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デビューから約25年、四半世紀もの間、常に進化し続け、2児の母となり48歳になった今も、世界中を魅了するクイーン・オブ・ポップ、マドンナ。昨年末にリリースした通算11枚目のアルバム「コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア」は、全米・全英ともに初登場第1位、さらに、日本を含む実に40ヵ国でアルバムチャートNo.1を獲得という快挙を成し遂げました。これは、ポップ・ミュージック史上、No.1最多獲得国数という新記録だったのです。これほどまでに輝き続ける彼女の半生は、実は、波乱に満ち、スターゆえの苦労と戦いの連続だったのです。その壮絶なる人生とは?
スマステーション5特別企画 マドンナ伝説 vol 2 The CONFESSIONS「告白」 NEVER GIVE UP A DREAM

1982年、NY。スーパースター・マドンナの伝説が始まったのは1本のデモテープからでした。今や世界中が認める歌姫、マドンナがこれまでにリリースした総曲目数は、387曲。これは女性ボーカルとしてはもちろん、No.1の記録。これまでシングルカットされた全66曲のうち、36曲が全米ビルボードTOP10にランクイン。この記録はビートルズを抜き、そして、エルビスプレスリーと並び、トップに君臨するものです。ミュージック・シーンにおける、マドンナのヒストリーを見てみると…。

1982年
マドンナ24歳。米ビルボード・クラブ・プレイ・チャートで、デビュー曲「エブリバディ」が50万枚を売り上げ、最高3位を記録。

1983年
1stアルバム「MADONNA(邦題:バーニング・アップ)」を発売。全世界で計1000万枚を売り上げる。このアルバムからシングルカットされた「ホリデイ」は、クラブプレイチャートで1位を獲得。NYのクラブシーンを発端にマドンナの名前が定着するきっかけに。

1984年
2ndアルバム「ライク・ア・ヴァージン」をリリース。初の全米No.1を獲得。全世界2300万枚を売り上げ、一気にスターダムへ。このアルバムからは計4曲がシングルカットされ、「マテリアル・ガール」のプロモーション・ビデオ(以下、PV)ではマドンナが大好なマリリン・モンローを意識した作りで話題となり、全米全英ともに最高位2位を記録。

1985年
映画『ビジョン・クエスト/青春の賭け』のサウンド・トラック「クレージー・フォー・ユー」が230万枚のセールスを記録し、自身2作目の全米No.1シングルに。そしてこの年、米ビルボード誌が発表した1985年の年間チャートで、トップ・ポップ・アーティストなど、7部門を制覇。

1986年
マドンナの音楽的センスを如実に表した3rdアルバム「トゥルー・ブルー」を発売。全世界28カ国で1位を記録し2300万枚を売り上げ、この年のNo.1ヒットアルバムに。少女の妊娠、出産を歌い、当時波紋を呼んだシングル「パパ・ドント・プリーチ」も話題となり、全米1位を獲得。

1987年
映画『フーズ・ザット・ガール』のサウンド・トラックを発売。サウンド・トラックとしては異例の650万枚のセールスを記録。さらにこの年、自身初となるワールドツアーで2度目の来日を果たします。

1989年
4thアルバム「ライク・ア・プレイヤー」をリリース。このアルバムは6週連続1位を記録し、全世界で1500万枚というビックセールスも記録。神を冒涜しているとそのPVが物議をかもしたシングル「ライク・ア・プレイヤー」は、全米1位を獲得。さらに、「People」誌が選ぶ「世界で最も好奇心をそそられる25人」のひとりにも選出。

1990年
ウォーレン・ベィティの相手役を務めた映画『ディック・トレイシー』のサントラ「アイム・ブレスレス」をリリース。このアルバムには、一大ブームとなった「ヴォーグ」が収録されています。世界中のダンサーがマネをしたというPVで見せたダンスは、「ヴォーギング・ダンス」といわれ大流行。このシングルは全米で590万枚を売り上げマドンナの存在を世界中にアピールすることに。

1992年
5thアルバムとなる「エロティカ」をリリース。世界中に衝撃が走った写真集「SEX」と同時に発売されたこのCDは、大胆かつ赤裸々に、性に焦点をあてて作られた作品。ジャケットには初めて「成人向き、歌詞に露骨な表現あり」のクレジットが。しかし写真集の話題が先行しすぎたせいもあり、売り上げは200万枚にとどまりました。マドンナは後年、「写真集とCDを同時に出したのは問題だったわね。『エロティカ』の良さを気づいてもらえなかったわ」と語っています。

1994年
自分のキャリアに劇的な変化が必要と感じていたマドンナの通算6枚目のアルバム「ベッドタイム・ストーリーズ」が発売。当時22歳のベイビー・フェイスと作り上げたバラード「テイク・ア・バウ」は全米で7週連続第1位を記録。マドンナの音楽的才能を改めて世に示した1作となりました。

