あの中庭に帰りたい |
たとえどんな素晴らしい学校を紹介されたとしても、
もう一度高校生をやり直すなら、わたしは母校に入りたい。
友達も多くなかったし、勉強についていくのはやっとだったけど、
あれだけ楽しい3年間は他のどこの高校でも送ることが出来ないと思う。
なぜそんなに母校にこだわるのかと言うと、わたしは母校のオンボロ校舎が大好きだったからだ。わたしの青春はあの校舎なくして語れない。
こんなことを書こうと思ったのは、先日母校に行ったことが原因である。
愛して止まなかった母校に久しぶりに帰ったわたしは、どんなリゾートで休暇を取るよりも効果的な充電をしたように思う。
そこで、書いてみたいことがあるのだ。
まず母校がどんな高校で、わたしがどんな高校生だったかを話しておきたい。
創立から建て替えられたことが無い校舎はわたしが在学していた当時で50歳弱。
時代錯誤な、でもとってもイイ味を出している学校だ。
4棟に分かれた校舎はほとんどが2階建て。
一番高いのは後から出来た新棟で、そこでもやっと3階だ。
3棟なんかは平屋建てで、生物室や科学室といった理科の実験室が入っているだけである。
最も多摩川寄りの4棟は多摩高校の一番奥、すなわち「奥多摩」なんて呼ばれたりした。
その4つの棟が平行に建てられていて、野球部の男の子は、見事なピッチングで、教室にいながらにして向こうの棟の友達と物のやり取りを出来る、そんな構造だ。 |

母校の見取り図、手書きです |
校内を散歩しながら、面白いスポットを探すのがわたしの楽しみだった。
もともとは放送部の大会で読むアナウンス原稿の取材ということで歩いていたのだが、それは段々趣味と化していった。
時にはカメラを持って、アイスを持って、わたしは学校内をふらふら、ふらふらした。
家族も同じ高校だったこともあり、わたしは母校の歴史にも興味があった。
この行事はいつからあるんだろう?
この建物はいつからこうなったんだろう?
わたしはどうもこういうことに興味を持つらしい。気になって気になって仕方なかったのだ。
放送室の隣の、いつもはほとんど利用されていない小会議室には歴代の卒業アルバムがしまってあることに気がついたのは高校1年の秋だっただろうか。
それ以来、暇が出来ると小会議室にこもって昔のアルバムをひっくり返しては、そこに映る母校の写真をくまなく調べた。黄色くなった資料を読み、古くから居る先生に話を聞く…わたしは校舎オタク、学校の歴史オタクだったのだ。
その中で最もわたしの興味を引いたのは、中庭だった。
中庭は、またの名を「憩いの庭」といい、先述の2棟と3棟の間にある。
鬱蒼と茂った緑の中に、何だか分からない白い塑像が無造作に配置され、昼間でもなんとなく静かで不気味な庭だ。 |

これが現在の中庭…汚いでしょう?(笑) |
中庭のど真ん中にある池をわたしはこよなく愛した。
その池は「かわうその池」と呼ばれていた。
でも本当は「しろくまの池」が正しいことをわたしは突き止めていた。昔はそう呼ばれていたのだ。それがどこからかかわうそになった。
これはわたしなりのスクープで、みんなに声を大にして伝えたかったのだが、なかなかそんな機会も無かった。仕方ないから、わたしはこれを放送部の大会で読むネタにしたのである。
しろくまたちは昔、真っ白な塑像で池から動かすことが出来た。
教室でみんなと一緒に授業を受けたり、イチョウの並木道(通称・アベック通り)で座っていたりしたそうだ。
これが池にコンクリートで固められたのが、どうも創立から15年くらいが経ったときのことらしい。その時しろくまたちに一体何があったのだろうか?今は知る由もない。けれども、それからずっとしろくまたちはあの憩いの庭に閉じ込められてしまった。
雨風にさらされるがまま、黒ずんでいく彼らのことをいつしか生徒たちがかわうそと呼び始めたのだろう。
そんなことを考えながら、池の前で突っ立ったまま動かないわたしをしろくまたちは何と思っていただろう?
何度も見ているうちに、わたしはすっかり彼らを好きになっていた。
放送部の大会で、しろくま(かわうそ)のネタを読んだわたしは県大会でそれなりの結果をおさめた。大会の会場で「しろくまの人」と指さされたことだけはハッキリ覚えている。この喜びを誰に伝えたいですか?とヒーローインタビューされたなら、わたしはきっと「しろくまたちです。」と答えたに違いない。
大会明けの月曜日、真っ先に向かったのはやっぱり中庭だった。
話しかけることこそしなかったけど、しろくまたちに向かってペコッとお辞儀をした。
そのとき見たしろくまたちはなんとなく楽しげだった。 |

当時はテニスボールを持たされていました。 |
それ以来、何かにつけて、しろくまたちに会いに行った。
全国大会に行くことが決まったとき、文化祭でひとりで写真展を開いたとき(校舎好きが高じてひとりで学校の写真展まで開いた)、進路に迷ったとき、そして卒業式…しろくまたちはただの塑像ではなく、わたしの心のよりどころになっていたのだった。 |

モノクロ写真は写真展で使ったものです。 |
さて、そんな愛校心の塊、いや、愛「中庭」心のわたしが。先日母校に帰ったことは先ほども話したが、これは放送部のOGとしてのことだった。
社会人になって母校に入るのは初めて。それでもやっぱりわたしはまず中庭に向かった。
少し風景を変えた中庭の真ん中で相変わらずの彼らの姿があった。
恩師に顔向け出来ないようなことはしない!とでもいうような感覚で、
わたしは今もしろくまに顔向け出来ないような事はしないゾと思っている。真剣に思っているのだから笑ってやって欲しい。 |

相変わらずの汚れ具合でした |
会いたかった。
とても会いたかったんだということに会って気がついた。
会わないようにしていたことにも気がついた。
社会人まる3年を振り返ってみて、しろくまたちの前に立てるかな?ちょっと怖かったのだ。 |

わたしが一番好きなしろくまちゃん |
しろくまたちは、何も言わなかったけど、10年前のわたしが見ていた表情とは違う顔でわたしを見ていた。
わたしが年を取ったのか、しろくまたちが年を取ったのか。わからないけど、しろくまたちは笑っていた。暢気な顔で。 |

風で服が膨らんでいますがおなかが大きいわけではありません。 |
こうして恒例のお参り(?)が済んで、後輩たちの指導をすることになったのだが、指導というより、学校の思い出話に花が咲いてしまった…。
今母校に通う1年生は、わたしと10年の年の差があり、通う全員が平成生まれだという。 |

後輩が一緒に写真を撮ってくれました。 |
仕事に向かう姿勢は、あのしろくまのことを調べていたときと同じ好奇心と愛情を、と思っているけれど、いつの間にか時は経った。
「かわうそと呼んでいる彼らがしろくまだった!」という大スクープを抱えて、興奮のあまり渡り廊下を遅い足で駆け抜けていった頃はもう10年も昔のことなのだと思うと驚く。
そろそろ、この季節になると母校の校門のそばでは、小さなかえるが大量発生する時期だなぁと、これを書きながら、窓の外で滝のように降る雨を見ながら思った。
今度しろくまたちに会えるのはいつのことだろう。
それまで、元気でいてね。 |