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SmaSTATION-4特別企画「セカイを救うチャリティー」
見ず知らずの人々に無償で手を差し伸べる「チャリティー」という精神。それは、果たしていつどこで生まれ、どのように広まっていったのでしょうか? その歴史にスポットを当てます。
チャリティーの起源
チャリティーという言葉の語源は、カリタス(Caritas)=慈善、という意味のラテン語で、中世以降にヨーロッパで広まった考え。キリスト教では、収入の25〜35パーセントを貧民のために用いることが定められており、イスラム圏でも、貧しい人のために財産を使うこと=ザカートが、イスラム教徒の5つの義務のひとつとされていました。
一方、日本で最初に行われた大規模なチャリティー活動は、終戦直後の昭和22年に、全国で行われた「第1回共同募金運動」といわれています。「赤い羽根募金」としていまも知られるこの共同募金は、戦争によって親を失った孤児や、負傷した兵士らを救済するために始められたもので、復興を目指す日本中の人々が賛同、非常に大きな成果をあげました。豆腐1丁が1円、労働者の1ヵ月の平均賃金が2000円と、現在と比べて物価が100分の1以下だった当時。この共同募金で5億9千万円・現在の物価に直すと、何と1500億円ものお金が集められ、数十万人にも及んだ戦争孤児の育成金に当てられたといいます。
音楽が広めたチャリティーの精神
このように世界各地域で生まれ、それぞれ独自にはぐくまれてきたチャリティーという精神は、あるきっかけと共に、急速に世界的運動へと変遷していきました。それが「音楽」です。伝説的なキャンペーン「バンド・エイド」は、いまから20年以上前に行われたもので、当時、干ばつや内乱により、数十万人の餓死者が出ていたエチオピアの飢餓救済を旗印に掲げたプロジェクトです。U2のボノ、デヴット・ボウイ、フィル・コリンズら、当時のUKシーンを代表するミュージシャンらが賛同。世界的爆発ヒットとなった、「Do They Know Its Christmas?」をリリースし、翌年には盛大なチャリティー・コンサート「LIVE AID」も開催。収益金は、およそ1億1千万ドル(日本円で120億円)にものぼり、トラックや給水車、医療用テント、粉ミルクなどをエチオピアに届けることができたのです。
さらに翌85年、あのマイケル・ジャクソンやレイ・チャールズ、ライオネル・リッチーらアメリカのトップスター達が、やはりアフリカの飢餓救済のために立ち上がったのが「USA For Africa」でした。彼らによる、世界的名曲「We are the world」は、発売からわずか1ヵ月で、シングル730万枚、アルバム440万枚を売上げ、その収益金は6500万ドル(日本円でおよそ70億円)。食料や衣服など数多くの支援物資をアフリカに送ることに成功しました。
そしてことし、ボブ・ゲルドフらによる「ライブ・エイド」が20年振りに復活しました。それが「ライブ8」です。これは、時を同じくして開かれたG8、先進8ヵ国首脳会議にちなんで名づけられたチャリティーコンサートで、アフリカ諸国の復興の妨げになっている債務、つまり先進諸国への借金の帳消しを訴えるために開催されました。マライア・キャリーやU2、エルトン・ジョンなどの多くのトップミュージシャンらが参加したこのイベントは、世界9ヵ国で開催され、テレビやラジオインターネットなどを通じて、10億人以上の人が目にしたといわれています。そして、収益がアフリカの貧困救済に当てられただけでなく、先進各国が、アフリカ諸国への債権放棄を宣言するという、勝利をも手に入れたのです。
