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2月17日 愛のカタチ。

「愛情表現」って難しい。
ここぞとばかりに「愛している」と言うのは作為的な気もしてしまうし、
ふとしたときに温かさを感じるのが、
家族の愛かもしれない。
なんて、ちょっと重たい感じで始めてしまいましたが、
「愛のカタチ」について、ちょっと考えた出来事があったので。
夫に対して、、いえいえ、娘に対してです。

先日、私がもう泥のように疲れてしまっていたとき、
そういうときに限って(そういうときだからこそ、なのかもしれませんが)
娘が「靴下がぐちゃっとなった」「ズボンが気に入らない」などなど、
どうでもいいことでは・・・と思うようなことでぐずりだし、
日が悪いというか、それを受け止める余裕ゼロの状態の私。
爆発ギリギリのところで、
「今日のお母さんはいつものお母さんじゃなくて、
とってもイライラしているから、少しひとりにしてほしい」と
半ば叫ぶようにして言ってしまいました。
これまでの娘だったら、私のイライラをまともにとって、
さらにワーッと泣く・・・というのがパターン。
でも、3歳10ヶ月の娘は、涙を浮かべながらこう言いました。
「分かった・・・。いつものお母さんに戻ったら、絶対にこっちにきてね」

もうこの時点で、私の負けですね。
私の方が娘のことを愛している、と思っていましたが、
相手の愛の大きさに、完全に飲み込まれました。
怒りはそう言ってもらえた時点で、消えてしまいました。

お子さんを持つ方は、みな口を揃えて「子どもに教えてもらうことは大きい」と言います。
これまで、子育てを通して忍耐や寛容などを学んだつもりでいましたが、
それよりもはるかに高い次元で、
「子どもに教えられる」というのは、こういうことかと、合点がいった瞬間でした。

ダメな母と落ち込むこともありますが、
そんなときに「愛の大きさ」に気づいて立ち直る。
これからもそういうことを繰り返していくのでしょう。

私と娘のことを書きましたが、
夫と去年我が家にやってきた猫プラトンのことも。

猫の飼い始めは、
プラトンが悪さをしないだろうかと腰が引けていた夫ですが、
ふと夜中に目を覚まし隣の夫を見遣ると、
膝にプラトンを抱え、何かぶつぶつと話しかけながら撫でている、
そんな光景もしばしば。
餌やりやトイレの掃除などは私が引き受けているわけですが、
なぜかプラトンは夫のほうに懐いています。

そしてこの頃は、
洗濯物が干してあるとジャンプして飛びつき、
夫の靴下だけを狙い、それを自分のスペース(ダンボールですが)に持ってくる。
そして、なにやらカミカミしてじゃれているのです。
プラトンが欲しがるのは、夫のものだけ。
夫の靴下。夫のパンツ。夫のストール。
夫の存在を確かめたいかのように、
夫がいないと落ち着かないんだと言わんばかりに。

そして、じゃれ付かれて毛がついた靴下を手にした夫も、
仕様がないな、、といいながらまんざらでもない様子。

これも、我が家の「愛のカタチ」ですね。

   
 
    
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