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現在、世界に散らばる日系人の数は、実に250万人。その中には、世界で高い評価を受ける人々も数多く存在します。そもそも彼ら日系人はなぜ世界に散らばったのでしょうか?移民開始当時、新たなる労働者として異国の地に降り立った彼らは、団結を強め、日本人街と呼ばれる集落を形成しました。移民開始から100年が経過した現在、日本人街は世界59ヵ国に存在し、その国で働く日本人たちのオアシスとなっているのです。そんな中、我々は歴史の闇に忽然と消えたとある日本人街を発見ました。歴史の闇に消えた日本人街・パウエル街にスポットを当てながら、日本人街の歴史を紐解きます。 |
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イギリスでもっとも権威のある文学賞「ブッカー賞」を受賞した日系人作家・カズオ・イシグロ。カンヌ映画祭で国際批評家連盟大賞受賞作品「GAIJIN」を監督した日系人チズカ・ヤマザキ。先日行われた第77回アカデミー賞授賞式で、映画撮影技術の開発に「革新的な進歩をもたらした」という理由でゴードン・E・ソイヤー賞が贈られた宮城島卓夫――彼ら日系人は、国籍こそアメリカ・カナダ・ブラジルと様々ですが、全て日本人の血を引いています。そもそも彼ら日系人はなぜ世界に散らばったのでしょうか?日系人の歴史を紐解くと、それは、新選組・近藤勇にとって最大の脅威となった薩長同盟が結ばれた1866年、慶応2年に始まります。その頃の日本は、日米和親条約で開国を余儀なくされましたが、幕府が認める役人や貿易商人以外、一般人が海外に出る事は依然禁止されていました。
しかしこの頃、日本国内ではある問題が…。それは人口の爆発的な増加です。特に農村では次男、三男たちが相続できる土地がなくなり大きな問題となっていたのです。更に、失業率も増加。幕末の動乱期にあった幕府にとって、これらの問題を解決することが急務でした。そこで幕府がとった策が『移民政策』。1866年、幕府は、学問・商用を理由に、一般人の海外渡航を認めたのです。このとき、幕府から正式な旅券をもらって渡航した第1号の日本人の職業は『曲芸師』。隅田川浪五郎を始めとする18人の曲芸師の一行でした。当時の日本の曲芸は世界でも非常に高いレベルにあり、一行はアメリカ・イギリス・フランスなどを2年4ヵ月かけてまわり、アメリカでは、当時の第17代大統領ジョンソン大統領にも謁見しています。
その後、幕府の思惑どおり、土地のない農村の青年や職にあぶれた者達は、夢を追い求め、裸一貫で未知なる海外へと移り住んでいきました。最初の移住先となったのが、アメリカに併合される前のハワイ国。その後、メキシコ・アメリカ・カナダなどの北中米や、1900年代に入ると、ペルー・ブラジルなどのラテンアメリカへと広がっていきました。 |
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ひと儲けして、故郷に錦を飾ろうと、異国の地に降り立った日系1世達。しかし、そこで彼らを待っていたのは、安い賃金と過酷な労働という苦難の連続でした。そんな彼らが、生活を守るため、また心のよりどころとして築いたオアシスが、『日本人町』(にほんじんまち)です。ロサンゼルス・ダウンタウン東側に位置する北米最大の日本人町『リトルトウキョウ』。1886 年に数人の日本人がレストランを開いたのがその始まりと言われ、全盛期には実に32000人の日系人が暮らし、100もの日本関係の店舗が軒を連ねていました。現在でも、当時のような賑わいこそありませんが、随所に日本らしさを見ることが出来ます。多くの和食レストランやショッピングセンター、更に日本の銀行や書店、薬局、病院、日本風の交番もあり、ロサンゼルスにいながら日本を味わうことができるため、在米の日本人以外にも、多くの外国人が訪れる観光スポットとなっています。周辺には神社や寺も存在し、「西本願寺」なるお寺もあります。
日本の反対側に位置するブラジル。ブラジルへの日本人移住は、ハワイやアメリカに遅れること40年あまり、1908年に始まりました。1888年に奴隷制を廃止したブラジルでは、コーヒー農園での労働力不足を補うために、日本…特に沖縄からの移民を積極的に受け入れたのです。そんな歴史的背景もあって、現在では世界最大の130万人という日系人が暮らしています。ブラジルの二大都市のひとつ、サンパウロには、大きな『赤い鳥居』のある「リベルダージ」という日本人町があります。駅前には、焼きソバの屋台が並び、あのマクドナルドもカタカナで書かれています。他にも寿司店、ラーメン店、和菓子店はもちろん、仏壇店や邦楽専門のCDショップ、100円ショップまであるのです。他にも、日系移民の多かったアメリカ西海岸には、未だに各地に日本人町が存在します。シリコンバレーの中心地であるサンノゼにも親子3代に渡る手作り豆腐店があり、毎年7月には盛大に盆踊りも行われています。また、サンフランシスコの日本人町でも、毎年4月に「桜祭り」が行われるなど、そこには小さなニッポンがいまなお存在しているのです。 |
