前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー
 
 
9月9日 てら散歩  「東海道五十三次」広重のあの絵の場所を訪ねる


起点 日本橋



日本橋(安藤広重) 

 現在の日本橋


安藤広重(歌川広重)が描いた「東海道五十三次」の宿場町を訪ねて、あの絵の場所が今どうなっているのか?見に行ってきました。息子の自由研究のテーマに乗っかって始まった企画です。

日本橋はこれまでもちろん訪ねたことはありますが、じっくり見たことなんてありません。意識して見てみると本当に多くの発見がありました。



ここから「てらさんぽ」スタート!

広重の絵の手前真ん中よりやや左側に、天秤かついだ魚屋さんの姿が見えますが、日本橋の脇が魚河岸の発祥地だったのです。江戸に幕府を開いた徳川家康が城内で働く人たちに食事を用意するため、摂津の佃村から漁師たちを呼び寄せて魚を納めさせました。漁師たちは残りの魚を板の上に並べて一般に販売するようになりました。これが魚河岸の始まりです。



日本橋魚河岸記念碑
 
魚河岸跡の説明板(中央区教育委員会)


関東大震災まで、ここは江戸〜東京の台所。市場に問屋、商店がたち並ぶ、まさに日本の中心でした。その後、昭和10年に築地に東京市中央卸売市場が開設されました。その市場も手狭になったことと老朽化の為、今は豊洲に移転するかどうかで揺れています。それだけ時が流れているんですね。



日本国道路元標
 
「上り」「下り」はここが原点


広重の絵の左側には、当時あった高札場(こうさつば)も描かれています。高札場とは幕府や領主が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などを木の板札に書き、人目を引くように高く掲げておく場所のこと。今もここに高札場があったことが碑に記されています。「綱吉の生類憐れみの令」とか「吉宗の目安箱を設置!」 なんて掲示されたんでしょうか?



高札場をイメージした碑
 
なになに ほー こんな感じ


現在の日本橋からは、江戸情緒なんてものは全く感じられません。



上は首都高、空が少ない


真上を首都高速の高架が走り、日本橋は上からおさえつけられているかの様です。最近、中国の高速鉄道の高架がマンションの上を走っているニュースを見ましたが、イケイケドンドンの時代の象徴、名残りですね。首都高を地下化する話もあるそうですが、公共事業費カットのご時世なかなか優先順位が低い話かもしれません。



獅子がおさえているのは東京都の紋章


ところで、広重の住んでいた家が日本橋の近くにあるというので、行ってみました。百貨店やオフィスビルが立ち並ぶ中央通りを南下。京橋手前を左に入った路地のビルの脇にぽつんと説明板がありました。



広重住居跡は今、オフィスビル
 
歌川広重住居跡の説明板


浮世絵師安藤(歌川)広重(一七九七〜一八五八)が、嘉永二年(一八四九)から死去までのおよそ十年間を過ごした住居跡です。…住居は、幕府の奥絵師(御用絵師)狩野四家のうち、中橋狩野屋敷の裏門外にあり、二階建ての独立家屋であったといいます。 中央区教育委員会


もちろん当時の雰囲気は全くありませんが、ここで作品を描いていたのかと、その家と広重の姿を想像し、思いを馳せました。

さらに、東京駅をはさんで反対側 丸の内側には広重の生まれた家があったということで、向かいました。広重は、幕府の定火消同心(江戸城の丸の内、大名屋敷、旗本屋敷の消火に当たるのが役目、今なら東京消防庁丸の内消防署か?)安藤源右衛門の長男として1797年(寛政9年)に生まれました。



今は地上30階のビルが…


今は明治安田生命保険ビルが建っているところに定火消同心屋敷があったそうです。馬場先門の目の前で確かに江戸城のすぐ近くになりますね。



馬場先門方向から見ると…


 それでは、江戸城を後にして、京・三条大橋目指して、出発!!

   
 
    
前の記事を読む 次の記事を読む  

トップ > パーソナルトップ > プロフィールトップ > エッセイバックナンバー