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言葉の現場検証 VOL.2 について

「ら・など」の使い方について、ご意見をいただきました。
私たちも参考にしたいと思います。
     
 
日本語ではもともと、「」は人をあらわす名詞や人称代名詞について、謙遜や親愛、軽蔑をあらわしました。
万葉集にある山上憶良の有名な歌のなかに、この『謙遜の「」』にあたるものがあります。

  憶良らはいまはまからむ子泣くらむそのかの母もわれを待たむぞ
  (さあ、この憶良めはこれで引上げますかな。子供は泣いているし、妻もわたしを待っているでしょう)

この「」は今でいう「め」ですね。「わたしめ」なんて使うでしょう。


『日本国語大辞典』によると「自分に対する謙遜の気持ちは時代を下るとともに強くなり、相手や他人に対する用法は、古代では愛称、中世頃からは軽蔑した気持ちを表わす」とあります。
また、これも『日本国語大辞典』からの引用ですが、「主として人を表わす語また指示代名詞に付いて、複数で一つに止まらないこと、その他にも同類があることを示す」とあります。
つまり、単なる複数を表わすということです。例としてあげているものは、

  あみの浦に船乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか



  貫之らがこのよに同じく生まれてこの事の時にあへるをなむよろこびぬる。

です。

しかし、両方とも例としては少しおかしいですね。
まず最初のもの。これは都に一人残った柿本人麿が、持統天皇が伊勢に行幸したときに同行した愛人を思って詠んだ歌です。女官は複数いたので確かに、「女官たち」=「をとめら」でしょうが、その中には彼の愛人がいた。そのことで「をとめら」全員を愛おしく思ったともとれます。
次のものは、『古今和歌集』の序文です。『古今集』の選者たちを代表して紀貫之が書いたものなので複数には違いありません。しかし謙遜の口調は確かにあるでしょう。


このように万葉の頃から「」には複数以外の意味あいと、複数の意味あいが入り交じったものであったといえるでしょう。
そのうちの謙遜や親愛の感情は、他人に対して使うと侮蔑の意味になってしまう。(他人に勝手に親愛を示されても困りますし、謙遜なんて自分が思うならまだしも、他人に使われてはたまったもんじゃない。)
ですから『大辞林』では「目上の人を表す語には付かない」と断言するんですね。
現代でも「ぼくら」や「われら」は使います。
しかし「あんたら」「きさまら」と言うと、やはり侮蔑の意味になってしまうでしょう(「あなたら」は変ですね)。


しかし、なぜ複数の人を表す場合に「」が頻繁に使われるようになったのかを考えると、まずは漢字の影響でしょうね。
「等」という漢字をあてることで情感がうすれ、複数という概念を表す意味の方が強くなった。
なにしろ「等」という字は外国語ですから、日本語の語感が薄れていっても不思議ではないでしょう。
次に英語が日本に入ってきたことによるでしょう。
日本に英語が入ってきたとき、まだ現代日本語は成熟していませんし(成熟どころか現代日本語はなかったといってもいい)、日本語を作りながら、同時に英語から概念を輸入し、漢字に頼って語彙を増やしました。
英語は単数形だ、複数形だとうるさい言語ですね。
英語を日本語に訳すときに、新しい漢字による熟語を用い、このなかで複数を示す際に「=等」としたんです。
「they」の訳語として「彼ら」を作ったのはその例です。


現在、新聞やテレビでは複数の人を表すのに「」が一般的に使われています。
しかしわたしにはどうしても違和感があります。
「益川博士らがノーベル賞の授賞式に…」とニュースを読み上げたあとに、「国の宝だ、うんぬん」などのコメントを聞くと吐息が出てしまう。
」によって敬愛の情が疑わしくなってしまうんですね。
複数を表す語は「たち」「など」が他にあるのだから、こちらを使うべきだと思います。
人に対して「など」を使ってもいっこうに構わないんですよ、本当は。
ただ「〜大臣ら」と使う場合は別に悪いとは思いません。むしろ痛快です。(これは言わなくてもわかるでしょう。)


言葉を使う場合はできる限り保守的であるべきだとわたしは思っています。
例えば「」抜き言葉も、『若者たちは可能の意味を表す場合にのみ「」を抜いている』と擁護する人もいますが、はたして実際にはそれほど意識しているかどうかは疑わしいでしょう。
「とても」の使い方も酷いですね。(「とても」は肯定の意味で使わないのが普通です。
しかし「非常に」では具合が悪いことがあるのは確かで、そのときは肯定の意味で「とても」を使うことがわたしにはあります。)
話が逸れてしまいましたね。言葉を守る立場にいて、語感のある人であれば、複数の人を表す際に「」を使うのは避けた方がいいでしょう。
ちなみに新聞で「」を使うのは紙面(字数)に制限があるからでしょう。
 
 
ここだけ言葉メモ VOL.2 について
     
神奈川県 男性
ケース3のラーメン店のよくある表示、「味の薄め、濃いめをお申し付けください」で
なぜ、「濃め」でなく「濃いめ」なのかという事に同じく疑問を持ったので考えたり調べました。
「濃い」の語幹は「こ」です。
なのでそれに活用語尾である「め」をつけて「濃め」というのがもっともだと思います。
でも、「大きめ⇔小さめ」や「辛め⇔甘め」、「明るめ⇔暗め」のように
それとなくインを踏んでいるものが世の中に多いので流れでなったのかなぁと考えました。
また、調べてみると、西日本では「濃いい」といっている場合があって、その言葉の語幹は「こい」になるそうです。
なのでそれに活用語尾「め」をつけて名詞、「濃いめ」にしているのではないかと思います。
こんなに考えさせてくれるコラムを作っていただきありがとうございました。
これからもどんどん更新してください!
 