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これらの町に劣らない繁栄を誇った日本人町が、かつて、カナダのバンクーバーに存在しました。それが「パウエル街」です。もっとも繁栄していた1940年頃には、パウエル街の日系人口は8400人に達していたほど・・・。人々は仕事に精を出し、暮らしのアメニティを充実させ、余暇には野球に熱中しました。町の日本人移民だけで結成した野球チームはどんどん強力になり、日本から遠征にやってきた巨人軍と熱戦を繰り広げるまでになったそうです。ところが、この日本人町は、ある出来事によってなんと一夜にして崩壊、消滅してしまったのです。
カナダに日本人が上陸したのは1877年、長崎は島原藩出身の漁師の息子だった永野萬蔵が最初だといわれています。永野は、英国船にボイラーマンとして乗り込み、船上で英語を覚え、バンクーバー近くで船から抜け出してカナダに密入国しました。その後、日本式の投網で、川をさかのぼるサケを一網打尽にして財をなし、「塩鮭王」と呼ばれるほど名を馳せたのです。いまも1898年に彼が建てたレンガ造りの三階建ナガノ・ビルが残っています。1977年の日系移民百年祭では、カナダ政府が彼をカナダ移民第一号と認め、BC州の標高1955mの山を「マウント・マンゾウ・ナガノ」と命名しました。そんなBC州には永野萬蔵が上陸した当時、多くの中国移民がいました。その数はすでに1万人に達しており、木材伐採や鉄道工事に従事する中国人によって中国人村が出来上がっていました。カナダへの日本人の移民が本格化したのは1880年代に入ってからで、彼らは漁業や森林業の、安い労働力として迎え入れられたのです。
1891年、横浜出身の石川勝蔵がパウエルストリートに日本人向けの旅館「JAPAN ROOM」を開くと、その場所を中心に日本人のコミュニティーが徐々に形成されていきました。当時、日本人や中国人の移民は、白人が経営する製材工場で、木材を積み降ろす過酷で危険な肉体労働しか割り当てられませんでした。それでも、日本人は持ち前の器用さと勤勉さで重宝がられ、着実に移民の数も伸ばしていったのです。彼らが夢見たのは、市民権を獲得し、カナダ国民と同等の権利を持つことでした。
ところが、日本からの移民が急増するに伴い、白人社会との間に摩擦が生じ始めます。日本人労働者が仕事をすればするほど、白人労働者たちの失業、賃金の引き下げへと繋がり、市民の間に反日感情が芽生えていったのです。そして日本では、日露戦争の勝利に沸き上がっていた1907年、その鬱憤がついに爆発します。「バンクーバー暴動」です。当時、白人社会で、アジア人排斥運動の急先鋒だったBC州の検事総長によって、嘘の報告が議会に提出されたのがそもそもの発端でした。その内容は『5万人の日本人の移民がやってくる』というもの。当時、白人社会の人口は7万人程度。そこに5万人がやって来るというデマはパニックを引き起こしました。5000人におよぶ白人群集が市役所前に集まり、日本人町を襲撃すべく移動を開始したのです。
この時、数千人にまで膨れ上がっていたパウエル街の日本人たちは、一致団結し、日本刀や木刀を振りかざし防戦したのです。この組織的な抵抗に、白人たちは驚き、撤退を余儀なくされました。結局、パウエル街の被害は、投石によって商店の窓ガラスが破損した程度で収まったのですが、このバンクーバー暴動を機に、カナダ政府は日本からの移民を年間400人に制限することを発表しました。しかし、皮肉にも自由な往来を制限したことが、日本人の定住を促進させることとなるのです。
パウエル街に定住を決意した日本人労働者たちは、安定した生活を求め、妻子あるものは妻や子供を日本から呼び寄せ、家庭を持つようになりました。しかし、独身男性は嫁を探そうにも、カナダには独身の日本人女性はほとんどおらず、日本へも自由に行き来が出来ない状態。そこで日本の独身男性たちが考え出した嫁探しの方法とは『写真婚』です。パウエル街の独身日本人男性たちは、日本にいる独身女性と写真を交換して、お互いに同意した時点で花嫁が海を渡る『写真婚』と呼ばれる嫁探しの方法を考え出したのです。ところが、中には、自分の容姿に自信がなかったためニセモノの写真を送ったり、立派な建物の前で借り物の服を着て金持ちを装うような写真を撮ったりと、トラブルも絶えなかったそうです。
家庭を持ち、子供が生まれると、次に考えなくてはいけないのは子供の教育です。
そのためパウエル街には、学校、病院、協会、新聞社などが次々と生まれていきました。そこで生まれ育ったカナダ国籍の2世たちが、巧みな英語力で両親の仕事を助けていったのです。バンクーバーで唯一の大学ブリティッシュ・コロンビア大に進学するものも現れましたが、白人社会での就職への門戸は依然、開かれていませんでした。
