両(この中にも新旧いくつかの種類がある)。他には、ちょっと流線型で縦長の大きな窓のタイプがあったり、それと似ているけど窓は大きくない古そうなタイプがあったりという具合(他にもちろん、何種類かのICEとIC、ドイツ鉄道以外の特急なども走っている)。
ちなみに、この駅は大きなショッピング・センターが構内にあって、ここは日曜日でも開いているため、街の人は重宝しているそうだ。市内の店は日曜は休みだが「駅だから」という理由で開店できる。パン屋の場合も同様だが、そういう決まりの作り方って何だかドイツらしい。日本で「駅の店だけは日曜も営業していいです」はみんな納得しないだろう。

ライプツィヒという街もまた、ドイツの学問・芸術の中心。子どものころ、レコードの表紙に書かれた「ゲヴァントハウス管弦楽団」という名前は印象深かった。出版関係では、ブックフェアでおそらく有名。そういう都市だから、街と関わりのあった人物を見ていくと、バッハ、シューマン、ワーグナー、メンデルスゾーン、ルター、ゲーテ、ライプニッツとドイツ有名人辞典のように豪華な顔ぶれ。日本との関係も深く、滝廉太郎や森鴎外が留学していた。鴎外はともかく、滝廉太郎ってそんなにすごかったんだ。スコーピオンズが演奏していたのも納得。
この町では、しかし、カメラを向けると道行く人が嫌そうにすることが多いと感じる。それは、旧東ドイツの秘密警察シュタージの監視体制の記憶が今も残っているからだろうか。外国人の私たちにはわからないけど、この町には、シュタージの博物館もあるし・・・。でも、東ドイツの崩壊は、1989年にライプツィヒの市民たちが起こした静かな抗議がきっかけだったのだが。

ディレクター 中村博郎
ライプツィヒ中央駅に停車中のICE
大勢の人が行き交う駅構内
聖トーマス教会前に建つバッハ像
撮影日記6

ライプツィヒから西へ向かうと、ヴァイマール、エアフルト、ゴータ、アイゼナハと見所の多い都市が続き、文化の香り漂う街道の気配。じっくりと見ながら行きたい気もするけど、ここはICEでビュンと一気にアイゼナハへ行ってしまう。

アイゼナハの町は、これと言った特徴もなく地味な印象だが、実は大きな見所がいつくもある。まずは、世界遺産・ヴァルトブルク城。建造物として見ても壮大だが、何というか、半分物語の世界にあるようなところが一層の魅力だと思う。例えば、祝宴の広間。美しさも格別だが、今にも王や諸侯、騎士たちが現れそうな雰囲気にドキドキしてしまう。ルートヴィヒ2世がこの広間に魅了されて、自分のノイシュヴァンシュタイン城の参考にしたというのも納得。さらに、ルターの部屋。宗教改革を唱える危険人物として追われていたルターは、この城にかくまわれながら新約聖書をドイツ語に翻訳したのだ。世界の歴史を変えたかもしれない時間と場所・・・。しかし、こうしたヴァルトブルク城にまつわる逸話の中でもすごいのは、13世紀の始めに行われた吟遊詩人たちの「歌合戦」。負けた者は死を賜ったというが、勝った人はいったい何のご褒美を貰えたのだろうか。すごくハイリスクな挑戦。ワーグナーの「タンホイザー」の題材にもなっている、この歌合戦だが、もうどこまでが歴史で、どこからが伝説なのか?というような不思議な気持ちになってくる。

さて、このアイゼナハでもうひとつ見逃せないのがバッハハウス。バッハの生家というわけではないのだが、100年以上も前にバッハの博物館になっていたという正当ぶり。1685年にこの町で生まれたバッハだが、実はこの博物館で初めて知ったことがあって、それはバッハの死についてのある有力な説。60歳を過ぎてもまだ比較的元気だったバッハだが、目が悪くなっていたという。おそらくは白内障。そのころ白内障の手術で名を上げていたイギリスの医師がいて、バッハは勧められてその手術を受けた。結果、化膿して敗血症を起こして死んでしまったらしい。痛みと高熱にものすごく苦しんだみたいで、本当に気の毒。手術後の処置として、傷口に鳥の糞を塗り込んだりとか、血を抜いたりとか・・いやまあ昔だから仕方がないのかもしれないけど、想像しただけでも恐ろしい。