 
【坪井】
なるほど!濃い+いという解釈は興味深いですね。
実際に私のパソコンで漢字変換しても
「薄め」「大きめ」「暗め」などは一発で変換されるのですが
 「濃いめ」だけは変換されませんし…
やはり日本語としては特殊なのかもしれませんね。
情報ありがとうございました!
 
 
 
うれしいご意見ありがとうございます。


【田原】
前回掲載した、「雰囲気」は「ふイんき」!?〜慣用読みの今〜 について、
こんなご意見をいただきました。
     
 
毎度の事ながら、日本語の勉強になるので助かります。
まさに「日本語のプロ」たるアナウンサーの面目躍如たるコラムですね。
いつもUpdateされるのを心待ちにしております。
今回は「慣用読み」との事。恥かしながら薄学のわたくしは、この言葉すら知りませんでした。
このコラムを読んで面白かったので、私のメンバー含めた、社内で周りにいる方々とも「もともとの正しい読み方」と「慣用読み」についてこのコラムを見ながら話をしました。
私自身もそうでしたが、結構みんな、正しい読み方と思っている「読み」が、「慣用読み」であったのでビックリしてました。
この事がキッカケで、実際のビジネスの現場にて「尊敬語・謙譲語・丁寧語」の正しい使い方が出来ているのか!?(所詮、我々はこの程度なんです・・・、スミマセン )
な〜んて事が話題に挙がりましたが、みんな???だったような・・・。
次回も愉しみにしております。
 
【田原】
職場で話題にしていただいてありがとうございます。
少しでもお役に立てたなら、大変うれしいです。
これからも、「へー、そうなんだ」と思ってもらえるような言葉遣いや、
言葉についてアナウンサーである私達はどう考えているのかなど、
「日本語研究室」でお伝えしていこうと思っています。

これからも、よろしくお願いします。皆様のご意見お待ちしています!!
 
 
敬語の使い方について
     
茨城県 女性
先日、事故のニュースのなかで、アナウンサーが「周囲の人々が、不安そうにごらんになっているなか…」という言い方をしていましたが、違和感がありました。
「不安そうに見て」「不安そうに見守って」等、ふつうの言い方でいいのではないでしょうか。
「不安そうに見る」「けげんな様子で見る」等は、慣用句的に使われるものだし、この場合、単にその場の状況や雰囲気を説明しているだけなので、わざわざ敬語表現にするのは返っておかしい気がします。
なんでもかんでも敬語にするのではなく、適宜言葉の使い分けができるよう、読書量を増やすなどして語彙力を身につけてほしいと思います。
(生意気な意見ですみません)
     
栃木県 女性
最近気になるのは、アナウンサーが、視聴者である一般の人より芸能人やスポーツ選手を上にした言い方をしていることです。
「○○選手はとてもお優しくて、観客に手を振ってくださっていました」という言い方をしていましたが
「手を振っていました」でいいと思うし、どうしても丁寧に言いたいなら「手を振っていらっしゃいました」ではないのでしょうか。
選手の行動自体を高めるのはまだしも「〜してくださる」というのは、される側を低める言い方になってしまいます。
敬語というのは、誰を低めて誰を高めるのか、ということがまず基本だと思うのですが、そこをきちんと把握していない気がします。
局内の人間に対して尊敬語を使っていることも頻繁にあります。
なんでも敬語を使えばいいのではなく、それぞれの立場をしっかり把握して言葉を使うことを覚えてほしいと思います。
おかしな敬語を使うくらいなら、ふつうの言葉で言うほうがまだましではないかとさえ思います。
生意気な意見で失礼だとは思いますが、正直、とても気になります。
 
【田原】
ご指摘の通り、敬語は必要最低限の範囲で正しく使用してこそ、相手を立てたり、丁寧に伝える気持ちが表現出来るものです。
若いアナウンサーに限らず、自分が話題として取り上げる人達に対して「丁寧に」という意識から過剰に敬語を使っていることが多々あります。
今回のケースで、事故の処理を見守っている人達に対する尊敬語や、選手に対しての敬語表現は、その「丁寧に」という意識から発せられたのだと考えられます。

しかし、取材対象の様子や言動を伝えるには必ずしも「尊敬語」をつかう必要性はありません。「丁寧語」が適切です。取材者である私達は、取材対象と敬意を払いながらも対等な立場でいなければならないからです。
ですから、安易に尊敬語や謙譲語を使うのは避け、「です・ます」の丁寧語で事実を伝えることが大切です。今回のケースでは、「周囲の人々が不安そうに見つめていました」であり「選手は観客に手を振っていました」とすべきです。
敬語は、話者と敬語を用いて表現する相手との関係性を示すものですから、伝える立場の客観性を示す意味でも過剰な尊敬語の使用は避けなければなりません。
「手を振ってくださいました」と言う表現には、選手にばかり「丁寧に」という意識が向いているように感じられるために、視聴者を低く見ていると感じられたのでしょう。
言葉の使い方ひとつで、話し手の立場や向いている方向までもが、見えてきます。

敬語は、話者と敬語を用いて表現する相手との関係性を示すものですから、誰かを高め誰かを低めるというものではありません。私達伝え手にとっては、取材対象とも視聴者とも同じような距離感のバランスを保つことが大切です。

また、安易に「〜してくれました」という表現はすべきではないと考えます。よくスポーツ中継で「素晴らしいプレーを見せてくれました」と言う場面を耳にします。選手は素晴らしいプレーを見せることが出来るからこそ、プロフェッショナルなのですし、誰かのためにわざわざ、そのプレーをやっているわけではありません。勝つための真剣勝負の中で、さすがプロ!というプレーが生まれるのです。

しかし番組の企画などで「あの場面のあのプレー(ゴルフならばショット)を再現して欲しい」という設定で、もう一度「素晴らしいプレー(ショット)を見せていただきました」というなら、別ですが。

