前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー
 
 
5月19日 フィギュアスケート山田満知子コーチの選手育成マジック

今からちょうど1年ほど前でしょうか、スポーツの将来のあり方を考えるある会議で、山田満知子コーチとご一緒しました。
会議に参加された方々は、それぞれのスポーツ観やコーチとしての大切にしていることなどを披露してくださったのですが、私は、山田満知子コーチの言葉に稲妻に打たれたように感動をいたしました。

「やっぱりね、だから・・・」と頷いたのです。
そして作ったのがこの企画です。報道ステーションで2011年3月3日に放送されました。

*******************************************************************

2010年12月11日 フィギュアスケート・グランプリファイナル北京大会。

宮嶋:「フィギュアスケートの華やかな世界大会、そのリンクサイドにあの名コーチの姿が久々に戻ってきました。」


 

山田満知子コーチ 67歳です。

昨シーズンのジュニアチャンピオン、16歳の村上佳菜子選手は、今シーズンからシニアの大会に挑戦し、山田コーチの指導の元、快進撃を続けています。

シニアの世界大会で山田コーチがリンクサイドに立つのは実に5年ぶりのことで、一時心配された体調も戻り、パワー全快です。



GPファイナル 3位入賞の村上選手と抱き合う山田コーチ


2005年12月のグランプリファイナル東京大会。
このとき山田コーチがみていたのは浅田真央選手でした。
ジュニアからシニアに上がったばかりの真央さんはこの大会でいきなり優勝し、世界のアイドルとなりました。





浅田真央選手 優勝


山田満知子コーチといえば、思い出すのが、伊藤みどり選手です。
1992年アルベールビルオリンピックで、女子選手として初めて3回転半トリプルアクセルを飛び、銀メダルを獲得しました。
山田コーチは日本人がフィギュアスケートで戦えることを実証したのです。

若い選手たちの力をぐいぐい引き出し、みんなに愛される選手を作る山田コーチ。
いったいどんな魔術を使うのか、それを探ってみることにしました。

佳菜子:「楽しいって思いながらスケートをやれているのは、先生のおかげなので。」

真央:「満知子先生のところに初めて入ったときに、スケートってこんなに楽しいことがたくさんあるんだって驚きました。すごくいろいろな面白いアイディアを持っていて」

みどり:「子どもの心を揺さぶるっていうんですか、やる気にさせるっていうんですか。そういうのはとても上手。」


  

  

  


山田コーチの存在が世間に知られるようになったのは、伊藤みどりさんのコーチとしてでした。

みどりさんは88年のカルガリーオリンピックで、ダイナミックな5種類の三回転ジャンプを7回飛んで、フリーの演技得点では最高点をたたき出し、美を競う女子フィギュアスケート界に革命を起こしました。フィギュアスケートをスポーツにした選手といってもいいでしょう。

さらに、19歳で日本人として初めて世界選手権で優勝を果たし、これをきっかけに満知子コーチはトップスケーターを育てる名コーチと言われるようになりました。

しかし満知子コーチ本人にはそうした意識は毛頭無いようです。

山田:「優秀な選手をみることをしたいというタイプではないので。子どもと一緒に楽しんでがんばってというのが好きなので。」


 


その典型が、今から35年前、5歳だった伊藤みどりさんとの出会いでした。
11歳になったみどりさんは全日本選手権で3位に入賞し、ジャンプの天才少女現ると称され、海外の試合にも出場しました。



1981年 全日本選手権3位入賞 (史上最年少11歳)  

宮嶋:「外国どうだった?」
みどり:「すごい、みんなね、日本と違って応援いっぱいいるの。私日本人でも外国人でしょう。どたどたって(足を踏み鳴らして)応援してくれるの。」
宮嶋:「身長と体重をいってみて。」
みどり:「身長が123センチ24キロ」


 


中学生になると、早朝と夜に行われる練習時間は一日6時間になり、練習をこなすために満知子コーチは自宅にみどりさんを引き取って、一緒に生活をするようになりました。


  

しかし、満知子コーチの悩みは次第に大きくなっていきます。

山田:「実はみどりも一度クビにしているんですね。」

みどり:「やるぞと思うとビビッとやるんですけれど、やりたくないと思ったら、やらないって言う感じで、練習をまじめにやらない人で有名でしたね。」

山田:「上手な子を先生は見たいんじゃなくて、先生と一緒にがんばっていく子どもがすきと」

みどり:「靴、ゴミ箱に捨てられましたね、そんなにやる気ないならって。」


 

そんなみどりさんの態度をがらりと変える一言が、ある日、山田コーチの口から出たのです。

みどり:「女子で誰もやったことのないような技を「トリプルアクセルでもやってみたらどうよ」みたいな形で冗談で言っていたら、「うんうん、やるやる」みたいな感じでやりだして、そしたら、一気に練習量は増えましたから。」

宮嶋:「トリプルアクセルというのは練習嫌いのみどりちゃんを(練習)好きにさせるための道具だった・・?」

みどり:「実はそうなんです。伊藤みどりをいかに練習させようかと考えたら、トリプルアクセルだったんです。」


  

  

  

そして迎えた1992年のアルベールビルオリンピック

実況:「トリプルアクセル!きまった!!」

女性初のトリプルアクセルは、練習嫌いの少女を何とかさせたいという山田マジックの賜物でした。
この瞬間、フィギュアスケートは新たな世紀への扉を開けたのです。

試合後、満知子コーチの言葉がすべてを語っていました。
山田:「いろいろありましたのでね、二人よく喧嘩をして、でも本当によかったです。」


  

名古屋の大須にあるリンクで、満知子コーチはこの45年間、数多くの子どもたちを指導してきました。

浅田真央さんも、小学5年生から5年間、込み合うリンクの中で、満知子コーチの指導を受けてきました。

ジャンプを教えることでは定評のある満知子コーチ。その中に、真央さんが大好きな練習がありました。


 

真央:「ジャンプとびというのがあるんですが、先生が、あなたはこのジャンプを跳びなさいといって、跳べたらいろんなぬいぐるみとか景品とかをくれるんです。すごく楽しかったです。」

ただ楽しかっただけでなく、この「ジャンプとび」には、驚くべき効果があったのです。

真央:「この時に跳ぼうと思って跳ぶのは、本当に試合と同じ感覚になるので、そういう部分では本当によかったんじゃないかと思います。」



選手が楽しくスケートを出来るようにと工夫する裏には、満知子コーチ自身の子どものころの苦い体験がありました。

旧姓木下満知子、戦後まもなく、スケートを始め、国体での優勝経験も持っています。



山田:「(スケート)連盟の方たちとか、父たちが書類を取り寄せたりしていろいろこうじゃないか、ああじゃないかと教えてもらったんですけれど、楽しくないの。スケートの練習があんまり好きじゃなかったから、自分がコーチをするようになってから、楽しくさせてあげたい。スケートをって思っていました。子どもたちが先生のところに行きたい、リンクでみんなに会いたいとか、何でもいいけど、リンクが楽しい場所であれば子どもたちの青春もいいんじゃないかと思って。」

山田コーチは子どもが喜ぶつぼをよく心得ています。
2002年、真央さんが小学6年生で全日本選手権に初出場するとき、山田コーチが選んだ衣装は、かつて伊藤みどりさんがかつて着ていたものでした。


 

  

真央:「もう、信じられなくて、でも不思議と試合にそれで出たときにすごくよくて、みどりさんのパワーが入っているんだというのをすごく感じました。」


*******************************************************************

次のページへ>>
   
 
    
前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー