祝・400回も、こんなに祝ってくれますか?
祝・300回!
堺雅人さんをゲストにお迎えして、『篤姫も驚いた!? 大奥の意外なルール』をオンエア!!
オープニング、登場するなり神妙な?顔つきで話し始めた香取編集長。「実はここでみなさんに重大発表があります。SmaSTATION!! 実は今夜で………放送300回を迎えました!2001年10月から始まりましてあっという間の7年間!今日は記念日なんですよ。ホントにいろんなことをやってきました。24時間テレビとコラボしたり、27時間テレビとコラボしたり、あとテレビになかなか出ない人が来てくれたり…あっ、英語もやってたな(笑)。英語もしゃべれるようになったりならなかったり…。今後もいろんなことに挑戦していきますので、よろしくお願いします!」。というわけで、300回記念SPとなった今回は、堺雅人さんをゲストにお迎えしました。そう、いまや伝説となっている近藤局長&山南さんのツーショットが遂に実現したのです!
今夜の特集は、大河ドラマ『篤姫』で将軍家定を演じた堺さんにぴったりの『篤姫も驚いた!? 大奥の意外なルール』。徳川家の跡継ぎを絶やさないために250年にもわたって歴史を築き、篤姫も暮らした女の園・大奥の知られざる秘密に迫ると同時に、薩摩が生んだ幕末の才女、篤姫の素顔にも迫りました。「どうすれば大奥に入れるのか?」「大奥で働く女性たちの年収は?」「大奥のおしゃれ事情は?」といったさまざまなギモンを解き明かしていったわけですが、驚いたのはほとんどのクイズに正解する堺さんの博識ぶり。編集長いわく、「『新選組!』のときも、何かわからないことがあると堺さんに聞いていた」そうですがサスガです! そんな堺さんには「役者としての香取慎吾さんをどう思いますか?」という質問メールも。「大河の主役は、1年間通して扇の要であり続けるわけですよね。だから、今回の宮崎あおいさんもそうですけど、いろんな方が主人公にいろんな刺激を与えていって、だけど一歩も引かずにそこにいるっていうのって、多分、普通の役者が考える技術であるとか、そういうものとはまた別の、もうひとつの力がいるような気がするんですよね。香取さんはホントに、一歩も引かずにそこにドンとい続けたっていうのは、共演者から見ても凄いな、と思ったし、頼りがいがあるな、と思ったし…」と堺さん。ちょっと照れている編集長の顔がまた最高でした!
次週8月30日放送は、ついにあの準レギュラー・草ナギ剛さんをお迎えして、『ベストヒットスマステーション!懐かしのゲームBEST20』をお送りします。お楽しみに!
大河ドラマのヒロインとしても描かれる天璋院・篤姫が、今、一大ブームを起こしています。通常では不可能な身分から、時の将軍の正妻に迎え入れられるというシンデレラストーリーが共感を呼び、老若男女から多くの支持を集めています。そこでスマステーションでは、徳川家の跡継ぎを絶やさないために250年にもわたり歴史を築き、篤姫も暮らした女の園「大奥」の知られざる秘密に迫ります。薩摩が生んだ幕末の才女、篤姫の素顔はもちろん、「大奥」の意外なしきたりや、さらに女たちの戦いなど、素朴なギモンを一挙解決します!
スマステーション特別企画!