必要以上に敬語を多用するのは、敬語の正しい使い方を知らないか、敬語の使い方に自信がない証拠です。私たちはアナウンサーとして敬語を正しく使えて当たり前です。自戒の意味も込めて、今後も努力を惜しまないようにしたいと思います。

敬語については、日本語研究室 六「言葉の現場から」(慶応義塾大学機関誌 『三田評論』掲載)で書きました。ぜひご一読ください。
 
すみません」と「すいません」、
大分県の野崎洋貴さんから次のような質問をいただきました。
     
大分県の野崎洋貴さんから

言葉に詳しい田原さんなら理解して頂けると思うのですが、謝るときは「すいません」ではなく、「すみません」ではないでしょうか。

誰かに対して謝るときに「すいません」という言葉をよく耳にします。しかし、正しいのは「すみません」ではないでしょうか。「申し訳ないことをしてこのままでは心が澄みません」、が正しい使い方であり、すいませんはタバコなど何か吸うことを拒否するときに使う言葉だと、私は小学校の担任から教わった覚えがあります。芸能人の方ならまだしも、アナウンサーの方も時折すいませんと言っています。これは正して行くべきではないでしょうか?

 

【田原】
確かにそのとおりですね。謝る時の言葉は「すみません」ですよね。
バラエティー番組などの会話で、アナウンサーが「すいません」と言っているのを見たことがあります。その時は、このアナウンサーは言葉に対して無神経なのだな、と思っていました。
後輩から「あー、すいませーん」と言われても、本当に悪いと思っているのかな?と思ってしまう時があります。(ちょっとひねくれてますかね)
なぜ、「すみません」ではなく「すいません」になってしまうのでしょうか。
これは、文法的説明では音便(おんびん)といって、音の変化が起きたものです。

「すみません」と「すいません」、それぞれの発音の仕方と口の形から考えてみましょう。
まず、「すみません」で考えてみます。
「み」を発音する時に、一度「す」で突き出した口からしっかり閉じて「み」と発音しますが、
はやく言おうとすると、ちょっと言いにくくないでしょうか。
「すいません」と言う時は、「み」で口を閉じる動作がなく「す」から「い」への発音がしやすいと思いませんか。口を閉じる動作が省略出来るからです。

このような発音のしやすさ、言いやすさから、「すみません」が「すいません」になってしまったのでしょう。
SUMIMASENSUIMASEN と、UとIの間のMが落ちてしまったのです。
ある音が発音されなくなり、「イ」の音に変化してしまう音便ですから、イ音便といいます。
(音便には、この他、ウ音便、促音便、撥音便があります。)

謝るときに、「すいません」と言っている人は、言いやすいという理由か「すみません」が正しい言葉使いだということを意識していないか、どちらかでしょうね。 

ついでに、「すみ(い)ません」の使い方について日ごろ感じていることがあります。
安易に使い過ぎていると思うのです。→のようにいいかえた方がよいと思いますが、いかがでしょう。

例えば・・・
「頼まれた物、運んでおいたよ」「すみ(い)ません」
→「
ありがとう
「痛い。いま足踏んだよ」「すみ(い)ません」
→「
ごめんなさい
「コーヒー入れたけど、どう?」「すみ(い)ません」
→「
いただきます」「ありがとうございます
     
いずれの「すみ(い)ません」もよく使いますね。
謝る時だけでなく、感謝の気持ちを表す時にも「すまない」という言葉を使うのは、
日本人の伝統的な表現です。
しかし、他にも感謝を表したり、謝意を表現する言葉がたくさんあります。
豊かな表現力を養うことは、そんな一言を工夫することから始めることが出来るのです。
さりげない一言の工夫に、その人の感性がうかがえます。
    
素敵な言葉をたくさん使えることは、心豊かな表れです。
言葉選びの楽しさを感じてみると、日本語の味わい深さを楽しむことが出来ます。
「すみ(い)ません」で表現してしまう気持ちを、他にどんな言い方があるか探してみると楽しいですよ。

余談ですが・・・
あるコントで「どう?一服?」と煙草を差し出されて、
もらうつもりで「すいません」と答えたために「いらないんだ」と煙草を引っ込められてがっくり。というコントを見たことがあります。
野崎さんがいうように「吸いません」と受け取られてしまったのですね。
これは、適切な言葉選びは大事なんだということを笑いの中で教えてくれています。
「ありがとう」と言えば、煙草をもらえたのにね。

 
数の読み方 「十」について
     

  東京都の宮本さんから「十」の読み方についてご意見を頂きました。
関東地方では10チャンネルのテレビ朝日としては是非うかがいたいご意見です。
 
東京都の宮本さんから
   

こんにちは 「日本語どらのアナ」興味深く読ませていただきました。その中の「十」の、「十回」「十本」のような助数詞がついたときの発音について読者からの質問が掲載されていましたが、それについて少しお話しさせて下さい。

「十」の音便は、字音かなづかいの「ジフ」から派生するとされており、正しくは「ジッカイ」「ジッポン」のようになります。常用漢字表の音にも「ジッ」の方が掲げられており、私にも、小学校の時にそう知った後、NHKの山川静夫アナウンサーが「ニジッテンゴカイ(二十・五回)」と発音されていたのを見てはっきりそう覚えたというエピソードがあります。
ただ、音便の根拠が歴史的な字音によっていることが「ジュウ」からは類推しにくいため、アナウンサーの発音においても「ジュッ」を許容する放送局があるということを高校の副読本で読みました。
そのためこの質問をされた埼玉県の方の「確か『ジッカイ』じゃなかったか」という文面のニュアンスは正しかったのですが、回答では拗音に便宜的な発音をする例の一つとして取り上げられているため、少し食い違いを生じているように見受けます。つまり「述懐」は「ジュッカイ」であるところを発声上「ジッカイ」と読むことがあるのと同じである、という例示かと思いますが、それは誤りで、あくまで、現代語の慣用読みの許容というべきものです。
「ニジッテンゴカイ」が正しいが、「わが家の友だち 10(ジュッ)チャンネル」とうたう歌もある。といえますね。