チャリティーを主導するセレブたち
最近では、各国のセレブ自らが主導するケースも増えています。熱心なチャリティー活動で知られる歌手のエルトン・ジョンは、自らの名前を冠したエイズ基金を設立。また、エリザベス・テイラーも、親友をエイズで失ったのを機に、自らの財団「エリザベス・テイラー・エイズ財団」を創設し、研究活動を支援しているのです。あのポール・マッカ−トニーは、地雷問題に高い関心を寄せており、妻のレバー・ミルズと共に積極的に地雷除去の活動を支援し、昨年にはベトナム、イラクなどでチャリティー・コンサートを開催しました。キアヌ・リーヴスは、最愛の妹が白血病を発病したのを機に、ガンや糖尿病など、難病の治療法を研究する団体に寄付を行っており、自らがデザインしたTシャツをネットで販売、その売上をチャリティーしているのです。これ以外にも、スティング、マドンナ、ボノ、ナタリー・ポートマン、ヒラリー・ダフ、リンジー・ローハンなど、プライベートで積極的にチャリティーを行っているセレブ達は数多く存在するのです。
チャリティー活動を行う事自体が、セレブの証しのひとつであるともいわれ、世界中の人々にも大きな影響を与えるこうしたセレブのチャリティー。そのさきがけともいわれ、後に続いたセレブ達に多大な影響を与えたのが、オードリー・ヘップバーンです。「ローマの休日」、「ティファニーで朝食を」など、20世紀を代表する名作に出演し、その天真爛漫な笑顔と圧倒的な存在感で、世界中の人々を魅了し続けたヘップバーン。限りない賞賛と栄光を手に入れた彼女は、晩年、女優業から身を引き、あるひとつ仕事にその身を捧げていきました。それが「国連児童基金=ユニセフの特別大使」です。ユニセフとは、戦争や貧困などで苦しむ子供達を救済するために、創設された国連の機関。食糧援助から教育のサポートまで、幅広い支援活動を行う、まさに世界を代表する「チャリティー機関」です。そんなユニセフの特別大使という仕事に、大女優オードリーが没頭するようになったきっかけは、実は彼女の辛い少女時代にあったといわれています。
ヘップバーンがその身を捧げた活動
1929年にオランダ・ブリュッセルで生まれたオードリーは、第2次大戦中、ドイツの占領下で、地獄のような体験を経験しました。ナチスへの抵抗運動の中、多くの親戚や知人を殺され、自らも飢えと寒さで栄養失調に陥り、度々命の危険にさらされたのです。この当時の生活がいかに厳しいものであったかを示すエピソードがあります。後年、オードリーは、ある作品の主演を依頼された際に、「主人公があまりにも自分に似ている」として、その依頼を断った事があるのです。その作品とは「アンネの日記」。ナチスの迫害のもと、強制収容所に収容され、わずか15歳で命を落とした、悲劇の少女アンネ・フランク。そのアンネとオードリーは、ともにオランダという同じ国に暮らし、同じ戦争を耐え忍び、奇しくも生まれた年も同じ1929年。出演依頼で台本を目にした彼女は「自らの体験を読んでいるような気がする」と語りました。
ある日、衰弱しきった彼女のもとにユニセフの前身である、国際救済復興機関から救援物資が届けられました。細くやつれた手でその袋を開けるオードリー。そこにあったのは、一枚のチョコレートでした。後に彼女は「戦争が終わって最初に食べたものが援助のチョコレートだったの。一度に全部食べてしまったわ!」と語っています。命を助けられた少女の胸に、やがてひとつの夢が宿るようになりました。それは「いつかユニセフで働きたい」というものでした。その後、女優として名声を得た彼女は、1971年、その夢への足がかりを得ます。ユニセフが資金集めを目的とした映画「愛の世界」に出演する事になったのです。