篤姫も驚いた!?大奥の意外な「ルール」
■ルール(1)『大奥はなぜ出来たの?』
豪華絢爛な舞台の裏で、陰謀や欲望渦巻く男子禁制の女の園…「大奥」。そもそも、「大奥」が江戸城の中に出来たのは、2代将軍・徳川秀忠の時代です。将軍が政治を行う仕事場である「表(おもて)」、将軍が生活をしていた「中奥(なかおく)」、そして、将軍の御台所と呼ばれる正妻や側室といった女性たち住んでいた場所が「大奥」です。その広さは6,318坪。東京ドームのグラウンド部分約1・5個分に相当。大小とりまぜ200室近い部屋が存在したといいます。また、当時はまだ男子禁制ではなく、将軍以外の男性家臣が訪れることもしばしばあったと言われています。その後、3代将軍・徳川家光の時代に、家光の乳母で権力を振るった春日局が、「大奥」を男子禁制の女性だけの空間に。将軍以外、医師や子供などの例外を除き、完全に男性の立ち入りを禁止させたのです。一体、なぜこの様なルールが出来たのでしょうか。
加来先生のコメント
「記録に残っている家光という人は、なかなか女性に関心を持たなかったんですね。それで、これでは世継ぎが出来ないということで非常に困った春日局が、子供を作るために女性を集める…女性を囲うという発想をしたのです。ですから、間違いなく家光の影響で大奥は出来たといえると思います」
その結果、女性嫌いだった家光も次第に女性に興味を持つ様になり、複数の側室を作って、6人もの子供を設ける事が出来たのです。こうして「大奥」は、徳川家のお世継ぎを絶やさないためのシステムとして特化され、独特な文化を形成していくこととなるのです。女性だけで構成された「大奥」には、3代将軍・家光の時代など最盛期には約3000人もの「大奥」で働く女性の総称である奥女中が仕えていたと言われています。また、「大奥」で働くということは、今で言うと「有名女子大」を卒業するほどのステイタスであり、江戸庶民羨望の職業であったといわています。
■ルール(2)『大奥にはどうすれば入れるの?』
奥女中たちは、現代風にいうと“キャリア”と“ノンキャリア”に分けられていました。役職は、最上級の「上臈御年寄(じょうろうおとしより)」から、最下層の「御末(おすえ)」まで、21もの階級に分けられ、将軍と顔を合わせる事が許されるのは「御広座敷(おひろざしき)」と呼ばれるランク(上位15番目)の者まで。これを「御目見以上(おめみえいじょう)」といい、その下の「御目見以下」に属するランクのノンキャリア組は、将軍の姿さえ見る事が出来ませんでした。つまり、すべての「大奥」の女性たちが将軍の側室候補になれたわけではないのです。さらに、「大奥」のトップに君臨する「御台所(みだいどころ)」と呼ばれる正妻は、「大奥」の制度が確立されて以降、京都の宮家や公卿といった非常に身分の高い家柄から迎えるのが慣例となっていました。しかしそんななか、ふたりだけ例外が存在したのです。11代将軍・徳川家斉に嫁いだ「茂姫」と、13代将軍・家定に嫁いだ「天璋院・篤姫(てんしょういん・あつひめ)」です。ふたりの姫はともに薩摩の島津家という、大名家の娘。茂姫は、家斉が将軍に任命される前に婚約していたため、自動的に御台所の座に着くのですが、篤姫はいきなり家定の正妻として迎えられたのです。どうして、そんな常識外れともいえる結婚が成立したのでしょうか。
加来先生のコメント
「篤姫を大奥へという話は、元々は将軍家の側、いわゆる幕府のほうから持ち掛けられた話なんです。実は11代将軍・家斉の御台所・茂姫が薩摩から出ているのですが、この茂姫が子供をたくさん産んで、それが大名家に枝葉となって分かれているんですね。そんなふうに健康で子供を沢山作れる女性なら是非とも欲しいと。そこで、島津斉彬の所まで『そういう姫はいないか?』という問い合わせが来たのが起こりなんですね」
では、そのほかの女性たちはどうやって「大奥」に入ったのでしょうか。
加来先生のコメント
「将軍御目見になるのは、旗本の子女が多かったと思いますね。しかし、御目見以下となると商家、いわゆる商人の娘さんも沢山応募してくる訳ですね。したがって、その多い人達を今度はふるいにかけなければいけない。当然のように、試験も行われたと思いますね」
江戸庶民羨望の職業だった大奥女中になるには、今の世と変わらぬ、競争率の激しい試験があったのです。当時、教養度を測るために行われたのは筆記試験と裁縫の試験。筆記では決められた文言、そして親と自分の名前を書き、さらに、手縫いの着物を提出する事で、文字と裁縫の腕がチェックされていたのです。それ以外にも、縁故採用というのもあったようで、「大奥」で働いていた姉の所に遊びに来ていた妹がその器量を買われ、働くことになったというケースも。しかも、その後…将軍の目に留まり、見事側室の座を射止めたという女性まで。世継ぎを産み、「大奥」で揺るぎない地位を確立したのが、13代将軍・家定の母、後に篤姫の姑となる本寿院です。そんな「大奥」は、恋愛はもちろん、例外を除き、外出さえも禁止されるほど規律を重んじる社会でした。そこでは、「奇妙なしきたり」がまかり通っていたと、後の文献に書かれています。「大奥」に入ってくる新人の女中たちを最も困惑させたのが、毎年、年越しの夜に行われる「新参舞」、いわゆる新人歓迎会。そこで、新人の女中たちは、先輩女中たちの前で裸踊りをさせられたというのです。これは以前、奥女中のなかに刺青を彫っていた者がいて大騒ぎになり、それ以降、刺青が入っていないか調べるという理由で始まったと言われています。
