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Vol.86 「旅行記(ペルー編)」(2009/9/21・2009/10/12)

天空まで乗車します。

さながら銀河鉄道の気分で乗り込んだ、ペルー鉄道。
高地の朝は寒い。駅舎で列車を待つ間、素焼カップのコカ茶で暖をとる。
終点のマチュピチュ駅には、昼前に着く予定だ。


山々の鞍部に築かれた空中都市。
標高約2400mにそびえる堅牢な要塞を、麓からは確認することは出来ない。
終着駅からはバスに乗り、
急カーブを繰り返しながらつづら折りの山道を登っていく。

はやる気持ちを抑え、瑠璃色の列車にゆっくりと歩み寄る。
酸素が希薄ゆえ、高山病にはご注意を。駆け込み乗車はいつだって禁物だ。


午前9時。列車は定刻を少し過ぎ、ごとんと滑りだす。


田園を抜けると麦畑が広がった。
リャマを引く農夫。手を振る子ども。風と土がくるくる回る。
後尾の展望席からデッキに出ると、トンネルに入った。
急峻な山肌が左右に迫りくる。
岩穴からのぞく線路の果ては、みるみる世界を吸い込んでいく。


ほどなくして、生演奏が始まった。
ギターとボンボ(太鼓)が悲哀と歓喜を奏で、
気付けばそこにいる乗客が思い思いの楽器を手にしていた。
つるりと赤いマラカスと、孔雀色のタンバリン。
音色に合わせて踊りだす、スペイン人の夫婦。
今日が誕生日だという女性乗務員には、即興のバースデイソングが贈られる。
血行が良くなると、高山病に見舞われる―。
ガイドブックにあった注意事項も、その頃にはすっかり忘れていた。


マチュピチュ駅に着く頃には、日もとうに高くなっていた。
古びたホームに降り立ち、深く呼吸する。
車内に残ったバンドマンたちが、散らばった楽器をそのままに、
こちらに向かって大きく手を振る。
少し息苦しいのは、標高のせいだけではなかった。


忽然と、現れる。
尖った断崖の上、霧を纏った都市の跡。
“老いた峰”と称されるマチュピチュは、
インカ帝国の滅亡後も長らく眠りに就いていた。
400年間の沈黙。
そして自分も、言葉を失う。

正面に、陵墓。眼下には段々畑。その果てを辿れば、石造りの市街地を捉える。
水路からはゆるやかに水が流れ、広場では、リャマが静かに草を食む。
石切場、王女の宮殿、ミイラの安置所。

 

岩肌に腰掛ける。彼方には、手縫いの線路が山沿いをちくちくと囲っている。
ことこと走る、キャラメルみたいな列車。


飛行機、飛行機、飛行機、列車、バス。
それぞれを乗り継いで、約30時間。


旅をしていると、知らぬ間に自問している。

「そこに、見るところはあるの?」

ようやくの、せっかくの休暇なのだから。
日常から離脱した、その先に待っているものを。
ポストカードを選ぶように、風光明媚を手の中に。
美しく、端正で、完成されているはずの景色。

見どころ。見るべき場所。見る価値のある場所。
高みから見下ろすのは、この眺めだけで十分だ。
天気も、風も。
決めてしまう前に、身を委ねればいい。

霧はいよいよ白く煙る。

折しもインカは、最後まで文字を持たなかった。
言葉を失った私に、無言で語る。
見るところがないのではない。見えなかっただけなのだ。

山麓を、ふくよかな風が滑りおちていく。



(「日刊ゲンダイ 週末版」9月21日・10月12日発刊)
   
 
 
    
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