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空前の韓流ブームに沸くニッポン。その下地を作ったひとりが、ある映画をきっかけに韓国に興味を持ち、ハングルの猛勉強を開始したチョナン・カンです。日本と韓国の架け橋になりたいと願い、活躍を続けるチョナン。そんな彼の活躍から遡ること80年…抑圧された朝鮮人を救済するために情熱を燃やした、ある日本人がいました。日本人シンドラーと呼ばれた弁護士の壮絶な人生にスポットを当てます。
 
ことし、まさに日本中を席巻した韓流ブーム。大ヒットした映画、ドラマの影響で、これまで一部のマニアの間でしか知られていなかった韓国スターの名が、瞬く間に日本社会に知れ渡りました。ことしに入って地上波で放送された韓国ドラマは実に8本。いまや韓流スターは数多くのCMに出演し、数億とも言われるジャパンマネーを稼ぎ出す存在となっているのです。しかし、日本は一方的に韓国文化を輸入している、というわけではありません。このブームの4年も前、ひとりの男が海を渡って、いち早く韓国での活動を始めていました。それがチョナン・カンこと草なぎ剛です。ある映画をきっかけに、隣国である韓国に興味を持った彼は、ハングルの猛勉強を開始。日韓両国の間にまだ超えがたい壁が厳然と存在していた中、チョナンは単身韓国へと渡り、数々の歌番組やバラエティー番組、ラジオに出演しました。さらに韓国でのCDデビューも果たした彼は、遂にノ・ムヒョン大統領との会談も実現させたのです。そして2004年――チョナン・カンはついに、念願だった全編韓国語の映画「ホテルビーナス」に主演!モスクワ国際映画祭ではパースペクディブコンペティション部門で作品賞を受賞、韓国での公開も実現させました。また、今月末には「チョンマルブック2」の韓国発売が決定し、ソウルでのサイン会には多くのファンが集まったのです。


 
チョナン・カンがソウル・東京と何度となく海を渡り、活動してきたこの4年間、日韓関係には大きな変化がありました。日本から韓国への留学生は約2割増加、逆に韓国から日本へも3割近く増えているのです。さらに注目すべきは、日本人の韓国に対する親近感。1996年には60%もの人が「韓国に親近感を感じない」と答えていたのですが、ここ数年で「親近感を感じる」という意見が急増、去年はなんと55%にまで達しています。一方、韓国人も2003年の大統領諮問機関による調査で、中学・高校生の6割以上が「日本に好意を感じる」と答えるなど、確実に好感度がアップしているのです。こうした流れに拍車をかけたのが、韓国政府による文化解放政策!韓国でも日本の音楽や映画、そしてテレビ番組が見られるようになり、2003年末には、あのTUBEが韓国でニューイヤーカウントダウンコンサートも開催。そして先日の釜山国際映画祭では、稲垣吾郎出演の映画「笑の大学」が大絶賛を受けるなど、確実に文化交流が進んでいるのです。そんな中、先日公開が始まった映画「血と骨」。
ビートたけしが、己の欲望に忠実に生きる在日朝鮮人を熱演した、この超話題作の監督・脚本を努めたのが、ご自身も在日2世でもある崔洋一監督です。崔監督は1996年、ソウルの延世(ヨンセ)大学に入学、語学に加え韓国の近代映画史について学びながら、祖国の映画人と交流しているのです。一方スポーツ界では、日本人のプロ選手が初めて韓国に渡ったのは、実はつい3年前の2001年。韓国Kリーグ城南一和(ソンナムイルファ)と契約した海本幸治郎選手が第1号でした。ガンバ大阪で活躍していた海本選手は、入団テストを受け、韓国へ。2001〜2年とソンナムの連覇に貢献した海本選手は、現在、Jリーグ、グランパスエイトでディフェンダーとして活躍しています。そして今も、韓国Kリーグで活躍中の日本人選手といえば前園真聖選手。2002年に入団テストを受け、韓国安養(アンニョン)に移籍、今シーズンからは仁川(インチョン)でプレーしている前園選手は、9月・10月と足の指骨折のため休んでいましたが、11月3日から試合に復帰。ゴールこそまだないものの、確実に復活の兆しをみせているのです。一方、プロ野球選手として初めて韓国に渡った日本人といえば、巨人・ヤクルトなどで活躍していた入来智投手。2003年の1シーズン、韓国の斗山(トサン)ベアーズでプレーしました。
韓国の国技、テコンドーを日本に広くしらしめた人物といえば、シドニーオリンピック銅メダリスト・岡本依子選手です。12歳の頃、ジャッキー・チェンに憧れ空手を始めたという岡本選手は、学生時代に留学中のアメリカでたまたま訪れた道場で目にした、テコンドーに心を奪われました。以来、テコンドー一筋に修行を重ねた岡本選手。「世界で一番強くなりたい」と思い立った彼女は、本場・韓国への留学を決意。学費を稼ぎ出すため、パチンコ店でアルバイトをして、1997年、遂に韓国へ武者修行に。日本では敵ナシといわれるまで腕をあげた岡本選手のメダル獲得により、テコンドーは人気・知名度とも急上昇、競技人口も1万5千人近くに達しているそうです。