 
数字の読み方について
     
埼玉県の小田嶋朋樹さんから

数字の読み方で気になっていることがありこのページを拝見しました。いろいろな読み方の基準があり、大変参考になりましたが、私が気になっていることの1つが例の中に全く出てきていなかったので、これについてのご意見を掲載していただけると幸いです。それは「十」のよみかたです。「じゅう」と読む場合には、問題ないのですが「十分」、「10センチ」の場合には「じっぷん」、「じっせんち」が正しいのか、多くの人が発音するように「じゅっぷん」、「じゅっせんち」なのか、貴社アナウンサーの皆様はどうしているのでしょうか。

 

これは視聴者の皆様から良く聞かれる質問です。
結論から言えばこれはどちらでもかまわないのです。というのも、ジュ、シュ、チュ、キュなどの拗音を含んだ言葉は、発音しにくいということがまずあります。その上、発音の地域差や個人差もあります。
それらの理由により、放送では類音語がある場合を除き、シュ、ジュを含んだ言葉の中で、発音しにくいものは、シ、ジに近く発音することも認めるということにしているのです。
従って、小田嶋さんがご指摘した「十分(ジップン)」「10センチ(ジッセンチ)」の他にも、「新宿(シンジク)」「輸出(ユシツ)」「宿題(シクダイ)」「技術(ギジツ)」などがあるのですが、ただこれもこれに近い発音でもかまわないということになっているだけですので、ご理解頂きたいと思います。
ちなみに類音語ということでは、「手術」と「史実」、「出展、出店」と「失点」、「出頭」と「執刀、失投」、「出現」と「失言、湿原」などがありますが、この中で「手術」は「シュとジュツ」と拗音がダブルで含まれています。このため放送では比較的、類音語が少ない「シュジツ」に近い音を使っていることが多いようです。

 
「日本語研究室」の敬語について、
千葉県の堀越さんからご意見を頂きました!ごもっとも!
     
千葉県の堀越さん
「日本語研究室」の敬語について、千葉県の堀越さんからご意見を頂きました!ごもっとも!
(以下はご意見です)
 

初めまして。

私は いきあたりばったりでこちらのHPにたどりついた者です。
日ごろ思っていたことが 綺麗な形で文章になっているのを拝見し ちょっと足跡を残していこうと思った次第です。

敬語って 難しい難しいと思うから 余計学ぼうとしないのでしょうね。
最近思うのは、英語の学習と同じで、声に出してどんな場面でどんな言い方をするのか子供の頃から身につけるのが1番いいのではないかな と。

たとえば 「先生のおうちに電話をかけましょう」
そうすれば まず「○○先生はいらっしゃいますか?」
「私は△△と申します」
ここで2つの敬語を覚えられます。

「言う」は 自分の動作では「申す」 目上の人の動作には「おっしゃる」
同様に「食べる」は 「いただく」「召し上がる」

文法のテキストには、謙譲語・尊敬語を長く説明していますが、シンプルに説明できなくてはいけないとも思います。

高校のときに 「あり・おり・はべり・いまそかり」は謙譲語と覚えたのが懐かしく思い出されます。

なのにどうして お客様に対して「おられますか?」なの〜??? へん!へん!へん!
へん!は 山のようにあるんです。

【田原】
そうですよね。学校でせっかく勉強した敬語が、まったく活かされていなかったり、間違った敬語を職場のマニュアルで強要されたりするケースがあるようですね。
堀越さんのご指摘のように、子供の頃から家庭での「言葉のしつけ」はとても重要だと思います。家庭できちんとした言葉遣いを身に付けていたら、学校で習う敬語のテストは、きっと満点ですね。

ところが、難しい点があります。敬語は大人社会に入ってから使う言葉ですから、子供の頃に触れる機会が少ないのです。身につけるために練習する機会も少ないのです。ですから、堀越さんの提案するように、「先生に電話」というのはいいアイディアですね。

あるアンケート調査によりますと、学生が敬語を使う相手の一位は、なんと「先生」ではなくて、「先輩」なんだそうです。使う機会が多い場所は、「アルバイト先」でした。

学生のアルバイトで多いのは「コンビニエンスストア」や「ファミリーレストラン」「ファストフード店」があげられます。そこで敬語を身に付け、使うとなると、いわゆる「コンビ敬語」や「ファミレス語」を敬語として身につけてしまう可能性があります。

また、子供の頃から、そのようなお店に行く機会が多いと、そこで使われている言葉遣いが耳から入って自然に覚えてしまうのではないでしょうか。そして、子供たちが、お店屋さんごっこをして、その敬語を使うようになると、何の疑問もなく、その言葉遣いを「敬語」として身に付けてしまうと考えられませんか。

このように考えると、正しい敬語、正しい言葉遣いを身に付けるのは、大変難しいですね。
だからこそ、正しい言葉遣いをすること、家庭で教えることの大切さを痛感します。

「正しい言葉遣い」や「美しい日本語」はそう簡単に使いこなせるものではありません。
言葉遣いにこそ、「その人」のすべてが現れると思います。

堀越さんは次のようにも、指摘しています。

20年以上も前に聞いた話しですけど、フランスでは、
美しく正しいフランス語を話すために 学校があると聞きました。
それは つまり(正しい言葉遣いは)教養とステイタスなのでしょうね。
プライドも大きいかもしれないですけど。


普段話している自分の国の言葉を、わざわざ学校に行って習う理由は、
「正しく美しい言葉遣い」はそれほど大切で、得がたいものだからでしょう。

私たちも、「正しく美しい言葉」を使いこなせるように、日々努力が必要だと思っています。

 
現代人の言葉の乱れは、音の乱れからきている?
     
