「愛情表現」って難しい。
ここぞとばかりに「愛している」と言うのは作為的な気もしてしまうし、
ふとしたときに温かさを感じるのが、
家族の愛かもしれない。
なんて、ちょっと重たい感じで始めてしまいましたが、
「愛のカタチ」について、ちょっと考えた出来事があったので。
夫に対して、、いえいえ、娘に対してです。
先日、私がもう泥のように疲れてしまっていたとき、
そういうときに限って(そういうときだからこそ、なのかもしれませんが)
娘が「靴下がぐちゃっとなった」「ズボンが気に入らない」などなど、
どうでもいいことでは・・・と思うようなことでぐずりだし、
日が悪いというか、それを受け止める余裕ゼロの状態の私。
爆発ギリギリのところで、
「今日のお母さんはいつものお母さんじゃなくて、
とってもイライラしているから、少しひとりにしてほしい」と
半ば叫ぶようにして言ってしまいました。
これまでの娘だったら、私のイライラをまともにとって、
さらにワーッと泣く・・・というのがパターン。
でも、3歳10ヶ月の娘は、涙を浮かべながらこう言いました。
「分かった・・・。いつものお母さんに戻ったら、絶対にこっちにきてね」
もうこの時点で、私の負けですね。
私の方が娘のことを愛している、と思っていましたが、
相手の愛の大きさに、完全に飲み込まれました。
怒りはそう言ってもらえた時点で、消えてしまいました。
お子さんを持つ方は、みな口を揃えて「子どもに教えてもらうことは大きい」と言います。
これまで、子育てを通して忍耐や寛容などを学んだつもりでいましたが、
それよりもはるかに高い次元で、
「子どもに教えられる」というのは、こういうことかと、合点がいった瞬間でした。
ダメな母と落ち込むこともありますが、
そんなときに「愛の大きさ」に気づいて立ち直る。
これからもそういうことを繰り返していくのでしょう。
私と娘のことを書きましたが、
夫と去年我が家にやってきた猫プラトンのことも。
猫の飼い始めは、
プラトンが悪さをしないだろうかと腰が引けていた夫ですが、
ふと夜中に目を覚まし隣の夫を見遣ると、
膝にプラトンを抱え、何かぶつぶつと話しかけながら撫でている、
そんな光景もしばしば。
餌やりやトイレの掃除などは私が引き受けているわけですが、
なぜかプラトンは夫のほうに懐いています。
そしてこの頃は、
洗濯物が干してあるとジャンプして飛びつき、
夫の靴下だけを狙い、それを自分のスペース(ダンボールですが)に持ってくる。
そして、なにやらカミカミしてじゃれているのです。
プラトンが欲しがるのは、夫のものだけ。
夫の靴下。夫のパンツ。夫のストール。
夫の存在を確かめたいかのように、
夫がいないと落ち着かないんだと言わんばかりに。
そして、じゃれ付かれて毛がついた靴下を手にした夫も、
仕様がないな、、といいながらまんざらでもない様子。
これも、我が家の「愛のカタチ」ですね。
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