真に裁かれるべきものは誰か。
国民の知る権利か、国家機密の保護か。
「報道の自由」や「民主主義の本質」といった、あまりに重く大きなテーマを目の前に突きつけられる。その一方で、
ネタを取るために、どこまでやれるのか。
公私の境は、はたしてどこなのか。
取材者としての至極個人的なテーマも、身に迫る。
「多数の国民に真実を伝えるために、新聞記者として行った取材活動を、犯罪とする点においても…到底、納得できません」
石山太一は、法廷で主張する。
新聞記者として行った取材の結果、事実を突き止めたことは確かだ。
片や、アナウンサーとしての自分の取材を顧みる。常々、報道局のデスクは言う。「自分の目で確かめて来い。聞きかじった情報を鵜呑みにするな」。そのつもりで、取材には出る。だが、ままならず、己の無力を痛感することは多々ある。
石山の目的への執念に揺さぶられる一方で、その手段については別の意味で揺さぶられる。彼は、男女問題について一切を語らなかったので、情報を得るために筈見に近づいたのかどうか、真相は分からない。
「すべて、おっしゃる通りです…」
筈見絹子は、一貫して主張しなかった。
法廷ではハンカチで涙を拭い、終始俯いたまま。
どうして、事務官としての立場を忘れて、安易に資料を持ち出してしまったのだろう。忘れてしまうほど石山を愛していた…ということだろうか。
もし、「機密を公開する義務があった」「だから取材に協力した」と法廷で述べていたら。自らの意思で述べなかったのか、それとも、述べられない理由が他にあったのか。
―当事者以外知る由がないと分かりつつ、様々な思いが逡巡する。
「報道の自由がなければ、他のどんな自由も続かないんです」
石山の有罪判決が出た後、長年の部下である新聞記者が言った。
かくも断言するならば。
情の果てに、裁きが待っていたとして。
その中で、何を報じるのか。同時に、何を受け取るのか。
身につまされる思いがした。 |