ダボスの町並み
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なんだか気持ちが悪いほどの偶然で、カトリン・ドーレに会いました。
私が大好きな選手の一人にドイツのカトリン・ドーレ選手がいます。彼女は日本で最も知られている外国選手の一人と言ってもいいでしょう。この15年間で日本のマラソン大会への出場回数が一番多い外国選手ですものね。
そのドーレと偶然思わぬところで出会ったのです。
女子マラソン世界最高記録保持者のロルーペの取材でスイスのダボスへいった時のことです。ダボスは標高1500ートルの高地で、夏は避暑地、冬はスキーの基地として古くからにぎわっている町ですが、最近ではヨーロッパのマラソン選手たちが高地トレーニングに使うことでも知られています。 ちなみに、日本の市橋有里選手も、当初ダボスで高地トレーニングをする予定でしたが、急遽ダボスから車で1時間ほど移動したところにある、サンモリッツと言う町で合宿を行っていました。
取材に出かけようと、ホテルの部屋を出た時です。ちょうど私の隣の部屋から金髪の家族連れが出てきたのです。ちょっと太った男性に、細身の妻、10歳ぐらいの女の子が楽しそうにドイツ語で笑い合っています。聞き覚えのある声に振り返ってみると、なんと、ドーレ一家ではないですか。もう、びっくりです。
カトリン・ド―レ
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半信半疑で「カトリン?!」と声をかけると、相手もこちらをじーっと見つめています。
「ええ? 何であなたがこんなところにいるの?」と一瞬妙な間があって・・・・
その後は「ヤアヤア」と久々の対面に大はしゃぎ。
ドーレは東京国際女子マラソンに6回もやってきています。テレビ中継の資料を作るために来日する度に1時間ほど顔をつきあわせてみっちり取材をしていたので、お互いによく知っていました。 さらに、1年半ほど前、東京国際女子マラソン20周年を記念して、日本で最も知られている外国選手ドーレの番組を作ることになり、スペインに練習風景を撮影しに行っていました。そんなこんなで、お互いに大変近しく感じあっていた仲でした。
当然話はシドニーのことになります。
「シドニーも代表に選ばれているの?」
「ええ、でも、まだ出場するかどうかわからない。」と答えるではないですか。
11才になったカタリーナ
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聞けば、去年の段階でドイツ代表として、シドニーに行く権利は得ているものの、4月に左脚のかかとを手術したとのこと。2年前から痛みがあったところだそうで、かかと近くの足首のちょうどアキレス腱の内側あたりに、7センチほどの手術後がありました。19ミリ×20ミリの軟骨を取ったのだそうです。
「今日から、本格的にトレーニングを開始するためにダボスに来たの。オリンピックに出たいのは山々だけれど、練習を再開してみて、トップで闘えそうでなければ出場はしないわ」とさびしげに付け加えたのです。
確かに4月に手術をして、本来の彼女の力を9月までに取り戻すのは並大抵のことではないでしょう。しかし、私はドーレがシドニーで走る姿を見たい!御願いだから、カムバックして!と願わずにはいられませんでした。
東ドイツの代表として、22歳の時にロサンゼルスオリンピックの代表に選ばれたドーレ。残念ながら、東側がロサンゼルス五輪をボイコットしたために、彼女の走りを世界の人が見ることはありませんでしたが、その力は84年の大阪国際と、東京国際で軽く優勝を手に入れたことでもわかります。
アルバムを見せてくれるド―レの家族
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88年ソウル五輪が銅メダル。
91年東京の世界選手権3位。
92年のバルセロナ5位。
96年アトランタが有森のすぐ後にゴールして4位。
これほど安定して長きに渡って上位に食い込んできた選手はそういません。
今回も国の代表に選ばれているということは、84,88,92,96,00と5回のオリンピックのマラソンの代表になっているということです。東ドイツの体制の中でエリート選手として育てられたドーレが、国家の崩壊、練習環境の激変、さらには結婚、出産を経て、プロ選手としての独立をするここまでの道のりは決して平坦ではなかったはずです。
この20年間ドーレは時代の大きなうねりにのみこまれながら、黙々と走り続けてきました。そんなドーレを私は尊敬のまなざしで見つめます。
11才カタリーナのフォーム
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一度のオリンピックに彗星のように現れて見事な記録を出してさっと引退していった選手、例えば84年のベノイト(米国)のような選手もいます。(後にベノイトも出産後アトランタ代表の座に挑戦して夢やぶれました。)そうした選手も素敵ですが、優勝はしていないけれど、必ず五輪のレースで名脇役的な走りを見せる選手、ドーレのような選手に私はより強い魅力を感じるのです。重戦車のようなあの走りを、シドニーでもう一度見たいと願うのは私だけでしょうか。
ドーレが見せたい物があるというので部屋に行ってみると、夫のウオルフガングと一人娘のカタリーナちゃんがアルバムを楽しげに覗いています。
「カタリーナが11歳になってね、最近1000メートルのレースなどに出場するようになったの。走り幅跳びや、800メートルでは私の娘時代の記録をもう上回ったのよ!」
そう話すドーレの顔ったら、もう目尻が下がって、ホントにやさしいお母さん。
レースの時に見せる無表情な厳しさは微塵も感じられません。
丁寧に説明してくれるド―レ
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ドーレが開いたアルバムのページにはカタリーナが地元の大会で懸命に走る写真がきれいに貼ってあり、その横には記録が載っている新聞の記事も几帳面に貼り付けられていたのです。
「私たちは3つのアルバムを持っているの。一つは娘のためのもの。もう一つはカタリーナのおばあちゃんのためのもの。そして、最後に、私たちのためのもの」
ドーレ自身も、母から同じように、アルバムを作ってもらっていました。ライプチヒのドーレの家でかつてそれらを見せてもらったことがあります。丁寧に切り抜かれた新聞の写真と、母の直筆のメモの数々。インクで小さく丁寧に書かれた文字からは、東ドイツの静かな夜、娘の成長を生き甲斐にしながら、一ページ一ページアルバムを作っていたのであろう母親の深い愛情が伝わってきたことを思い出しました。
新聞の切り抜きもファイル
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今、時を経て、ドーレはアルバムを作りながら同じように満ち足りた時間を過ごしているのでしょう。もちろん、怪我で心中穏やかではないかもしれません。でも、娘の成長が彼女の心を癒してくれる。こんな家族って素敵だなと思わずにはいられませんでした。
カトリン・ドーレ 38歳。ここにも走ることを中心に生きている女性の美しい姿がありました。
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カトリン・ドーレ・ハイニッヒ
1961年 10月6日 ライプチィヒ生まれ
170センチ 56キロ
自己ベスト 2時間23分33秒
84,85,87, 東京国際優勝
84,91,96,97 大阪国際優勝
86,91 名古屋優勝
92,93,94 ロンドン男女通じて初の三連覇
88 ソウル五輪 3位
92 バルセロナ 5位
96 アトランタ 4位43レースに参加して、24レースで優勝。
勝率は5割を超える。
2時間30分以内で走ったレースは21回を数える。 |