ちなみにこの医師は、ヘンデルの目も見えなくしたとか。どうやら、単なる自己宣伝が上手なインチキ医師だったようで、いつの時代にもいるんですかね。バッハの死因については他の説もあるのだが、事実とすれば、何とも残念な話としか言いようがない。まだ何曲か傑作が生まれていたかもしれないのに。

ディレクター 中村博郎
工事中だったヴァルトブルク城
歌合戦が行われていた部屋
バッハハウスに展示されている楽器
撮影日記7

ドレスデン、と聞けば僕たちの年齢だとカート・ボネガットの「スローターハウス・ファイブ」を連想すると思う。1945年2月。3900トンの爆弾、焼夷弾によって街は文字どおり瓦礫の山になった。炎は500マイル離れたところからでも見えたという。犠牲者の数ははっきりしないが、多数だったことは間違いない。

実はその昔、取材で爆撃の生き残りの女性にインタビューしたことがあって、内心虚しい質問だと思いつつも「爆撃に加わった兵士たちを今でも憎いと思いますか」と尋ねた私に「彼らは命令されてやっただけだから、個人の責任ではないので恨んではいない」と彼女は答えたのだったが、カメラを止めた後、お茶とお菓子をご馳走してくれながら「本当は、ものすごく憎いし、決して許すことはできないわ。でもね、そういうことは言えないのよ。わかるでしょ?これから世界中の人に来てもらって、街は発展していかなくてはならないのだから」と話してくれた。テレビ番組の取材としては要するに失敗だったわけだが、自分自身は、その本心を聞くことができてすっきりしたことを覚えている。
さらに、ドレスデンを流れるエルベ川と言えば、有名なアメリカとソ連の兵士が握手をしている写真「エルベの誓い」が思い出されるが、その後の冷戦の歴史を考えると、これもまた何だったのだろうかと虚しいったらない。

さて、世界でもちょっと類を見ない美しさのドレスデンの街だから、当然、世界遺産に登録されていたのだが、なんと抹消されてしまった。ことの発端はエルベ川に新しい橋をかけることになったことで、「そんな橋を架けるなんて認めんぞ」とユネスコは警告したのだが(世界遺産には「街+エルベ渓谷」で登録されていた)、それを無視して橋を作ってしまったのだ。でも、今も尚ものすごい数の観光客を見ていると、ドレスデン側には特に未練はなかったのかもしれないとも思えてくる。

ところで、ドレスデンをかくも見事な都に築き上げたのは、フリードリヒ・アウグスト1世。“ザ・ストロング(強王)”というニックネームがついている。何がストロングだったのか気になるところ。武力が99くらいあったのか。石を持ち上げる大会か何かで優勝していたのか。どうやら実際に強くて、クマと戦った伝説などもあるようだが、人々を感服させたのは子どもの数らしい。354人という説がある。そりゃ確かにストロングですな。

ディレクター 中村博郎
再建されたフラウエン教会
重厚なドレスデン中央駅の駅舎
アウグスト一世が描かれた全長102mの壁画
撮影日記8

絵本の挿絵のように素敵なバウツェンの街だが、ドイツでは思想犯の収容所の場所として記憶にとどめられているらしい。今回のロケ中、時々そのような過去の亡霊がふと現れる。そんな歴史と関係があるのかないのか、この街にはちょっと荒んだ雰囲気もあり、駅のトイレが壊されていたりした。

このバウツェンで途中下車した目的は収容所跡の見学ではなく、ソルブ人を紹介するため。ソルブ人とは、スラブ系のドイツ国民。ドイツ人といえば一般にゲルマン民族。その中に、飛び地のように存在しているのがソルブ人で、当然、「その文化や言語を棄ててドイツ化せよ」という圧力の歴史も半端ではなかったようだ。独立運動なども試みられたことがあるが不成功に終わっている。ただ、旧東ドイツの時代になると、彼らの文化や言語は保護されるようになり、今でも細々とではあるが、生き残っている。ここバウツェンと、後に訪ねるシュプレーヴァルトの森が、ソルブ人たちの拠点なのだ。

とは言え、時代は21世紀。彼らが日常生活において民族衣装を着ているわけでもなく、博物館を訪ねることに。展示されているのは、衣装、生活用具、楽器、ソルブ語の聖書など。そして、イースターエッグ。ソルブ人が作るイースターエッグは、その美しい装飾で知られている。ちょうどイースターの時期とあって、通常の展示だけではなく、イースターエッグ作りの実演・販売も行われていた。卵に小さな穴を開けて中身を出し、表面に装飾を施していくのだが、溶かした蝋を使ったり、あるいは着色した表面を削ったりの細かい作業。作り手たちは、「子どものころからやっているから、もう慣れっこよ」と言いながらも「目と肩にくるわねー」って、そりゃ絶対そうでしょう。ひとつ作るのに1~2時間かかるのだそうで、それを2~4ユーロで売っていた。

