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Vol.36 4月13日 『秒速5センチメートル』

この映画を観て以来―。
舞い落ちる桜のスピードが気になって仕方ありません。
指先に乗ったひとひらは、コンタクトレンズと同じ大きさでした。

霞は、裸眼かまどろみか。
何にせよ、視界のすみずみまで春です。

 

(C)Makoto Shinkai/CoMix Wave Films

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『秒速5センチメートル』

「秒速5センチメートルなんだって」
「え、何?」
「桜の花の落ちるスピード」

小学校の卒業と同時に離ればなれになった、少年少女。

【第1話】 桜花抄
【第2話】 コスモナウト
【第3話】 秒速5センチメートル

一人の少年を軸として描かれる、連作短篇アニメーション。
少女との再会、
高校時代の少年を見つめる別の少女からの視点、
社会人になった彼らの日々が、時と共に語られていく。

草の影、水溜りを滑る桜の花びら。
沿道の自動販売機、上下線の電光掲示板。
  

何気ない場所の、何気ない瞬間が、息を飲むような色彩で刻まれる。
風景は現実の後ろで、正しい位置に、正しい配色で、整然と佇む。
そして、人物よりも雄弁に心象を語る。

会いたいのに会えない、伝えたいのに伝えられない。
どうしようもなく辛い状況も、彼らを取り巻く景色を前にすると、
柔らかな温かさに包まれる。日々はこんなにも美しかったのか…と。

では、この作品は、水彩タッチのただただ甘酸っぱいお話なのか。

純然と輝く背景が、何故あんなに美しかったかを、最後の5分間で知った。
美しく「見えた」のかを。

それは、振り返った時の景色だったから。

そう言えば―。
昔から、過去の記憶を辿る時、まわりの景色だけは妙に覚えているものだった。

通い慣れた道沿いの、レンタルビデオ店の看板。
入学式当日の、曖昧な曇り空。
 
肝心のことはおぼろげなのに、輪郭だけは、色彩や匂いや温度までもが鮮明だ。
当時の記憶を映像化するならば、
人物だけが影絵で、吹き出しも真っ白で、背景だけがくっきりと浮かぶ。

知らず知らずのうちの、自己防衛なのかもしれない。
記憶の真ん中を、ドーナッツのようにぽっかりと空けておく。
あまりに楽しいことを思い出せば、また、戻りたくなってしまう。
あまりに辛かったことを思い出せば、もう、前に進めなくなってしまう。
引き戻された後に、自分までもがぽっかり空いてしまわないように。

在りし日の景色が特に滲んで迫るのは、何故か桜の季節だ。
瞬時に咲いて、記憶が巻き戻り、瞬時に散り、なかったことになる。

時間の隔たり、人との距離、忘れゆくスピード。
幾重もの、出会いと別れ。
 
映画館から出て―。
美麗な世界を見た後は、今いる現実までもが澱みなく映ることがある。
今回は、違った。

過去は過去。 
それでも、日々は続いていく。
 
猥雑で、混沌としていて、でも、力強い光景。
桜が散った後の、葉桜の情景に似ていた。

♪作品データ♪
『秒速5センチメートル』
監督/原作/脚本: 新海誠
声の出演: 水橋研二、近藤好美、尾上綾華、花村怜美
配給: コミックス・ウェーブ・フィルム/2007/日本
※公開中 渋谷シネマライズほか全国単館系映画館にて順次公開

『秒速5センチメートル』公式サイト
http://5cm.yahoo.co.jp/

   
 
 
    
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