 
そんな中、先月12日、韓国政府はひとりの日本人に対して「建国勲章」を授与することを発表しました。「建国勲章」とは、韓国の独立に寄与した人物に贈られるもので、日本人の受勲は史上初めての出来事。その人物とは、弁護士・布施辰治です。韓国のMBC放送では、今回の勲章授与に先駆け、布施辰治の特集を組み、朝鮮人を救った「日本人シンドラー」として、その功績を称えたのです――。
第2次大戦中、ナチスドイツ支配下のポーランドで、命がけの活動によって1000人以上のユダヤ人を救ったドイツ人実業家、オスカー・シンドラー。
その名にちなんで、韓国で「日本人シンドラー」と呼ばれた弁護士・布施辰治とは、一体どんな人物だったのでしょう? 明治13年、1880年に宮城県の農家に生まれた布施は、子供の頃、いつも父親から熱心に社会問題について聞かされたそうです。特に話題に上ったのが、政治家・田中正造。足尾銅山の公害に苦しむ人々を救済するために政治生命を懸けて議会と戦い、ついには明治天皇に直訴まで試みた田中正造の献身的な生き様が、少年時代の布施に大きなインスピレーションを与えたのです。いつしかそれは、「弱者を、抑圧された人々を救おう!」という信念を築く礎となりました。成人した布施は、最難関と言われた当時の司法試験に合格し、検事に。国家権力を行使する立場にも拘わらず、彼の仕事振りは破天荒を極めました。貧しい人々や社会的弱者が、やむを得ず起こしたような事件に対して、片っ端から不起訴にして、罪を問わなかったのです。「外面的には権力者の立場にありながら、本質的には人民、特に農民の味方であろう」。布施のこの姿勢は当然上官から睨まれることになりました。1903年、ついに検事を退職し弁護士に転向すると、貧しくて弁護料も払えない獄中の人々を救うべく、無料で彼らの弁護を引き受けていったのでした。
一方、当時の社会情勢はというと、日清戦争、日露戦争に勝利した日本は、ますます帝国主義に拍車をかけ、1910年に韓国併合を宣言。これにより朝鮮は日本の植民地支配を受けることになりました。しかし抑圧されればされるほど、自由・独立を求める声は力を増していきます。1919年2月、東京の一角に朝鮮人留学生600人が集結し、日本からの独立宣言を読み上げたのです。これに対し警察は強制的に解散を命じ、多くの逮捕者が出ました。裁判は一審で有罪判決。彼らワラをもすがる気持ちで「弱きを助ける弁護士」布施辰治に救いを求めたのです。「独立を求めるのは正当な行為。これを弾圧するのはおかしい」。彼は喜んでこの依頼を引き受け、法廷で敏腕を振るいました。その結果、11名の被告人全員が実刑を免れたのです。
そんな中、未曾有の悲劇が東京を襲いました。1923年9月1日、関東大震災が発生したのです。25万もの家屋が倒壊し、14万人以上の死者・行方不明者を出した大惨事の中、こんなデマが流れました。「朝鮮人が井戸に毒をまく」「朝鮮人が大挙して暴動を起こす」。パニックに陥った一部の日本人は、無差別に在日朝鮮人を虐殺。実に3000人もの命が奪われたのです。この大混乱の中、一台のオートバイが被災地を疾駆していました。そのサイドカーに乗っていたのは、布施辰治でした。「今こそ民衆のため私生活を投げ出そう!」
そう奮い立った布施は、危険を顧みず、東京中を回って被災者の救済に奔走。そして、朝鮮人を始めとする困窮した人々に食料を提供するなど、救いの手を差し伸べたのです。震災後の混乱も収まり、人々がようやく活気を取り戻してく中で、引き続き、抑圧された朝鮮人たちの人権擁護に尽力していく布施。時には海を渡って、朝鮮本土に乗り込むこともあったそうです。こうした反体制的な活動に業を煮やした日本の官憲によって、彼はついに逮捕。弁護士の資格を奪われ、2度にわたる獄中生活を余儀なくされました。
しかし、そんな布施を朝鮮の人々は見捨てませんでした。彼らは団結して、弁護士資格剥奪に抗議。留学生たちは、布施の経済的な支えになろうと彼の自宅に押し寄せ、家に住み込んで下宿費を払うと言って聞かなかったといいます。
人々のために戦いたい…しかし弁護士の資格が奪われ満足な活動が出来ない――布施は苦悶しました。彼が復権し、再び弁護士として法廷に立つのは、終戦後の事でした。そして迎えた1948年。38度線によって南北に分割されたものの、朝鮮民族は悲願の独立国家を樹立。布施はこの朗報を我が事のように喜んだそうです。1953年、73歳でこの世を去るまで、弁護士として生涯を貫いた布施辰治。彼が眠る、東京・豊島区の常在寺に建てられた記念碑には、その信念が深く刻まれています。「生きべくんば民衆とともに、死すべくんば民衆のために」と。

布施の死から約半世紀。韓国政府は彼の功績を称え、独立に貢献した者だけに贈られる「建国勲章」を布施辰治に授与することを決定しました。勿論、日本人としては史上初の受章です。実は数年前から、彼の活動を評価する運動が起こっていたのですが、韓国の国民感情を配慮して、正式授与は見送られていました。だが、近年の日韓の相互理解が深まる中で、遂に政府が決断を下したのです。布施が心血を注いで築き上げた固い絆は、今、大きな掛け橋として、日韓両国の人々の間に渡されました。そして、その一端を担う男チョナン・カンも新たな挑戦を開始しています。在日韓国人として様々な苦労を重ねながら、世界的なバイオリン製作者として大成した陳ショウゲン氏の波乱万丈の人生を演じることになったチョナン。日本の韓国の架け橋になりたい、と願う彼の今後の活躍に期待しましょう!!
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