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「フランス撮影日誌1」 スイスからフランスに入国。バーゼル駅での心配された通関等も問題なく済んで、フランス国鉄のホームから出発だ。バーゼル駅に到着する列車は混んでいるのだが、下り列車に乗る人は少なくて初日から不安を抱えての撮影となる。 スイスの撮影でお世話になった安東さんとペーターが手を振るホームが遠ざかっていく。ホッとした表情の二人。僕たちの仕事はまだ半分だ。フランスでの撮影についてくれるのは藤山さん親子。フランス生まれの息子のカズマさんは外見こそ日本人だが中身はフランス人と言って差し支えなく、頼もしい限り。 一旦止んでいた雨だが、列車が出発すると間もなくまた豪雨。雲が低く、左側の低い山脈がまったく見えない。降りしきる雨の中、セレスタ駅で下車。さすがに憂鬱になる。セレスタでは、駅から見上げた上にあるオー・クニグスブール城とアルザスワイン街道沿いの村リクヴィルを訪ねてみた。一面のブドウ畑を見下ろすように、小高い山の上にあるオー・クニグスブール城。戦闘用の城にしては、ちょっと優雅すぎる建物だ。アルザスがドイツに併合されていた時代に、セルスタの町が忠誠の証しとして、廃墟になっていた城をドイツ皇帝ウィルヘルム2世に献じ、皇帝の命によって復元されたという。ドイツ国境沿いのこの地域、名物料理は酸っぱいキャベツやソーセージだし、ワインはフルーティな白だし、ドイツ色は強いと感じる。アルザス語というのもあって、これもドイツ語に近い。 地図を見ると、アルザスには南北に多数の城がある。17世紀にフランスに併合されるまでは、独立した小さな城主たちが連合してこの地域を治めていた。豊かなライン川流域は、周辺諸国から狙われ続け、戦争が多かったのだ。第二次世界大戦でもひどい目に遭っていて、ヒトラーはアルザスを占領しただけでなく、ドイツに併合したため、法律や言語もドイツのものが強制された。 現在ではストラスブールにヨーロッパ議会が置かれるなど、政治の重要な役割も担っているアルザス。考えてみると、平和で協調しているヨーロッパってものすごいことだ。ようやく、というか、歴史上初めての、というか、人類は前進しているというような単純に甘いことを信じたくなったりする。
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「フランス撮影日誌2」 フランスの列車については、友人から「また1時間遅れた」などと度々聞かされているので少なからず心配していたのだが、着いて早々カズマさんからも「この間はTGVが間違って普通の線路に入ってしまったためにノロノロ運転でまいった」という、笑うに笑えない体験談を聞いてしまった。幸いにして、というべきかストラスブールとパリの間はTGVが走っていないので、当面その危険性はないのだが。でもストラスブールにはヨーロッパ議会やヨーロッパ人権裁判所があるので、真っ先に通っていてもよさそうな気もする。やっぱりドイツとの歴史が微妙に影を落としているのだろうか。 ストラスブールに着いてからお天気は回復。もっとも一日中晴天ということはなく、やっぱり時々は雨具を着用。雨天用のカバーをつけるとカメラの操作性が著しくし悪化するようで、谷茂岡カメラマンの機嫌が急激に悪化する。町を撮影した後は、パリ行に乗車し、途中で乗り換えてランスに向かう。ランスには、多くのフランス国王の戴冠式が行われた大聖堂があり、また、フランク王クロービスの洗礼を行った司祭、聖レメギウスの墓がある。この歴史の重さは、日本で例えれば飛鳥地方的?いや、比較すること自体が無意味か。もっとも、この番組は世界遺産・紹介番組ではなくて鉄道紀行番組なのだが・・・偽らざる心境として、ストラスブール、ナンシー、ランスというルートには心躍るものがある。 さて、パリ行の列車はコライユ・テオズという、やや特別仕立て。