神奈川県の渡部さん

神奈川県の渡部さんから「現代人の言葉の乱れは音の乱れからきているのではないか」とのご意見をいただきました。それでは早速ご紹介いたしましょう。

 

「日本語研究室」を拝読して、アナウンサーの方々の職業意識が垣間見られて、興味深く、楽しく、ついつい精読してしまいました。「苦労しているんだなぁ」と思いつつも、なぜか意見したくなるものですね。とはいえ日本語の乱れ、言葉の乱れは、僕自身はそこまで気にはなりません。意味が正確に伝わる範囲内では…。

 新聞記者は文法や語法にきっちり精通していて欲しいものですが、アナウンサーにはむしろ「音」や「響き」に敏感であって欲しいです。現代人の言葉の乱れは音の乱れからきているのではないか、と漠然と思います。略語が増えたり、カタカナ語が増えるのは日本語の本来の「音」を損なうような気がして、僕は嫌です。「コンビニ店」などと呼ぶのには抵抗ありませんが、「M&A」「ケータイ」「セレブ」「フツー(普通)」「イケメン」と呼ぶのには物凄く抵抗があります。それを私たちは物心ついた頃から毎日聞き続けるのですから、正確な言葉が身につかないんじゃないか、と思います。アナウンサーや識者がこの言葉を口にしているのを聞くと、なんとなく恥ずかしく思えます。

 あと気になるのが、特に情報番組やバラエティー番組での若い女性アナウンサーの語尾が気になります。
「はぁい」「〜ですぅぅ」「〜ですかぁ」「〜ですねぇ」と発音したり、「ら、り、る、れ、ろ」の発音もベテランのアナウンサーとはどこか違って聞こえます。

 アナウンサーは歌手と同じ「音」のプロフェッショナルであって欲しい。今は玉石混交で技量の差があるように見受けられます。誰がニュースを読んでも「安心」して聞くことができ、「信頼」できる報道ができるように訓練してからテレビに出ていただきたいです。

 テレビ報道で「アーティスト」「女子アナ」「アシスタント」などとカタカナ語、略語にして言葉を軽くしたり、語尾の発音や語調を柔らかくしたり、不完全、不必要な語尾をつけて「角のない、押し付けがましくない」言い方にしたりするのは、僕は反対です。公共の電波を使って報道する以上、「責任感」「使命感」が必要ですし、皆さんはそれをお持ちだと信じています。言葉を婉曲にすることで、「ごまかし」や「責任のがれ」の僅かな隙間が生まれます。困ったときにはその隙間をついつい利用してしまいます。サッカーの主審が反則の笛を強く吹くように、報道の発音も強く正確にして頂きたいです。

 某局では毎日、女性アナウンサーをニックネームで呼んで(あるいは呼び合って)いるところを目にします。そんな関係で本当に厳しく叱責したり、指導したりできるのかな、と思います。成長させないことで視聴者を獲得しているのかな、なんて穿った見方をしてしまうことすらあります。テレビ朝日さんの内部がそんあいまいな関係でないことを信じています。

 考えてみると私たち視聴者側の問題も大きいですね。

 
アナウンサーが曖昧語を使うときについて。
     
林百合子さんからのご質問

日本語研究室第四回テーマ「アナウンサーが『曖昧表現』を使うとき」 で、野村さんがよく使っているという「○○になります」というのは、「こちらが○○になります」と同じ意味合いのものなのでしょうか。
例文が無いので、よくわかりません。流れからするとそうなのかなと思うのですが、具体的な文例を考えようとしても難しいので、教えていただけませんか?

七時になります。(〜になりました。)

など、自分では時間的なものしか思い付かないのです。
また、「こちらが○○になります」と「お会計は○○になります」は、「なります」の使い方としては同じなんでしょうか。

     
【田原浩史】

林さんのご質問へのお答え。

例文は無数に挙げられます。「○○です」と言える表現すべてを「○○になります」にするだけです。

例えば、
@ファストフード店で、店員が「こちら、ハンバーガーになります」といって料理を出すとき。
Aコンビエンスストアで、「お会計は649円になります」「お返しは351円になります」という場面。

@の場合は「こちら、ハンバーガーです」で十分ですし、なんら違和感はありません。
しかし「になります」を使うと、物事が変化して違う状態になる意味合いが含まれてきます。
この場合、皿の上に乗っている食材が、自然に合体して「ハンバーガーになる」ような意味合いが出てきます。
はっきり断定して「こちらハンバーガーです」でいいのですよね。
しかし、それだと丁寧さが足りないような感じがして、「ハンバーガーになります」というやわらかい言い方が生まれてきたのだと考えられます。

これは、「アナウンサーが曖昧表現を使う」時の、「より丁寧に」という心理と非常に近いものです。

さて、Aの場合も「お会計は649円です」「お返しは351円です」で何ら問題はありません。
しかし、この場合「なります」を」使う理由を、あえて考えると、「私が計算したところ、合計が(お釣りが)このようになります」という意味が込められているという場合です。しかし、誰が計算しても答えは同じはずですから、「649円です」「351円です」でいいのです。

「○○になります」が違和感無く使用できる場合は、「物事が時間の経過などによって、状態が変化していく」場合であるといえます。

林さんが例に挙げた「まもなく7時になります」はまさに時間の経過によって、表示されている時刻が変化し、違う時刻になるわけですから、適切な使い方です。
「今日は気温がぐんぐん上がり、都心では30度近くになります」これも気温の上昇の結果、当初の温度から変化していることを言っています。


林さんがいう「時間的なもの」に使用するのは本来の適切な表現です。
しかし現在多用される@の「なります」は、より丁寧さを出そうとするあまり生まれてきた、過剰な丁寧表現の一種だといえます。