「あの映画に参加して、世界には援助を必要としている子供たちがどれだけたくさんいるかを知ったの。出来れば知りたくなかったけど…」。

そんなオードリーの下に1988年、ついにあるオファーが届きました。ユニセフの特別大使への就任です。当時は大女優のオードリーが就任するという事で、「名ばかりの名誉職」との冷ややかな見方もありました。しかし、彼女は、大使就任からわずか一週間後には飢えと内戦で荒廃したエチオピアに出発。さらにトルコ、スーダン、バングラデシュ、ヴェトナム、イランなど、貧困にあえぐ地域を次々と訪問し、時には飢えた子供達を慰め、ともに涙を流し、時には井戸を掘り、農作業にも精を出して、その声を吹き飛ばしました。オードリーは自らが広告塔となる事をいとわず、その知名度を最大限に生かし、世界の注目がこうした地域に集まるように努力を続けたのです。
1992年に訪れたソマリアでは、目を覆うような惨状に強い衝撃を受けました。「私は悪夢のなかに入り込んだ。こんな光景は見た事がない」。毎日100人近い子供達が飢餓により命を落としていたソマリアの悲劇を食い止めるため、オードリーはまさにその身を削って訴え続けました。その努力により、CNNなど世界のメディアは連日ソマリアの窮状を取り上げ、世界の人々がその惨状を知るようになったのです。まさに休む暇も無く、世界各国を飛び回り、子供達の幸せを訴えつづけたオードリー。しかし、この激務が次第に彼女の細い体を蝕んでいきました。ソマリア視察中、オードリーは常に猛烈な胃痛に襲われていました。しかし彼女はそのことを決して誰にも喋りませんでした。ユニセフの仕事が果たせなくなる事を恐れていたのです。そしてソマリアから帰国後、ようやく病院を訪れたオードリーを待っていた診断結果は結腸ガン。すぐに手術が行われたものの、その病魔はすでに手の施し様のないほどオードリーの体を蝕んでいました。手術が終わり意識が戻った瞬間、オードリーはこうつぶやいたそうです。

「私のソマリアの可愛い子供達。はやくアフリカに戻らないと・・」

1993年1月、彼女は世界中の人々に惜しまれながら63歳でこの世を去りました。最期は、家族らに見守られながら穏やかに息を引き取ったそうです。後に、友人のレスリー・キャロンは「オードリーの人生は二部に分けられる。第一部では望みうる全ての栄光を手に入れ、第二部では、手に入れたものを全て還元した」と彼女の生涯をたとえました。「自分だけでなく、他人を愛すること」。オードリーが残したこの精神は、その後、世界中のセレブへと引き継がれ、多くのチャリティー活動へと実を結ぶ事になっていきました。オードリーは死の直前、息子達にひとつの詩を残しています。

美しい唇のためには 親切な言葉を話すこと
美しい目のためには 他人の美点を探すこと
スリムな体のためには お腹をすかした人々に 食べ物を分け与えること
歳をとれば 君は二本の手を持っている事に気付くでしょう
自分自身を助ける手 そして他人を助ける手を持っていることを・・・
テレビのチャリティー番組
トリビュート・トゥ・ヒーローズ(アメリカ)
2001年に起きたニューヨーク同時多発テロ。その10日後、テロで犠牲になった人々やその家族らを支援するために、アメリカの4大ネットワークが団結して、放送された大規模なチャリティー番組。この番組は、音楽やスポーツを通じて、アメリカ全土を希望と激励で盛り上げようという趣旨のもと、ハリウッドやスポーツなど各界のトップスターが集結したもので、視聴率は何と65%を記録。さらに、番組に出演したマライヤ・キャリー、ブルース・スプリングスティーンなど、21組のアーティストの演奏を収録したCDが発売され、その収益はテロで命を落とした救急隊や消防士らの家族を支援するために用いられた。
コミック・リリーフ(イギリス)
バンド・エイドを生んだチャリティー先進国・イギリスで毎年行われているチャリティー番組。世界の恵まれない子供達への寄付を集めるという趣旨のこの番組は、イギリスの有名俳優やコメディアン、コメンテーターらが出演し、この番組を見て電話をかけると電話代がそのまま募金される仕組みになっている。この番組ちょっと他とは変わっているところは、お笑い番組であるということ。チャリティーとは無縁の様々なパロディーが続く合間に、飢餓や病気に喘ぐアフリカの様子などのリポートが挿入される。これまでの収益金はおよそ2億ポンド(日本円で400億円)にも及び、アフリカのHIV対策や、予防接種の推進などに役立てられている。
愛のリクエスト(韓国)
1997年10月にスタートしたこの番組は、放送回数300回を超える長寿チャリティー番組。難病患者やひとり暮らしの老人、障害に苦しむ人々などを紹介し、視聴者に支援を訴えるという形式で、番組の用意するチャリティー電話にダイヤルすると、1通話あたり1000ウォン(日本円でおよそ100円)が募金されるシステム。これまでに300億ウォン(30億円)を超える募金を集めており、先日、チョナンカンとレコーディングした人気ユニット「神話」のメンバーも、度々募金を行っているという。

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