旅が好き。
列車も大好き。
車窓からの景色が見たくて、鹿児島に行ってきました。
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霧島と鹿児島を結ぶ特急列車、はやとの風。
待っていたのは、山間の小駅、嘉例川。
築百五年の木造駅舎には古びたノートが置いてあり、過ぎし時間が記される。
一日二往復。
黒炭色をした列車に乗りたくて、この地に赴いた。 |
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待合室には、老齢の男性が背筋を伸ばして腰掛けていた。
八十歳ぐらいだろうか。
黒い細身の制服と、揃いの制帽。
胸には名誉駅長の名札が光る。
「お嬢さん、乗りやっとな?」
「はい」
「あと三十分はあるよって、ゆっくりしていきやんせ」
漆喰の壁に囲まれた、小さな駅舎。
改札口といっても、木製の枠が佇んでいるだけである。
その場所を抜けようとすると、またも駅長さんが「お嬢さん、お嬢さん」。
気恥ずかしくなりながらも振り向くと、枠の下部を指して嬉しそうに言う。
「これ、何か分かる?」
まあるく磨り減った箇所は、風化されたのだろうか。
「ここになあ、よく小さい子どもが乗っとったんよ」
子どもは切符を持っていないから、プラットホームには出られない。
改札に足をかけ、汽笛と共に滑り込む列車を、身を乗り出して待っていたという。
「昔はなぁ、列車も珍しかったもんでなぁ」
その場に屈み、靴の跡をざらりとなぞる。
拳ほどの窪みと、ぎこちなく握手する。
駅弁も売られていた。
家族経営らしく、お父さんと娘さんが忙しなく動いている。
竹皮に包まれた弁当が並び、横に置かれた大きなたらいには「ガネ」と呼ばれる紅さつまの天ぷらが山の如く盛られては切り崩されていく。 |
椅子に腰掛けているのは駅長さん |
「お嬢さん、弁当は持ったかい?」
「あ、後で、車内で頂きます」
こっそり持たせてくれたガネをすぐさま頬張りたい気持ちを抑え、プラットホームに出た。
途端、前のめりに迫る新緑。
若草色と蓬色が風にかき混ぜられて、恬然と線路に寝そべっている。
咲き始めたヤマツツジの赤みを追えば、霧島連山の稜線にたどり着く。
駅舎の時計は止まったままだった。
風が吹くには、まだ随分と早い。 |
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「五つ下さい」
「八つ、包んでもらえる?」
嘉例川駅の名物は、はやとの風ともうひとつ。 |
真ん中にある大きな天ぷらが、ガネです |
椎茸と筍の炊き込みご飯、コロッケ、千切り大根の煮物、みそ田楽…。
地元の食材だけを使ったこだわりの駅弁は、今や全国にその名が知られるほど。
お弁当屋さんは、毎朝三時に起きて仕込みを行うという。
昼時を過ぎ、ようやく行列が途絶えると、がらんとした待合室で束の間の休憩となる。山ほど盛られていたガネも、すっかりなくなっていた。
もうじきやってくる列車を待ちながら。
ガネの入ったビニールを握り締め、私も古びた長椅子に座る。
向かいに座っていたお弁当屋のお父さんが、ふいに小さな紙袋を渡してくれた。
“FRENCH FRIES”と横文字が踊るが、フライドポテトはここにはない。
はて。
問いかけようとしたが、お父さんは既に目を閉じていた。 |
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程なくして、はやとの風が悠然とプラットホームに到着する。
停車時間は五分間。
列車に乗る人も乗らない人も、車両の周りにおのずと集まってくる。
発車ベルは鳴っただろうか。
陽を受けて黒蜜色に光る車体は、とろけるように滑り出す。
ああ、待って!
惜しむ間もなく列車に飛び乗って、みるみる遠ざかる駅へと身を乗り出すと、
さっきのお父さんが大きく手を振って、しきりに何かを叫んでいる。
両手で何かを持つしぐさ、勢いよくかぶりつくのは…。
「ガ」「ネ」「ガ」「ネ」。
ああ、さっきの小さな紙袋には。
このガネを入れて、食べるのね。素手で持たなくてもいいように。
忙しすぎて、ひとつひとつを包む時間がない中で。
ほくほくの気持ちが、じゅわっとこみ上げる。 |
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(「日刊ゲンダイ 週末版」5月19日・6月9日発刊) |