 
いまどきのマニュアル語について
     
北海道の 渡邊美保さん

はじめまして。
今日はじめて御社のウェブサイトを拝見しました。日本語どらのアナが非常に興味深くおもしろいですね。その中のひとつ「いまどきのマニュアル語」に関して日頃から感じていることを書きます。

私は生まれも育ちも札幌ですが、店員に限らず日常一般的に「○○はよろしかったですか?」「お決まりでしたか?」等の表現をよく使います。他の人はわかりませんが少なくとも私にとってはこう言うしかないのです。というのも「よろしいですか?」「お決まりですか?」と言ってしまうと自分の言いたいことと違ってしまうからです。過去形にすると「自分が尋ねる前にすでに決まっていましたか?」つまり「決まっていたかもしれないのにお待たせしてすみません」というようなニュアンスが含まれます。

}この他にも、誰かに「わかった?」と聞かれれば「今説明した内容についてわかったか?」という意味にとらえて「わかった」と普通に言えますが、これがもし「わかる?」と聞かれたら「これくらいの内容を理解できるような能力があるか?」という意味に聞こえ、不快感を感じます。このように、過去形にすると丁寧になるというのは英語のw ould you〜?やCould you〜?と似ているなあ、と思います。また「このスイッチもう押ささってる」と言うと「気づいたときには既に押された状態になって今も継続している」という意味になりこれも英語の現在完了そのものです。

私が感じるのは、方言は標準語では表現しきれない内容を的確に言えるすばらしいものだということです。地方毎に特色ある表現があるのはそれがないと表現するのに不便だからなんだろうと思います。もちろん別の地方にいけば誰もわからなくて当然だから使用を控えなければと思う反面、自分の地域にいて普通に使っている状態を標準語しか使わない人に「不快」といわれてしまうことには違和感を覚えます。ひとくちに日本語といっても本当に難しいですね・・・。
ご意見というよりも独り言のような内容になってしまいしたが、おもしろいと思って読んでいただけたなら幸いです。

     
【田原浩史】

「いまどきのマニュアル語」には、様々なご意見をいただいています。

「○○はよろしかったですか」などの過去形の表現が、渡邊さんの身近ではごく普通に使用されていて、違和感が無いようですね。そして渡邊さんは、そのような表現でしか言い表せない「気持ち」がある、と感じているのですね。
言葉を「発する側」と「受ける側」に、その言葉に込められている「気持ち」が共有できれば問題は無いのですが、そうでない場合に「違和感」が生まれます。渡邊さんの地域では、その言葉に込められた気持ちを共有出来るのかもしれません。だから渡邊さんは「方言」と言われるのでしょう。その点は、広範囲なサンプリング調査等をしなければ、なんともいえません。

しかし、東京近郊では、初めて店員に聞かれているのに、過去形で尋ねられることに強い違和感を覚える人が多いようです。過去形にする理由は、「確認」や「より丁寧に」という気持ちの表れだといえるでしょう。しかし、それが過剰な丁寧表現に感じるとき、「受ける側」は不快感を禁じ得ません。形だけ丁寧さを装うように感じられるマニュアル語に対する批判は、このようなところから生じているようです。

発した「言葉」が自分の気持ちをそのまま伝えていると思っても、「受ける側」がそう感じてくれなければ、自分の気持ちは伝わりません。そこが、言葉の難しさでもあり、面白さでもあると思います。
ですから、私達アナウンサーは「伝わるように」言葉遣いや表現に心を砕いているのです。

視聴者の皆さんの言葉に対する関心の高さは、「日本語研究室」宛てのメールで、よく分かります。私達も、言葉に対して真摯に向き合っていきたいと思います。

 
いまどきのマニュアル語について
     
北海道の成田智加さんから

私はあるファーストフード店でアルバイトしていますが、そのような言葉は一切使用しないようにしています。
間違った日本語は使いたくないからです。
マニュアル化されていると書かれていますが、それはある意味正しく、ある意味間違っています。
たしかにファーストフード店にはマニュアルがあります。あるときはたくさんの新人が採用され、早く仕事を覚えてもらうにはマニュアルを渡して覚えてもらうのが最適な方法だからです。

最初は仕事を覚えることで精一杯であり、マニュアルどおりに動くことしかできません。しかしそれは最初だけだと私は思っています。仕事に慣れ、余裕が生まれてくると、このお客様にはどのようなサービスが喜ばれるのだろう、このお客様はどうかなと、ひとりひとりの目を見て、お客様の要求を察知します。
ちなみにマニュアルには「よろしかったですか?」「ちょうどお預かりいたします。」とは書かれていません。「よろしいですか?」「ちょうど頂きます。」と我々も常日頃指導していますが、間違った言葉がありとあらゆるところで使われているものですから、自分もつい出てしまうし、間違っているということも特に認識してはいないのでしょう。

わたしたちは「100人のお客様には100通りのサービスを」ということをモットーに働いています。
外食産業にたずさわる者全てがマニュアルどおりにしか動いていないという印象を受けるこの文章はどうなのかなあと思いました。きれいな日本語を使おうと努力しているのはアナウンサーの方々だけではありません。最近ではコンビニエンスストアでもそれぞれのお店の個性を出して、元気な挨拶を目標に生き生きと働いている方もたくさんいます。
みんなそれぞれの思いを胸にサービス業を営んでいるのだと思いますよ。

 
成田さん、現場の貴重なご意見ありがとうございました。成田さんのように、日本語に敏感な方が増えてくださると大変うれしいのです。

どうしても外食産業などで、妙な日本語を聞くことが多いので例として使用させていただきました。最近ではありとあらゆる接客業、たとえばデパートや、クリーニングやさん、さらには病院の受付や看護婦さんまでもが「よろしかったでしょうか」という妙な日本語を使うようになっているようですね。