バウツェンからさらに東に向かうと、ゲルリッツという街で国境に突き当たる。ナイセ川の向こうはポーランド。第2次世界大戦後に決まった国境で、それ以前はドイツはもっと東にまで続いていた。 ・・と聞くと、それは近代に入ってからドイツが占領した地域で、それをポーランドに返却したということでは?と想像してしまうが、13世紀にモンゴルの攻撃を受けてポーランドがボロボロになったころからドイツ人が多く住むようになり、17世紀以降プロイセンが獲得した領土なのだという。戦争に負けるとはそういうことなんですな。

ディレクター 中村博郎
バウツェンの素敵な街並み
ドイツ語とソルブ語で表記されるバウツェン駅
イースターエッグとベテランの作り手
撮影日記9

ゲルリッツから北へ。東部ドイツ鉄道という私鉄に乗車する。ゲルリッツの駅は、かなり大きいのだが、いくつかのホームは使用されておらず、荒れ放題となっていた。この仕事をしていると、さほど大きな街でもない所で大きな駅を見つけることはそう珍しいことではなく、その度に鉄道のかつての存在の大きさを感じたりする。東部ドイツ鉄道は、車両がこぎれい。車内で車掌さんに飲み物などを注文することができる。

ヴァイスヴァッサーで、一旦下車してムスカウ森林鉄道の蒸気機関車を撮影。夏期だけの運行で、この週末から始まったばかり。明るい森の中を走っていくのがとても爽快だ。国によっては「山火事の原因になるから蒸気機関車は禁止」というような状況があるけれど、ドイツにはそういう心配はないらしい。ヴァイスヴァッサーは、ガラス産業が盛んだった街。ぐるりと見渡すと、煉瓦造りの煙突がいくつも見えるのだが、あれがそうだったのかな。東西ドイツが再統一されたことにより競争力を失って、すっかり衰退してしまったという。通貨が変わったことにより、値段が跳ね上がってしまったからだ。今は、駅舎も、駅前も、うらびれた雰囲気。

さらに北へ向かってシュプレーヴァルトの森へ。ユネスコの生物生息圏保護区にも登録されている、独特の珍しい自然環境に出会うことができる。細い水路が縦横に延びており、そこを平底船に乗って、ご当地名物であるキュウリのピクルスなどをつまみながら、ビールを飲みつつ水路を巡るのだが、もっと行動的にカヌーや自転車で回る人も多い。ただ、その場合は気をつけて行かないと簡単に迷子になるそうだ。ここでもまた木漏れ日の中を船に揺られて気持ちよい時間。水路沿いには、住んでいる人もいれば、観光客相手の店もある。ところでこのシュプレーヴァルトの森は、バウツェンからシュプレー川を下ったところにあるわけだが(さらに下るとベルリンに至る)、ここもまたソルブ人の住む地域。彼らの暮らしを再現した展示もあって、こちらの方が家屋や家具の見せ方がよかった。案内の人たちが民族衣装なのもよい。

ここから、本来ならベルリンへとまっすぐに行く列車があるのだが、現在線路が工事中につき、ちょっと遠回りをしてベルリンに向かわなくてはならない。ドイツ国内を網目のように覆っているDB(ドイツ鉄道)の線路だが、あまり需要があるとは思えない区間もあるし、維持していくのは結構大変なのだと思う。

ディレクター 中村博郎
出発準備中のムスカウ森林鉄道
シュプレーヴァルト名産のピクルス
民族衣装で案内してくれる女性
撮影日記10

ベルリンに到着。久しぶりに見る大都会の賑わいに圧倒されそう。ベルリンが、いやドイツという国が20年前まで東西に分かれていたことなんて、知らない人も増えていそうな昨今。ソ連という社会主義の超大国があったことすら、何だか歴史の授業みたいな感じになりつつある。自分が生きている短い間にも世界は変わっていくものだ。ここへ来ればどうしても気になってしまうのが「壁」だが、例えばポツダム広場の一角に小さなパネルと壁の一部の展示があった。壁が立っていたところに沿って石が埋められていて、線状に延びている。モダンなビルの谷間の地味なモニュメントだが、訪れている人は多かった。