基本ボディはコライユと思われるが、何やらオシャレにペイントされており、内装がとてもキレイになっている。パリまでは4時間以上かかるので、頑張らないと客が逃げてしまうのかもしれない。でも逃げるって、飛行機という感じでもないけど。2007年、現在工事中のTGVが運行を始めるまでの列車だということだった。 列車に小さなこども用の遊び場があったり、自転車置き場があったり、荷物棚があったり。座席も普通の二人がけ、三人がけの他にラウンジ風の半円席や、コンパートメント風など、多様な構成。好みがうるさいのだろうか、フランスの鉄道利用者? ストラスブールから西に向かうと、まもなく緩やかな山脈を越える。その後はもっぱら畑か牧草地が続く。麦とトウモロコシが多い。
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「フランス撮影日誌3」 パリに到着。何となくうれしい。 予定より一本早い列車に変更したのだが、パリに着く直前から激しい雷雨となり、非常に悪い結果になってしまった。相変わらず天候は短いサイクルで変化していて、駅構内の撮影を終えた時には、もう晴れている。やりにくい。 パリ東駅は、最初はストラスブール駅という名前だったということで、駅舎の上にSTRASBOURGと書かれた小さな像があるのはその名残か。この一郭はフランスに現存する駅建築でもっとも古いものらしいのだが、TGV運行に向けて工事中で、撮影に適していなかった。ヨーロッパは、何だかいつも工事が多くて撮影に苦労する。 一夜明けてパリからの出発はサン・ラザール駅から。セーヌ川に沿って海に向かって下り、行き先はルーアン。普通の通勤路線という感じの二階建て列車で旅情感はない。「乗客のトラブルが多い路線だから注意してね」と車掌が教えてくれた。慎重に行こう。 この日も、朝はよかった天気だが、午後にはまた雨。ジヴェルニーも半分は雨の中での撮影となる。印象派とセーヌ川下流、というようなテーマで一本と思っているのに、この雨は痛い。それにしても、時折晴れ間があると、光の美しさは格別。明るく、透明な光線。その中で浮かび上がる水面、田園、丘陵、古城。そのまま絵になるような不思議な美しさを湛えている。「モネをはじめとする印象派がこよなく愛したノルマンディ東部」などと資料を読んで、疑わしく思っていたのだが、納得してしまった。この細かく揺らぎ移ろう光と色を、目に見えるこのままに記録・表現したいという欲求、それは100年後の日本のテレビクルーにもよく判る。 終点のルーアンは、セーヌ川沿いの古い港町。そして、ノルマンディ公国の首都。ルーアンの大聖堂には、初代ノルマンディ公ロロの墓がある。彼らは北欧から来たバイキングだったが、バイキングが得意としていた襲撃・略奪ではなく、最初から定住を目論んでいたらしい。街で時々バイキングっぽい顔立ちの人を見ると、さすがノルマンディなどと勝手に納得してみる。ちなみにバイキングはノース・マンと呼ばれ、それがノルマンディという地名の由来だ。この町は、またジャンヌ・ダルクの裁判と処刑が行われた地としても知られている。 世界史の成績はいつも最低だったけど、こうして歴史の断片を見つけるのは楽しいな。
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「フランス撮影日誌4」 ルーアンから、西に向かって出発。今朝のお天気は一転して快晴。青い空の下、アールヌーボー様式のルーアン駅は、なかなか美しく、天井が高くて魅力的。駅らしい感じの建物だ。もっともホームは地下にあって味気ないけど。切符売り場には列ができている。フランスの駅では頻繁に、窓口で熱の入ったやりとりが目撃されるような気がする。 ノルマンディというのは、色々と冗談のネタにされる土地のようで、パリでは「ノルマンディ名物はクリームのクリーム煮」だとか「ノルマンディでは草の伸びる音が聞こえる」などと云われると聞いたことがある。