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今回、SmaSTATION-3が放送したのは、1993年に起きたマイケル・ジャクソンの少年に対する性的虐待疑惑。時系列に沿って、改めてこの事件を振り返ってみましょう。
1993年7月 13歳の少年ジョーダン・チャンドラーがロサンゼルス郡児童福祉局に「性的虐待」について相談。「抱擁からキス、性的関係にまで進み、関係は4ヶ月に及んだ」「マイケルは“これは運命だ”と言っていた」と関係を説明。福祉局は法律に従い警察に報告する。
1993年8月23日 ロサンゼルス警察が犯罪捜査を開始。ジャクソン側は数百万ドルを搾取する計略の標的にされていると主張する。
1993年9月3日 マイケルの自宅から少年の全裸写真を押収。マイケル側と少年側の告発合戦は激しくなる一方で、マイケル側が「お互い裸を見たことはない」と主張したのに対し、少年側は「マイケルの体は上半身が白く、下半身はウエストより下が黒かったと話している」など“暴露証言”まで飛び出す。
1993年9月9日 コンサートのため来日。
1993年9月14日 少年の家族が性的虐待、義務怠慢、詐欺罪で民事訴訟を起こす。訴状では、豪華なプレゼントや旅行などで少年の歓心を買い、性関係を進め、少年をだましながら関係をエスカレートさせていった、とマイケルを非難。
1993年9月16日 元使用人であったフィリピン人夫妻が「告発内容は事実」と証言。
1993年10月31日 裁判所がマイケルに「帰国」命令。
1993年11月12日 性的虐待疑惑のプレッシャーで鎮痛剤を常用、中毒状態になったことを理由に、ワールドツアーをキャンセル。しかし、年間1000万ドル(11億円)とも言われるペプシコやコロンビア映画との契約を解除され、中止したツアーの興行主らからも損害賠償を求められたマイケルは、所有していたビートルズ、プレスリーなどの音楽版権を売却。
1993年11月22日 元警備員5人がジャクソンを告訴。少年の夜の訪問について知り過ぎたとの理由で解雇されたと主張。
1993年12月8日 ラ・トーヤ・ジャクソンが男子児童性的虐待で兄弟を告訴。「虐待は'81年から行われている。被害にあった少年はひとりだけではない」と主張。他の家族は揃ってマイケルを弁護する。
1993年12月13日 元家政婦がロサンゼルス・タイムス紙にマイケルが少年といっしょに裸で寝ているのを数回目撃したと証言。
1993年12月14日 帰国命令を受け、アメリカに戻ったマイケルは警察当局の「下半身検査」を受ける事に。少年は「マイケルの下半身には皮膚が白い部分、黒い部分があり、つぎはぎだった」「下半身に入れ墨をしていた」と証言していた。
1993年12月22日 マイケルはテレビを通じて「私は潔白。犯罪者の様に扱わないで欲しい」と訴え、法廷で事実無根を主張する決意を示した。4分にわたるこの疑惑否定声明は、ネバーランドから通信衛星を使って世界中に流された。
1994年1月24日 検察は13歳の少年の父親に対する恐喝容疑を棄却。翌日、ジャクソンはこの民事訴訟を処理するために数百万ドルの支払いに同意。
1994年1月26日 マイケルは、少年側との間で訴訟取り下げに合意。地元報道によると、マイケルが少年に2000万ドル(約22億円)、の和解金を払うことが条件だった。マイケル側は声明で「後ろめたい点があるわけではない」と主張したが、マイケル自身が「法廷で潔白を明らかにする」と主張していただけに、疑惑を一層強める結果に。
1994年5月26日 大陪審2名が証拠を審査している間、ジャクソンはリサ・マリー・プレスリーとドミニカ共和国で結婚。
1994年9月15日 裁判所判事はジャクソンが元警備員との訴訟で米国憲法修正第5条の権利を適応できると判断。ジャクソンは性的虐待について返答を避けることができるようになった。
1994年9月21日 検察は13歳の少年が証言を拒否しているため、ジャクソンに対する告訴を取り下げると発表。
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