ベルリンの戦後。その意外な産物が、カレーソーセージだという。今ではドイツのどこででも見かける、ソーセージにケチャップとカレー粉がかかったもの。でも、当時は誰も味わったことのない、新しい食べものだったのだ。思えば、今でこそ日本でも様々な国の食べ物を当たり前に食べることができるが、私が子どものころは、まだハンバーガーやフライドチキンすら簡単には買うことができなかった。ましてや第2次世界大戦のころまで戻ると、外国の食習慣というものをほとんど知らないようなもので、異文化への無知や誤解が戦争のひとつの原因でさえあるのかもしれない。

ベルリンでは、さらにアンペルマン・ショップを撮影。日本にも入ってきている、旧東ドイツの信号機キャラ。旧東ドイツのもので今でも現役で見かけるものって、シュプレーヴァルトのピクルスと、トラバントの車と、アンペルマンの信号機くらいなのかもしれない。信号機へのこだわりは正直あまりよくわからないが、子どものころから何十年も慣れ親しんだものが、突然に変えられたりするのは嫌だということなのかな。でも、店に来ているお客さんのほとんどは若者だ。いったい若い人はアンペルマンの何に惹かれるのか?

10代とおぼしき女性にインタビューしてみると意外な答えが返ってきた。「旧東ドイツについては、否定的なことばかりを聞かされるわ。学校でも、家でも。悲惨なことばかり。でも、アンペルマンを見ると、旧東ドイツの時代にも少しはいいこともあったんじゃないかな、と救われる思いがするの」うーん、そうですか。10代、いいこと言うな。
うれしかったことは、アンペルマン・ショップに売られていた震災に遭った日本を応援するバッジ。一個2ユーロで売り切れだった!

ディレクター 中村博郎
モダンなベルリン駅の駅舎
カレーソーセージ
多数のアンペルマングッズ
撮影日記11

ロストックは、こざっぱりと明るく透明で、北欧の気配が漂う街。古くから貿易と造船で栄えたという。私は「バルト海」と聞いても、せいぜいバルチック艦隊を思い出すくらいのものだが、ドイツ、ポーランド、北欧、バルト3国、ロシアなどに囲まれた重要な海で、その貿易を独占していたハンザ同盟の諸都市はたんまり儲けたらしい(ハンザ同盟とはどういうものだったのかもようやく理解した)。ここロストックも13世紀には巨大な教会が建てられ、15世紀には大学が建つほど財を成していたし、少し東にあるシュトラールズントは、絵に描いたような美しい町並みに思わず目を疑うほどだ。シュトラールズントの先で、列車は海峡を渡ってリューゲン島に入る。地味な橋を渡っていくのだが、隣には新しく格好いい道路の橋があって、何だか悔しい。

天気にも比較的恵まれ、春の陽気の中を進んできたロケだったが、やはり北の海は寒い。ロケの最初のころ、バイエルン・アルプスで嵐にあったとき以来の気温一桁。北から吹き付ける風が身を切るよう。それでも海岸は結構な賑わいだ。ロストックからリューゲン島という辺りは、ドイツでは人気のビーチ・リゾートだという。旧東ドイツのホーネッカー書記長も、近くに島をまるごと自分の別荘地として持っていたし、ナチス時代にも大規模なリゾート施設の建設が行われたりした。ドイツは北にしか海がないから必然的にそうなるのかもしれないけれど、日本だとオホーツク海に行くような感覚か。でも、夏になるとスイスのトンネルを越えて地中海へと大挙して行くドイツ人もいるなあ。

ロケの最後は蒸気機関車、リューゲン・ベーダー鉄道。残念ながら機関車の向きが逆で見かけがよくない。ムスカウ森林鉄道のときと同じで、終点にターンテーブルはなく、側線を使って列車の前後に機関車を付け替えるだけなので、機関車の向きが変わらない。「じゃあ、逆方向の列車を取材すればよいのでは?」という意見もあると思うが、そこは旅全体の順路にあわせて、ドイツ鉄道が走っているプトブスから乗りたいところ。
プトブスという小さな街は、これまでまったく知識がなかったのだが、びっくりするほど綺麗な街。北のはずれの島の小さな街でも、さすがドイツと感心する。

ディレクター 中村博郎
ロストックの街並み
空から見たシュトラールズント
リューゲン・べーダー鉄道
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