スターゆえの苦悩と、運命の男性との出会い

彗星のように現れ、デビューからの10年間、なんのコネも無く自分の力だけでのし上がり、数多くのミリオンセラーを生み続けたマドンナ。順風満帆に思われる彼女の人生。しかしその裏には、常人には考えられない挫折と苦悩があったのです。「最初のころは一発屋といわれていたわね」と自身が語るように、セクシーで挑発的、そして刺激的できわどいイメージを売りとしていた初期のマドンナは、新しい形のスターとして大衆からは絶大な注目を浴びるも、業界関係者からは辛らつな見方をされていました。しかし、マドンナはそんな声にまったく動じず、快進撃を続けるのです。その後、マドンナを初めて夢中にさせた男が現れます。それが、彼女より2歳年下のショーン・ペンです。当時、ハリウッドの若手俳優として注目を浴びていたショーンは、破竹の勢いでミュージック・シーンを暴れまわっていたマドンナに惹かれ、「マテリアル・ガール」のPVを撮影した監督に頼んで、撮影所まで訪ねてきたのです。そんなショーンに出会った瞬間に、マドンナは恋に落ちてしまったと言います。「あの日、なぜあの人に心を奪われたのかしら、不思議だったわ。すっかりまいってしまったの」と。こうして始まった交際は、パパラッチにとって格好の餌食でした。ほどなくして二人は婚約を発表。世紀のカップル誕生とその婚約は全世界に報道されました。1985年、8月16日。マドンナ27歳の誕生日に、ふたりは海を望む豪邸で結婚式を挙げました。アンディ・ウォーホール、トム・クルーズなど多くの著名人を招待して行われた式は非公開だったにもかかわらず、情報を聞きつけたパパラッチが100人以上も建物の周りに押し寄せたのです。後に、この結婚式をマドンナ自ら「サーカス」と言ったように、実は、非公開にしたのはマドンナの作戦だったのです。ことを内密に進めれば、マスコミは報道しようと躍起になり、大衆はますます記事を読みたがることを最初から計算していたのです。そして、始まった新婚生活。話題性十分のふたりには相変わらずパパラッチが付きまとい、注目されることに慣れているマドンナは上手くあしらうものの、短気な性格のショーンはマスコミとの衝突を繰り返し時には乱闘騒ぎも…。それが原因なのか、夫婦喧嘩が絶えない生活だったそうです。そして、3年の結婚生活を経た後、ふたりは離婚することになります。

女優としての成功への憧れと、突然の妊娠

ミュージシャンとして驚異的な成功をおさめていたにもかかわらず、マドンナにはもうひとつ夢がありました。それが、「女優」です。高校時代、演劇部に所属し舞台で浴びたスポットライトの快感を忘れることが出来なかったのです。それまでに、6本の映画に出演し、ブロードウェイの舞台にも立っていたマドンナですが、どの作品も評価はいまひとつでした。1989年当時、ハリウッドの大統領とも言われていた、俳優のウォーレン・ベイティの新作映画の相手役に抜擢されたのです。それが『ディック・トレーシー』でした。人気漫画をベースにディズニー映画として公開が決まっていたこの作品に出演することは、自らのキャリアに重要と考え、セクシーな悪女役を射止めるためにベイティに迫ったのです。そして、見事、役をつかんだのです。最高の特撮技術を誇り、往年のスターがこぞって登場するこの映画は、公開前から話題となり、マドンナも積極的に宣伝活動に参加。しかし、期待とは裏腹に、映画の興行成績は不振に終わり結局、またしても“女優・マドンナ”の名声が高まることはなかったのです。1990年、32歳になったマドンナは、また新たな恋を見つけます。その相手は、彼女のPVにエキストラとして参加していたバックダンサーのトニー・ウォードでした。そして、トニーとの間に子供を授かったのです。妊娠を大喜びをしたマドンナでしたが、検査の結果、合併症により流産することになってしまいます。この悲痛な出来事を振り払うように、その後、彼女はそれまで以上に仕事にのめり込んでいくのです。

