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特集

2019年11月26日

昭和天皇とバチカン…幻の終戦工作

原田公使は、キグリーからの2回目のメッセージを、再びバチカンの外交官を介して受け取った。原田公使は6月12日付で『米側の公の地位に在る者と日本とを非公式且つ極秘裡に会談せしめ、両者の接近を図らんとしたるものなり』というキグリーの言葉を東京に送った。しかし、これにも反応はなかった。名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は「当時、日ソ中立条約が締結されていたので、アメリカとの交渉の仲介というのはソビエトにしてもらうということに決まっていた。決まっていたからこそ反応しなかったと思う。その(原田公使の)電報自体も昭和天皇にあげなかったと考えられる」と指摘する。
原田公使が電報を送った2カ月後、広島と長崎に原爆が投下され、悲惨な戦争が終わった。戦後、キグリーは著書に「これが成功していれば、戦争の終結を6週間早め、原爆の使用を回避できたかもしれない」と書き残している。敗戦の翌年、昭和天皇は側近に「開戦後、法皇庁(バチカン)に使節を派遣した。之は私の発意である。充分なる活動の出来なかった事は残念な事であった」と漏らしている。原田公使が昭和天皇の考えを知ったのは帰国した後だった。その後、どういうめぐり合わせか、宮内庁式部官長として昭和天皇に仕えることになった。原田式部官長は「戦後、木戸(幸一)日記で初めて知った。陛下(昭和天皇)が和平の準備のために必要だと強く主張されて、バチカンに大使館が置かれたということを。私は何のお役にも立てなかった」と語っている。オロリッシュ枢機卿は「昭和天皇はローマ法皇庁(バチカン)が中立であることをよくご存じだった。“戦争の出口”を作りたい場合は、中立の政府を通すことしかできない。でも、できなかったということは、とても残念。できなかったということは、広島、長崎が大変なこととなった」と語る。

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