2世たちの中には勉学の世界だけではなく、スポーツの世界でも頭角をあらわす者もいました。1914年に日系2世の少年野球チームとして始まった朝日野球団は、彼らの成長とともに強くなっていき、ブリティッシュ・コロンビア州のシニアリーグに所属するノンプロチームへと発展。シニアリーグで幾度も優勝を果たす実力があり、彼らはパウエル街のみならず、アメリカの日系人たちにとってもヒーローとなりました。日系人街パウエルでの試合は、鈴なりの観客が囲み、巨人軍が1935年に北米遠征した際には、伝説の名投手・沢村栄治ともあいまみえているのです。 |
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しかし、そんな明るい兆しに暗雲が立ち込めました。1937年、北京郊外の蘆溝橋で日中両軍が衝突。日中戦争が勃発したのです。12月に南京を占領すると、カナダにいた中国系市民から激しい反発を買い、日本製品の不買運動が…。チャイナタウンとパウエル街は隣り合わせで、長い間、両者は上手く共存しあっていました。それだけに隣町の抗日運動はパウエル街にとって大きな打撃となったのです。やがて、ボイコットの輪は中国人への同情から他の移民やカナダ市民にまで広がっていきました。さらに、窮地に追い込まれた日系社会をどん底に陥れる決定的な出来事が起こりました。1941年12月7日、日本軍によるハワイ真珠湾への奇襲攻撃です。4分の3世紀もの歴史を歩んできたパウエル街の崩壊は開戦の日に始まりました。開戦の速報から2時間後にはカナダ警察によって多数の日本人が危険人物として逮捕され、更に、その日のうちに日本語新聞は発行停止処分、日本語学校も強制的に閉鎖されました。そしてついに、カナダ政府はBC州の全日系人を海岸線から100マイル以上離れた、荒れ果てた内陸部に追放することを決定。カナダの市民権を持っていようと、日本人の血が流れる者は全て「敵国人」と見なされ、48時間以内の強制移動が命じられたのです。その数、実に2万2000人。男たちは森林伐採の仕事や道路工事に従事させるために、各地の労働キャンプへと送られました。女性や子供は収容所に入れられ、家族は離れ離れに。極寒の地での強制労働は過酷を極めました。冬のロッキー山脈近郊の気温は氷点下40度にもなり、過労と空腹、そしてその寒さから命を落とすものもいたといいます。パウエル街に残してきた工場や住居など、全ての資産は押収され、政府によって強制処分されました。さらに、外出も制限され、会話をする自由さえも奪われたのです。それはまさしく地獄の日々でした。日系人は長年かかって築いたすべてのものを、文字通り一瞬にして失ってしまったのです。
戦争での強制収容はロサンゼルスの「リトルトウキョウ」でも同じでした。有刺鉄線と監視に囲まれた戦争捕虜収容所での生活に耐えられなかった多くの日系人はアメリカに忠誠を誓い、アメリカ軍兵士として戦地に送り込まれていきました。サンパウロでも、日系人は財産を没収され、営業活動も停止されました。1942年には、ブラジルは日本との国交を断絶し日本語の使用禁止、日本字新聞や雑誌の発行も禁止しました。
1945年、第2次世界大戦が終結すると、ロサンゼルスのリトルトウキョウには収容所から日系人たちが戻ってきました。敗戦国という惨めな境遇下の中、少しでも戦前の生活を取り戻そうと、「日本人町」復興のため、尽力したのです。そんな日系人の努力の甲斐もあり、各地で日本人町は復活しました。しかし、このバンクーバーのパウエル街だけは復興らしい動きは皆無でした。なぜなら終戦後、日系人はロッキー山脈の東へと移動するか、日本へ帰国するかの二者択一を迫られたのです。この政策の目的は、日系人をBC州から完全に退去させることでした。1947年にこの強制送還命令は取り消されますが、すでに多くの日系人がパウエル街を去った後で、その後、街に戻った日系人もごくわずかでした。しかも、そこには既に中国人やカナダの先住民族が住み着いていたのです。その後も、カナダでパウエル街のような大規模な日本人町が作られることはありませんでした。
日系人による長期にわたった補償要求運動がやっと実を結んだのは1988年になってからでした。カナダ政府を代表してマルルーニ首相が、議会において、日系人に対し公式に謝罪し補償が行われたのです。パウエル街はなくなってしまいましたが、この日本人町の消滅は、逆に、広大なカナダの各地にあるコミュニティーに、日系人が溶け込み、しっかりと根付くきっかけともなったのです。そして、あの強豪野球チーム『ASAHI』も、その功績が認められ、2003年にはカナダの野球殿堂入りを果たしました。今でも、パウエル街では、そこに日本人町があったことを忘れないために、毎年8月に『パウエル街祭り』が開かれています。 |