1995年
デビューから10年余り走り続けてきたマドンナは、ここに来て何か大きな変化が必要と感じるようになります。そして、これまでの音楽性とは一線を画すアルバムを発表。自身2作目のベストアルバム「SOMETHING TO REMEMBER(邦題:ベスト・オブ・マドンナ〜バラード・コレクション)」です。収録曲14曲、すべてがバラードというこのアルバムの制作意図を、「ここ10年、私のキャリアについて非常に多くの論議が交わさたため、私の音楽にはほとんど関心が寄せられていません。歌は忘れられたも同然となっています」とジャケットに記しています。それまで築き上げてきたセクシーでポップなイメージを捨て去るように、全編バラードによるアルバム発表に踏み切ったのです。さらに、この年、女優としても大きな転機を迎えることとなります。映画『エビータ』との出合いです。ブロードウェイミュージカル「エビータ」の映画化が決定した時、マドンナは自分こそが主役エバ・ペロンにふさわしいと信じて疑いませんでした。当初、その候補には、メリル・ストリープ、ベット・ミドラー、オリビア・ニュートンジョン、ミッシェル・ファイファー、マライア・キャリー、グロリア・エスティファンと錚々たるメンバーが名を連ねていて、監督のアラン・パーカーもキャスティングに頭を悩ませていました。そこでマドンナは、自分こそがエビータ役にふさわしい女優であると便箋、実に4枚もの手紙をしたため、パーカー監督のもとへ送りつけたのです。そのなかで彼女は、音楽活動を完全に休止し、映画のために全てのスケジュールを空けることを誓い、さらにこう記しました。「あなたがチャンスさえくれれば、私は必ず、人の心を打つような歌と踊りと演技をします」と。マドンナはなぜ、それほどまでにエバ・ペロン(通称、エビータ)役にこだわったのでしょうか? それは、私生児として貧しい家に生まれるも、持ち前の美貌で権力をもつ男に近づき女優という仕事を得、やがて大統領夫人となり、ついには初の女性副大統領にまでなったエビータという女性の生い立ちが、マドンナ自身が歩んできたサクセス・ストーリーと似通っていたからなのです。マドンナの強い意志を受け、パーカー監督は名だたる名女優を押しのけ彼女をエビータ役に大抜擢します。しかし、マドンナを待ち受けていたのは、想像もしない苦難だったのです。

1996年
撮影のためアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに上陸したマドンナは、街のいたる所に書かれた「マドンナ帰れ」という文字を目にすることに。聖女・エビータを、セックスシンボルとして世間を挑発してきたポップスターに演じて欲しくない。それがアルゼンチンの世論だったのです。しかし、彼女のこの役にかける意思は強く、こっそり生前のエビータを知る人物たちに会い役作りに没頭しました。そして、うだるような暑さのなか、撮影はスタート。しかし、またもや思いもよらぬ事件が起こります。映画の最大の見せ場である、4000人の観衆の前でエビータが大統領官邸のバルコニーで歌うクライマックスシーン。当初、撮影の許可が下りていたにもかかわらず、大衆の抗議の高まりに、アルゼンチン政府が官邸への立ち入りを禁止したのです。マドンナはエビータ本人が実際に立ったそのバルコニーで演じることを強く望みました。そこで彼女は、大統領との会見を申し入れたのです。何度と無く断られながらも食い下がり、ついにメネム大統領との極秘会見が行われることに。会見当日、エビータが生きた1930年代の服装に身を包んで現れたマドンナ。挨拶をすませると、自らが歌った歌を大統領の前で流したのです。曲が流れている間、大統領は目を閉じじっと耳を傾けていたといいます。そして曲が終わったとき、彼の目には涙が浮かんでいました。そして、マドンナはこう訴えたのです。「なんとしてもこの映画を作りたいのです。いい作品になるとお約束します。エバの思いに出に敬意を払うつもりです。いい物にしたいという私の意志をどうかご理解ください」と。マドンナの熱い思いを黙って聞いていた大統領は、「どうやら私は君を信じているようだ」と言って手を伸ばし、マドンナの手をやさしく叩きながら「どんなことでも可能です。映画の成功を祈っています」と言ったそうです。本物のバルコニーでの撮影は、スタッフの想像を超えるインパクトを映画にもたらしました。アルゼンチンでの撮影を無事終えた直後、マドンナは自らの体にある異変があることに気づくのです。待望の妊娠です。映画の撮影前から、取材などでも子供が欲しいといい続け、真剣に精子提供者を募集することも考えていたマドンナ。そんな中、偶然セントラルパークで知り合ったフィットネストレーナー、カルロス・レオンと交際を始め、ついに子供を授かったのです。しかし、映画はまだ撮影中。しかも、ダンスシーンなど、体を多く使うシーンがあり、撮影はマドンナの体を気遣いながら続行されました。凍えるような寒さのなか行われた大行進、何時間も立ちっぱなしのダンスシーン、お腹を押さえて倒れこむシーンなど、身ごもった体での撮影は過酷を極めました。それでも、さらに大きな成功を勝ち得たい、その本能につき動かされ最高のパフォーマンスを見せたマドンナ。この女優としての成功は、自らの人生を価値あるものにしてくれるに違いないと信じていたのです。