将軍の正妻である御台所は、「大奥」の頂点に君臨する存在であるため、自分で何かをする事は許されなかったと言われています。鼻を拭くことに始まり、トイレでの処理も人のケアを受けていました。奥女中たちが将軍とふたりで過ごす夜も例外ではありませんでした。お坊主、お手つき中臈と呼ばれる者たちに監視されながら、一夜を過ごさねばならなかったのです。これは、相手をした女性が、自分に都合の良いおねだりを将軍にさせないため。そこで交わされた会話はすべて、上司の御年寄に報告されていたのです。一方の将軍は将軍で、自由に夜の営みが出来る訳ではありません。当日、「大奥」に通じる入り口、「御錠口(おじょうぐち)」が閉まる午後6時までに泊まることを告げなければ、将軍といえども、女性と一夜を共にする事が出来なかったのでです。さらに、近親者の命日などには「大奥」に入る事は慎まなければならず、14代将軍の頃は、将軍が「大奥」に行けるのは、月の半分程度だったと言われています。そんな細かい“しきたり”がまかり通る「大奥」には、30歳になると側室はもちろん、御台所でさえも将軍と夜を共に出来ないという決まりもありました。ちなみに30歳を越えると、どんなに将軍に気に入られている女性でも「お褥御免(おしとねごめん)」といって、夜の相手を辞退しなければならないのですが、それでも断らずに相手をすると、周りから「好女(すけべい)」と蔑まされたのだそうです。
■ルール(3)『大奥の女性たちの収入は?』
山本先生のコメント
「階層によってずいぶん違うんですけれども、トップの御年寄で考えますと、基本給である切米が50石。それから手当てである合力金が80両あります。全部あわせると小判にして130両ですね。1両30万円として換算しますと、年間4000万くらい。5月と10月の2回に分けて4000万円が支給されるという事になります」
当時の庶民の年収が6両=180万円位とされるなか、その約20倍もの金額を手にしていたという計算になります。しかも現金以外に、米・油・炭などの生活必需品も支給されていたため、非常に裕福な生活をしていたと思われます。さらに驚くべくは、30年以上「大奥」で働いた者には、年金制度が適用されたというのです。
山本先生のコメント
「現代の年金は、自分で積み立てている分が返ってくるという意識がありますけど、大奥女中の場合は勤務をやめると、基本給か手当てどちらか高い方を一生支給されるんです。だから、大奥女中で御年寄りまで昇った人は、合力金が80両ですから、80両が年金分として仕事をやめた後支給されたと。これは、現在のお金にして2400万円位ということになりますね」
奥女中といえば、当時の庶民達にとって憧れの的。美貌と教養を兼ね備えた才女たちの集団として、その卒業生は周りから羨望の眼差しで迎えられました。そのため、その後の縁談にも事欠かなかったといいます。しかし、これら全ての面倒を見る幕府の予算は膨大なものに。「大奥」にかかる経費は年間で、200億円にも上るものだったと言われています。当時、財政難で幕府の経済はひっ迫。そこで8代将軍・吉宗は建て直しの手始めに、大奥の大リストラを断行します。リストラといえば、年配者からという印象がありますが、吉宗は「25歳以下の美女」に限定します。その理由は、「大奥を辞めても、嫁入り先には困らない」というのが表向きの理由とされていますが、一説によると、吉宗は美人が苦手だったという噂も…。
■ルール(4)『大奥のオシャレ事情』
高給取りだったとはいえ、奥女中達は、外出する事も許されず、将軍以外の異性との交流も殆ど無し…。そんな彼女達の唯一の楽しみといえば、今の世の女性と同じく、メイクやファッションなどの「オシャレ」だったといいます。当時、すでにファッション誌も存在し、奥女中たちは最新の美容情報を得るため、こぞって欲しがったといわれています。
村田先生のコメント
「文化10年、1813年に出された『都風俗化粧伝』という、今で言う総合美容読本が出版されました。これが、江戸時代の唯一の化粧読本と言っても間違いじゃないと思います。この本には、今で言う修正メイクも載っていて、眉の描き方で、目を大きく見せたりとか小さく見せたりとかという方法もありますし、鼻を高く見せる方法、“がに股”を直す方法も書いてあります」
そしてこの本には、「例え醜い顔でも、この本に書いてある方法で化粧をすれば、必ず美人になれます」という一文までありました。
ではここで…この本を元に当時の美人と呼ばれるメイク法を大紹介!