テレビ朝日のあるベテランアナウンサーーなどは、妙な日本語を聞くたびに、「大変申し訳ないのですが、その日本語はおかしいので、できましたら今後はお使いにならないでいただけると大変嬉しいのですが、いかがでしょう。」と大変もってまわった言い方で注意をしているそうです。なんだか注意するほうが遠慮をしているという妙な状態ですが、相手に気を悪くされてもいやですからね。相手の気を悪くしないで、注意をする何か言い方法はないものでしょうか。

 
ものの数え方について
     
東京都の山川正光さんから
「日本語どらのアナ」を最近拝見しまして、参考になるかと思い、一言書かせていただきます。
助動詞(数え方)についてです。

アワビ

一杯/盃が奈良時代から使われています。
これはイカ(当時はアオリイカ)の数え方から転じたもので、漁師がイカの内臓を抜いて酒などを入れて飲んだり持ち運んだりした名残りです。
これがそのまま、蛤(殻)、カニ(甲羅)、鮑やタコも数えます。
現在は、匹、個などと数えています。

ウサギ

昔の数え方として 一羽(いちわ)があります。
これは、仏教の掟として動物の肉を食べてはいけないとされていたのが一般に広まったのですが、決定的な事実は1687年、時の将軍徳川綱吉によって「生類哀れみの令」で獣の肉を食べることを禁止されました。ところが町の知恵者が「これはウとサギの二羽の鳥だ」と称してこっそり食べていたことの名残と言われています。
ですから、うさぎは二匹(番:つがい)で一羽と数えるのが正式です。
しかし、もう三百年も昔のお触れを守るともありませんから、一匹でいいわけです。奈良時代には一匹を一片耳、二匹揃えて一耳と呼んだこともあります。
現在は匹。

うちわ(団扇)

柄があるので一柄(へい/え)と数えます。
一般的には一本。

かがみ(鏡)

卑弥呼の時代から一面と言います。
普通には形状から一枚でいいわけです。

かわ(川)

細い流れは一筋、比喩的には一条(すじ)、地形上では一本。

こんぶ(昆布)

昔は一折(おり)/一貫(ぬき)、束ねて一連/一束、 単品は一枚とも。

しゃしん(写真)

通常はプリントされたものを指します。一枚/一葉。
撮影の撮はつまみとると言う意味があり人などの姿をそのまま写し取るところから生まれた言葉。一駒など。

じゅず(数珠)

一顆(か/つぶ)の珠を百八つ(基本)つなげた仏具。一具(ぐ)、一連(れん)。

たんぼ(田圃)

昔は広さに関係なく一段(たん)と呼んだが、一枚、一面、あるいは一連とも言います。

たらこ(鱈子)

一腹(はら)は二本揃えて言うのが普通です。

たんす(箪笥)

通常は上下二つが重なっています。運ぶ時に金具に太い棹を通して前後で担いだので一棹(さお)と数えました。一本(ほん)、あるいは一重(かさね)とも。

ちょうちん(提灯/桃燈)

和紙を張ってあるので一張(はり/ちょう)。

てぶくろ(手袋)

足袋と同様に一足(そく)、または一揃い。

にぎりずし(握り寿司)

江戸時代にはカンと言う言葉はありません。
築地の寿司岩では「貫」と書いていますが、根拠は不明です。昭和後期のグルメブームに乗って、マスコミ関係が使うようになり、回転寿司屋では、皿に乗った二個を呼ぶところもあります。一握り、一桶(おけ)、一人前が標準的です。

のこぎり(鋸)

手で使う道具類を一挺(ちょう)と呼びます。柄があるものは一柄(え)、一本とも。

はなわ(花輪)

祝儀不祝儀に関係なく一基(き)、基とは土の上に直接据えることで、石碑、お墓、燈籠などを数える言葉です。
ハンドバッグ=昔の袋物は一具(ぐ)、一袋(てい)と呼んだが、バッグやカバンは特定な呼び方はありません。通常は一個、一本など。

 

東京都の山川さん!本当にありがとうございました。送って頂いた助数詞の用例はもっと沢山あったのですが、スペースの関係上、誠に勝手ながら一部省略して掲載させていただきました。何故このような助数詞が用いられるようになったかといった経緯など大変勉強になりました。これからも宜しくお願い致します。

 
接続詞「なので」を連発するのはおかしいと思います。
     
神奈川県の田中知徳さんから

はじめまして。最近、民放の番組をみていて気になることをひとつ。
どのチャンネルでも見受けられることですが、アナウンサーらが前のセンテンスを受けて後につなぐ際「なので」という接続詞を連発しているシーンが頻繁に見受けられます。よくアナウンサーやっていられるな、という思いで見ていますが、不快感が残ります。
接続詞はできることなら、なるべく使わずに話すことが、その人の知的さを引き出すのではないかと思いますが、どうしても「なので」を使うのであれば、せめて「ですので」という風につないでみたらいかがでしょう。
最近、20歳代のアナウンサーに特に目立っているように思いますが。いかがでしょう。

 

田中さんのおっしゃるとおり!とにかく話を繋げるために、文章と文章を本来繋がらないはずの接続詞で結んでしまうということは本当に良く見かけます。しかも逆接で繋がなければならないはずの「しかし」「だが」「けれども」等の言葉を順接で繋いでいるケースも目立ちます。
若いアナウンサーに目立っているというのは、沈黙してしまうのが怖く、しかもアドリブがあまり得意ではない為生じてしまうのです。正直なところ、今偉そうなことを言っている私自身も、若い時はかなり間違った言葉の使い方をしていました。
さて、そこでご質問の「なので」と「ですので」の違いです。文法的には、広辞苑によれば「なので」は断定を表す助動詞「だ」の連体形「な」に、原因・理由を示し、前に述べたことを元に後のことの起こったことを示すに用いる接続助詞「ので」が付いたもので、一方「ですので」はその断定を表す助動詞「だ」を丁寧にしたものということです。
普段から我々も若いアナウンサーには、丁寧語・尊敬語・謙譲語などの敬語の大切さ、日常の言葉遣いなどは口を酸っぱくして指導しています。今後とも暖かく見守って下さいますようお願いします。

 
言葉の誤用では?
     