96年10月、エビータ公開の2ヵ月前にマドンナは出産。念願だったエビータの出演と子供を同時期に手に入れ、「娘が生まれた瞬間に、私も再び生まれたの」と喜びを語ったマドンナ。総制作費60億円をかけて製作された『エビータ』は、マドンナのイメージを一新。興行的にも大成功をおさめました。批評家たちもこぞってマドンナを絶賛しました。 そして、ゴールデングローブ賞のミュージカル・コメディー部門において最優秀女優賞を獲得という栄誉を手にします。その後、本格的に音楽活動を再開したマドンナは、さらに新しいことに挑んでいくのです。

1998年
マドンナ自身「まったく未開発の分野」と語っていた、当時、若者達のパーティーなどでもてはやされていたテクノやエレクトロニカを取り入れた8thアルバム「レイ・オブ・ライト」をリリースします。発売前、専門家たちからは、「この手のアルバムを出すには彼女は年をとりすぎたのではないか」という声もありましたが、フタを開けてみると、全世界で1200万枚を売り上げ15年のキャリアの中で初めて、グラミー賞4部門制覇という偉業を成し遂げたのです。

1999年
映画『オースティン・パワーズ・デラックス』の主題歌として「ビューティフル・ストレンジャー」を提供。この楽曲でも、グラミー賞において最優秀主題歌賞を受賞。ショービジネス史上屈指の影響力を持つ女性パフォーマーといわれる存在に。

2000年
9thアルバム「ミュージック」が世界同時発売。この頃になるとミュージックシーンの変動も目まぐるしく変化し、次々と新しいアーティストが誕生しヒットを飛ばす反面、往年のスターたちの人気に陰りが見えてきた時代でもありましたが、マドンナの感性は衰えを知らず、あらゆる新参者をおさえ「ミュージック」は、全米第1位を獲得したほか、イギリスなど15カ国でも初登場第1位を記録。そんな彼女を支えた一人の男性がいます。イギリス人映画監督、ガイ・リッチーです。そして、リッチーとの間に二人目の子供が誕生し、母として二つ目の宝物を手にしたマドンナ。2児の母になってもマドンナは前進し続けています。

2002年
映画『007/ダイ・アナザー・デイ』主題歌をリリース。この曲は、全米チャートで35曲目となるトップ10入りを果たしこの時点でビートルズの持つ34曲を抜き、歴代2位となりました。

2003年
10thアルバム「アメリカン・ライフ」をリリース。イラク戦争の真っ只中に発売されたこのアルバムは世間では反戦アルバムとの声も上がった。「アメリカン・ライフ」のPVでは反戦的作品と放送規制がかかるなど、またしても話題をさらったマドンナ。彼女の精神的内面を歌い上げた作品となっていました。

2005年
47歳となったマドンナは、ダンスクイーンとして復活します。11thアルバム「コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア」です。全曲ダンスミュージックという、前作とはガラリと変わったこのアルバムは、昔のマドンナを知らない若い世代にも支持され、全世界40ヵ国でアルバムチャートNo.1を獲得。アルバムからの1stシングル「ハング・アップ」は全米チャートで1位を飾り、これでトップ10入りシングルが、エルビス・プレスリーの持つ36曲に並び、まさに世界が認めるスーパースターとなったのです。ちなみに「ハング・アップ」は現在も売れ続け、自身最高となる全米だけで870万枚のセールスを記録中です。

約25年を経て、未だ音楽業界の頂点に君臨し続けるクイーン・オブ・ポップ、マドンナ。近年は絵本作家としても活動の場を広げ彼女の絵本は世界十数ヵ国語に翻訳され世界中の親子を魅了しています。さらに、以前、親友をエイズでなくしていることもあり、積極的にチャリティー活動にも参加。先月にはアフリカ南東部マラウイ共和国の孤児を支援するために300万ドルの募金を行いました。今や理想の母親として世間から注目を浴びるマドンナ。彼女はこの25年間を振り返り、数々の言葉を残しています。

「私はずっと人気者であると同時に嫌われ者で、成功者であると同時に敗者で、愛されると同時に憎まれてもきた。でも今になってわかるの。どちらにしろ、みんな意味の無いことだってね」

「あたしは『絶望の女王』なのよ! でもあたしはすごくいいメカニズムを持っているの。どんな悪い状況になっても、人生を完全に絶望視するのをくい止める何かがあるのよ」

「人生でこんなに多くの過ちを犯さなければよかったのにと思うわ。でも、それにこだわっていたら時間の無駄。あたしは今の自分に自信があるし、次に進むだけよ」

今週木曜東京ドームで行われたコンサートで、今回のワールドツアーを打ち上げたマドンナ。総観客動員は11カ国で120万人。全ての会場で即日ソールドアウトと絶大なる支持を獲得しました。ちなみに、今回のツアーの興行収入は200億円を突破し、これは歴代女性アーティストのNo.1の記録です。

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