緑のゆるやかな丘が続く景観は、確かにちょっとフランスの他の地方と違って独特。雨が多く、牧草の育ちがよいので、牛の飼育が盛ん。クリームを使った料理は実際多いようだし、カマンベールをはじめ、リヴァロ、ポンレヴェックなど有名なチーズの産地でもある。牧草と一緒に植えられているのはリンゴの木。リンゴから作るシードル、そしてカルバドスはノルマンディの特産品。そもそもは、雨が多く気温が低いため、ブドウが育たないからリンゴで、ということだったらしい。 カーン行きの列車は定刻通りに出発。やや旧式の車両だ。 フランスの列車は、何故か片側だけ窓が開く列車が多いのは何故なのだろう。開くと言っても上半分だけなのだが。両側開かないのには何か理由があるのか。とりあえず撮影に不便なことだけは確かで、果たして窓の開く側は順光か。景色はいいか。運頼みな状態。 リジューで一旦乗り換えてドーヴィルへ。ドーヴィルと言えば「男と女」だったりした時代もあったっけ。こどもの頃に見たけどよく判らなかった。そういえば、確か女性は列車でパリに帰ったと思うけど、この路線だったのか。 今は、普通、パリからみんな車で行くのだろう。列車の本数は少ない。 今回のロケで海を見るのは初めてだ。しかし、晴れてはいるものの雲も多くて寒い。手元の温度計は18℃を指していて、とても7月の終わりとは思えない。でも太陽があたる部分だけは暑かったりするので、暑さと寒さを同時に感じるという気持ちの落ち着かない状態だ。日本に暮らす身としては「どっちかハッキリせんかい!」と怒鳴りつけたい気分になる。水温も20℃前後と冷たくて、泳ぐ人も少ない。期待していた開放感あふれる夏の海の情景とはかなり違うものが撮れてしまった。なかなか思い通りにはいかないロケ。
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「フランス撮影日誌5」 「シェルブール」と言えば、やっぱり「雨傘」なのか? ミシェル・ルグランの曲がいきなり頭の中で鳴り始める人が70%くらい存在しそう。ホテルのロビーには「シェルブールの雨傘をお土産にどうぞ!」という傘屋のチラシがあるが、まさか実話じゃないよな、あれ? 観光地でもないのに、奇妙なお土産商法だ。 それにしても、実際のシェルブールは、これと言った特徴のない町で歴史も浅い。原子力潜水艦の基地がある他、近くには原子力発電所があって、住民の多くはその関連の仕事についていると聞く。だからと言って「お土産には原潜ビスケット」というわけにもいかないから、傘に落ち着いたのだろうか。 港町としてすばらしかったのはオンフルール。今回唯一の“保存鉄道”乗車でもあったのだが、古い国鉄車両で古い国鉄線路を走るだけなので、例えば蒸気機関車のような大感激というわけにはいかない。オンフルールへは、1960年代まで普通に列車が走っていて、立派な駅もあったのだが、廃線となり、駅舎も70年代に取り壊されてしまったという。とても残念。だから、この列車は、町の外にある駅が終点で、そこから先、乗客はバスで運ばれる。 オンフルール行きの朝は、どんよりと曇って憂鬱な天気。水面がからむ風景のある日に天気が悪いのは哀しい。だけど列車は予想外にいい雰囲気だ。観光列車に乗りに来る人たちは、そもそも乗ること自体を楽しみにしているので、みんな気分が違う。「早く着かないかなあ」とか「退屈だなあ」ということがない。のろのろと走る列車にも「これが私にとってはTGVよ」なんて笑うおばあちゃんのように、余裕があるのが素敵。車窓にはノルマンディらしい、緑に被われた丘が広がる。こういう路線がなくなってしまったというのは惜しい。パリからオンフルールに鉄道で、って需要がありそうに思えるのに。 現在のオンフルール港は17世紀、ルイ14世の財務大臣コルベールの命によって作られたもの。港の前に並ぶ細長い家並みは、例えようのない美しさ。そして意外と高くて7階建てだったりする。サント・カトリーヌ教会から共同洗濯場に至るまで、独特の雰囲気にあふれた町だ。観光客の人気が高いのもよくわかる。 オンフルール、の「フルール」って「花」のことかと思っていたが、バイキングの言葉で「小さな河口」を意味したのだそうだ。バイキングの言葉が地名になっているあたり、さすがノルマンディだ。