長崎県の東雲友松さんから

最近、とても気になる言葉の誤用があります。
それは”煮詰まる”です。様々な媒体で、行き詰ると混同されています。政府の刊行物の中でも見掛けたことがあります。既に意味が逆転しているのでしょうか。是非、一度取り上げてください。お願い致します。

 

本当に長崎の東雲さんがご指摘されるとおり、最近 “意見が煮詰まっている!”というような否定的な使い方を良く、見聞き致します。そこで改めて言葉の意味を調べてみました。
広辞苑によれば、「煮詰まる」は、@煮えて水分がなくなるA転じて、議論や考えなどが出尽くして結論を出す段階になる。となっており、一方「行き詰まる」は、@行ってその先が詰まる。行き止まりとなる。A物事が困難に出会って、その先へ進まなくなる。と載っていました。
同じ「詰まる」でも、“意見は出尽くした!さあ!結論をだそう!”と“八方塞の行き止まり!”の違いがあるのです。しかし現在はほとんど同じ意味であるかのような使われ方。では何故そうなってしまったのか?これは推測するしかないのですが、ひとつには、同じ「詰まる」という音が使われており、しかもこの「詰まる」という言葉自体が、@満ちてふさがる。A満ちて身動きが出来なくなる。(広辞苑より)など否定的な意味合いが強いため誤用されるようになってしまったのではないか!ということ。
もうひとつは、これこそ私の勝手な推測になるのですが、日常生活、特に最近の若い人たちの食生活に「煮詰める」という作業がなくなって来たのではないか?と思うのです。「煮詰める(煮えて水分がなくなる)」ことで美味しく出来るのが、日本古来からの家庭の味「お煮しめ」や「佃煮」。確かに若者があまり食べないメニューですが、ちょっとこじ付け気味だったかも知れません。失礼しました!

 
数字について
     
今泉のパパから

 「日本語ドラの穴」の「数字」の回で、『十七回忌』を『じゅうしちかいき』と読むという解答がありましたが、以前聞いた話によると、「他と聞き間違う可能性のある読みは極力避ける」という鉄則があるはずなのです。

『じゅうしち』は『じゅういち』と聞き違えやすいので、『じゅうなな』と読むのがよいのではないでしょうか?
競馬や競艇の結果速報では、聞き違えを防ぐために、『2』を『ふた』、『10』を『とお』と読むはずです。

 
高井アナウンサーからのお答え

 「十七回忌を、じゅうななと読むのがよいのではないでしょうか」というご提案についてですが、これは仏教用語として「しちかいき」「じゅうしちかいき」とされているものですので、私たちアナウンサーが勝手に変えてはならないものなのです。

私たちアナウンサーはニュースなどのように特に正確な情報伝達を主眼とする番組では聞き取りやすい発音を基準発音とするように心掛けています。

ご指摘のように、「他と聞き間違う可能性のある読みは極力避ける」場合は、こうしたニュースなどの場合が主になります。

おっしゃるとおり、17億円は「じゅうしちおくえん」とは読みません。「じゅうななおくえん」と読みます。

さらに、14人をわざわざ「じゅうよんにん」と読むことがあります。これは「十余人」と区別するためです。



「なな」と「しち」の読み方で、伝統的な表現で、変えるべきではないものもあります。

たとえば「人のうわさも七十五日」・・・・これは「しちじゅうごにち」で「ななじゅうごにち」とは言いません。

「七福神」・・・・これは「しちふくじん」で「ななふくじん」とは言いません。

「京都の七条」・・・・これは「しちじょう」で「ななじょう」とは言いません。

「七草」・・・・「ななくさ」で「しちくさ」とは言いません。

「初七日」・・・・「しょなのか」です。

「七宝焼き」・・・・「しっぽうやき」で「ななほうやき」とは言いません。

また、「競馬や競艇の結果速報では、聞き違えを防ぐために、『2』を『ふた』、『10』を『とお』と読むはずです。」と言うご指摘でしたが、これは競馬や競艇、株、法律用語などでこうした表現をするばあいがありますが、基本的にニュースではこのような表現を行っておりません。


おわかりいただけましたでしょうか。

 
千葉県の最上さんから

日本語に関することはとても難しいですよね。
このページを見て、「なるほど」と思えることがあり、勉強になりました。
最近気になっている日本語は・・・
「日本」を単独で読む場合と、「日本人」「日本経済」など、他の言葉と一緒になっている場合、正しく読むことができない人が多いということです。

単独「日本」、これは当然「ニッポン」。
「日本人」−これは「ニホンジン」ですよね。
だって、現代国語を勉強した方には、「日本語」を「ニッポンゴ」と読む人はいないでしょう?
でも、「日本経済」は「ニッポンケイザイ」なんですよね。ただ、会社名などに使用されているような固有名詞の場合には別ですが。。。

先日、言葉のプロであるアナウンサーの方が 「給湯器」を「キュウユキ」と呼んでいました。
これはさすがに悲しかったです・・・
少し前、「ら」抜き言葉が多々取り上げられる場面がありましたが、その影響からか、今では入れる必要の無いところでも「ら」が入っていることがあります。

日本語力の低下でしょうか?

私も人前に立って話す仕事をしています。ですので、言葉はとても大切なものだと常々実感しています。そして日本語は本当に難しいものだとも実感しております。

「日本語どらのアナ」、私も勉強させていただきたいと思います。

 
「日本」とつく言葉はむずかしいですね。
「日本人」は「にほんじん」とも「にっぽんじん」ともいうんですね。
「日本経済」は「にほんけいざい」でも「にっぽんけいざい」でもどちらでもいいんですよ。

本当に「日本」は難しい。
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