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2月14日 てら散歩  「東海道五十三次」広重のあの絵の場所を訪ねる


16 由比



由比(安藤広重)    
 
薩埵峠(静岡市清水区由比西倉澤)

由比の宿のあった場所には古い町並みが今も残り、本陣の跡には由比本陣公園や交流館、広重美術館があります。当時の佇まい、生活文化を体験できるようになっていました。



由比本陣公園   
 
由比本陣の沿革
由比宿は小宿で、ここ一軒だけが本陣でした。屋敷の広さは、間口三十三軒(60メートル)奥行四十間(73メートル)面積は千三百坪(4300平方メートル)あります。この地に由比宿が定められたのは慶長六年(1601)徳川家康によって伝馬三十六匹の提供を命じられたことにはじまり、さらに大名等の休泊施設としての本陣や荷物運搬の人馬を手配する問屋場などが整備されていきました。…
(旧)由比町教育委員会の説明札


正雪紺屋   
 
「由比宿」案内板

本陣跡の向かい側には、1651年(慶安4年)幕府転覆を計画した軍学者由井正雪の生家と伝えられている紺屋(染物屋)がありました。
そして由比の町は桜えびの町としても知られています。旧東海道沿いには、桜えびを売る店屋や専門料理店が建ち並んでいました。



寺尾の集落   
 
小池邸

更に旧東海道を西に向かうと、どんどん道は細くなり緩い上り坂になっていきます。道路両側に江戸時代の雰囲気を色濃く残しているのは寺尾の集落。
国の登録有形文化財「小池邸」がありました。

小池家は江戸時代、代々小池文右衛門を襲名して寺尾村の名主を代々務めていました。名主は年貢の取立・管理、戸籍事務。他村・領主との折衝等、村政全般を扱い村役人の中でももっとも重要な役割を担っていました。…
静岡市の説明札

更に行くと「間の宿 倉澤」のところで道が二股になっていて、右が急な坂。ここが薩埵峠(さったとうげ)の入口です。
そこからは対向車が来てもすれ違うことができないほど細い急勾配の道が続いています。このあたりは両側の斜面がみかん畑で、その間を縫って車でしばらくいくと、急に前が開けました。眼下に駿河湾が広がっています。
広重が描いた絵は、箱根峠・鈴鹿峠と並ぶ東海道三大難所の一つ薩埵峠から富士山の方向を描いたもの。左上の峠の急斜面にある道から旅人がおっかなびっくり身を乗り出して富士を見ている姿が小さく描かれています。



旅人もおっかなびっくり

今、薩埵峠の展望台から望む絶景は、広重の視点とほとんど同じように見え、200年の時の流れが一気につながった感動がありました。



富士山は見えませんでした  
 
真下で東名、国道、東海道線が交差する


17 興津



興津(安藤広重)  
 
興津川(静岡市清水区興津東町)

薩埵峠を下りていくとすぐ、興津川にあたります。そこを越えると興津の市街地。川に架かる興津大橋の上から海の方向を向いて撮影したのが右上の写真。ここも広重の描いた構図と良く似た風景です。左側の斜面の出っ張り具合や川の流れの感じがぴったりです。
広重の絵には、相撲取り二人が一人は馬、もう一人は駕篭に乗って川を渡っている様子が描かれています。駕篭を担ぐ4人がとにかくしんどそうで、可哀想なくらいです。滑稽さを描くことで受けを狙っているんでしょうか?版画という大量に刷ることができるメディアの部数を伸ばす工夫なのかもしれません。
ということは、高視聴率獲得を目指すテレビ番組みたいなことを広重もやっていたのか?とちょっと勝手な親近感も湧いてきました。

   
 
    
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