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「フランス撮影日誌6」 シェルブール以後は、天気もまずまず。青く輝く英仏海峡が眩しい。ノルマンディ古戦場を撮影した後、ブルターニュに向かって旅を続ける。 平らに広がる台地に深い谷が刻まれていて、高い鉄橋を渡るほんの数秒間だけ視界が遠くまで開けるブルターニュ。立体感のある景観が心地よい。フィヨルドと少し似た印象かな。緑の中に建ち並ぶ白い建物が新鮮で、なるほど、別の「国」に入った気がする。 しかし、フランスでも地方の鉄道利用者は減少しているとみえて、ブルターニュは列車の本数がとても少ない。廃線になったところもあちこちあるようだ。時刻表を見ると、何本かはバスによる運行になっていたり、また、曜日によって列車があったりなかったり、或いは時間が異なったりの複雑ダイヤ構成。こういう状況なのでスケジュールの変更は避けたいところ。トラブルなく撮影が進むことを祈る。 このルートには、モン・サン・ミッシェルやサン・マロといった、景勝地もある。どちらも城壁に囲まれた要塞都市とでも呼べばよいのだろうか。ノルマンディ、ブルターニュ共にイギリスとの戦争が様々な形でその影響を残している。一番有名なのが多分「百年戦争&ジャンヌ・ダルク」。それにしても百年ということは、生まれてから死ぬまでずっと戦争が日常だという世代がいっぱいあるんだから大変な状態。王様も、大臣も、将軍も、兵士も、どんどん世代が変わりつつ続行。でも、もっと大昔は常に隣の村なんかと戦争だったのかもしれないわけだが。いずれにせよディナン、ヴァンヌ、コンカルノー、ゲランド等ブルターニュに城壁都市は多い。全部行けないのは残念。大きなお城もある。ジョスラン、ヴィトレ、フジェールなど、フランスからブルターニュを守るための城。これも今回は行かないが、お城はアルザスで訪れていることだし。 まっすぐに半島先端のブレストに向かう。フィニステールと呼ばれる半島の先端。「地の果て」と訳せばよいのだろうか。ブレストは、フランスの重要な軍港で歴史も古い。ナポレオンがイギリス上陸作戦を進めていた時にも、イギリス海軍によるブレスト封鎖ということがあり。第二次世界大戦中はドイツ軍のUボートの基地だった。爆撃によって灰燼に帰したというブレストの町は、戦後、再建されたもの。今回は中世の雰囲気にひたることはできない。
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「フランス撮影日誌7」 大西洋に到達。正体不明の満足感を何となく感じながら、あとはブルターニュをぐるっとまわってパリに戻るだけ。バーゼルを出発してから何キロ走ったのだろうか。残りわずかとなってきた。撮れ高はどうだろう。そろそろ現実的な心配が始まる。 線路の分岐点ランデルノーまで戻ってカンペール行に乗車。ランデルノーは港町。とは言っても、川沿いにあるわけだが。ヨーロッパでは、川が重要な交通路だったことに思い至る。ルーアンもそうだった。スイスのシャフハウゼンもそうだったっけ。 カンペールまではぐねぐねとカーブの多い線路で、谷をいくつも越えていくのだが、線路脇の植物が密生していて、ほとんど景色らしい景色が見られない。車窓に迫る厚い緑や、木漏れ日も気持ちよいのだが、撮影には辛い。おまけに車両は、新型で窓が開かないときている。 カンペールでは、雨。ここ数日、好天が続いていたのだが、やられた。ブルターニュの伝統が色濃く残る町と聞いていたが、一見したところ他の町と比べて特に変わったところはない。例えば、独特の民族衣装なんかもほのかに期待していたわけだが、お祭りの時でもないと、そういう姿は見られないのだそうだ。 大聖堂、広場、石畳の道、そして木骨組み造りの家並み。すっかり見慣れた風景だが、いつも独特の雰囲気があって美しい。でも、雨だ。撮影は不自由だし、建築はどんよりとした空に飲み込まれて精彩を欠く。道を行き交う人も傘に顔を隠し、あるいはヤッケのフードに顔を埋めで、暗い雰囲気。風変わりな楽器でケルト的な調べを奏でる街頭ミュージシャンも、これでは台無し。町から出るにしても、この天気では眺望も望めないし、青い海も絶望的。強いて言えばステンドグラスくらいか。フラットな明かりが好作用しそう。 カンペール名物のクレープも撮影したが、雨の中で食べる人々というのも微妙なもの。「おいしい!」という表情よりも「この雨にはまいったなあ」という表情が勝ってしまうようで、撮る方も意気消沈しがちになる。寒いし。 翌朝、カンペール出発は霧の中。霧が晴れると同時に青空が戻ってきた。朝日を浴びながら、オーレへ。オーレ駅は、auto/trainの駅にもなっている。自家用車を鉄道で運んでくれるサービスで、ちょうどストラスブールから来た乗客たちが自分の車をピックアップしに集まっていた。結構便利なシステムだと思う。 オーレで乗り換えてキブロン半島に向かう。
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「フランス撮影日誌8」 フランス人というと、苦いコーヒーを飲み、辛いタバコを片手に、何時間も実存とか自殺について早口で議論していそうなイメージを勝手に抱いていたのだが、それは間違いだった。キブロン半島は、キャンプ、ヨット、釣り、ダイビング、ウィンドサーフィンなどなどの人々でいっぱいだ。アウトドアで明るく健康的に過ごすフランス人。そうだったのか。 キブロン半島を含めて、入り組んだ地形と何百という島々が特徴的なこの海岸だが、およそ9000年前に海水面が上がって今の地形になったのだという。つまり元々は陸地で、島になっているのは山だった部分ということだ。なるほど、温暖化が進むとこうなるわけ。 オーレを出発した時にはガラ空きだった列車だが、途中駅でどんどん家族連れの乗客が乗り込んできて、最後は身動きの取れない状態となる。お天気もよく、絶好の海日和。 列車から、ちらっと数個の大きな岩が見える。無造作に置かれているようだが、ブルターニュに多数発見されている遺跡のひとつだ。このような遺跡は広く存在しているとも聞くが、ブルターニュにはかなり集中しているらしい。この近くには、石が何千と並んでいる場所もある。昔の人は、巨石をあんなに並べていったいどうするつもりだったのか。時々「天文台」或いは「宗教」というような説明を見かけるけど、それってどういう天文学や宗教なのだか、そこまで説明してほしい。 キブロンの撮影を終えて、オーレからヴァンヌ、続いてレンヌへと移動。とうとうブルターニュ最後の下車駅だ。レンヌは、ブルターニュ地方の中心都市なわけだが、フランスの「地方」は、それほどの権限を持たないらしい。かつてはブルターニュ高等法院の所在地だった。その建物は、今は裁判所として使われている。見所の多い建築ということだが、テロ特別警戒中につき立ち入り禁止。残念。 レンヌの町はというと1720年に火事でそのほとんどが消失している。木枠造りの家並みが、一部残っているだけだ。旧市街全体が残って入れば、さぞかし壮観だったことだろう。 レンヌからTGVでパリに帰る。今回のロケ最後の列車が、最初で唯一のTGV。何だかTGVができたのは比較的最近のことのような気がするけど、既にそのネットワークは1540kmもあり、ベルギー、スイス、イタリアなど周辺国とも結ばれている。ストラスブール〜ドイツへも2007年に開通予定と、着々と整備されているようだ。
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