まず洗顔後、歯に鉄漿(おはぐろ)を塗り(※既婚者のみ)、白粉(おしろい)で顔中を真っ白に。女性は白ければ白いほど美人だと言われたのです。そして口紅は、当時の主流だったリップラインをかたどった紙を当てて塗り、眉毛を描いて完成です。
現代の女性と変わらず、こんなにもオシャレに気を使っていた奥女中たち。しかしそんな女心が報われるのも、褒めてもらえる異性あっての事。そんな中、ときにはこんな事件も…。普段は外出を固く禁じられている奥女中たちですが、神社仏閣への祈祷という理由があれば、外出の許可が下りたのです。そこで、彼女たちが我先にと通った寺が感応寺(かんのうじ)。実はこの寺、男性との交流がなかった奥女中たちを取り込もうと、住職が意図的にイケメンを僧侶として雇用していたのです。しかし、結局、奥女中たちのみだらな行為が幕府にバレて、感応寺は取り潰しに。
■ルール(5)『天璋院・篤姫の壮絶なる生涯!』
通常ならありえない身分から、一躍、時の将軍の正妻にまで上り詰めた篤姫は、まさに日本のシンデレラといえるでしょう。そんな彼女だからこそ、超セレブな「大奥」のルールは、どれも驚きの連続だったに違いありません。
薩摩藩の分家である今和泉島津家・島津忠剛の長女として育った篤姫は、薩摩藩本家の次期当主である島津斉彬の命を受け、徳川家に嫁ぐ事になります。徳川将軍の正妻の座は、古くから京都の宮家や公卿出身といった非常に身分の高い家柄から迎えるのが慣例のなか、篤姫は身分を高く見せるため、まずは島津本家の養女として斉彬の娘となるという方法が取られました。さらに、今までの慣例に従うため、五摂家の一つである京都の近衛家へ、さらに養女に出されたのです。ちなみにこの当時、度重なる養子縁組は禁じられていたため、篤姫が分家の出身だということはトップシークレットだったといわれています。こうして、徳川家の妻として相応しい身分になった篤姫は、1856年、22歳で江戸城「大奥」へ入る事となりますが、そのお輿入れの婚礼道具を見た篤姫は、あまりの豪華さに驚いたことでしょう。
加来先生のコメント
「花嫁道具といいますか、嫁入りしていくに当たって持っていく道具を運びます。篤姫は渋谷の藩邸の方にいたのですが、この行列が渋谷から出発して、江戸城に入っているにも関わらず、まだ途切れないくらい続いたと言われています」
渋谷から現在の皇居までの約5キロにわたる距離を埋めるほどの嫁入り道具が用意されたのだといいます。これは、最終的に養女になった近衛家はもちろん、島津斉彬が喜びのあまり、大量に用意したからだといわれています。ちなみに、篤姫の嫁入り道具を集める際に、幕末のヒーローとして有名でそろばんが得意な西郷隆盛が会計係として働いていました。こうして、御台所として「大奥」で生活するようになった篤姫ですが、実はこの時、彼女にはあるミッションが与えられていました。それが、将軍の後継者問題です。
加来先生のコメント
「時代が混沌とする幕末の中で、外国の勢力が日本に入って来る。そんななか、家定がダメならば、14代将軍に名君を迎えようという風に考える派閥が出来たのです。この派閥で一番力を持っていたのが、島津斉彬。当然、斉彬は自派が押す一橋…後の15代将軍となる慶喜を将軍にすべく、家定にアプローチをするため篤姫にいろいろと指令を出していたようです」
しかし、そんな篤姫の努力も報われぬまま、後継者決定の鍵を握る夫・家定が急死。わずか1年9ヵ月という短い結婚生活が終わりを告げると、養父・斉彬までもが亡くなります。結局、第14代将軍に選ばれたのは、南紀派の慶福…後の徳川家茂でした。ちなみに、この家茂の正妻は皇女・和宮。江戸幕府始まって以来、初めて天皇の妹が正妻として嫁いできました。篤姫は、家茂の養母…そして和宮の姑として徳川家を支え続けました。しかし、その家茂も21歳という若さで亡くなり、第15代将軍に徳川慶喜が就任。ところが、幕府には国をおさめるだけの力は残っていませんでした。代わって台頭したのは、薩摩藩や長州藩からなる討幕軍。篤姫にとっては、嫁いだ先の徳川家と自分の故郷である薩摩藩が対立するという悲劇的な立場に身を置くことになってしまったのです。そして1868年1月、両者は遂に、京都の鳥羽伏見で決戦。いわゆる戊辰戦争が始まります。しかし、幕府軍の劣勢は変わらず、もはや江戸城への攻撃は免れない状況でした。ところが篤姫は、どんなに状況が不利になろうと故郷・薩摩に帰らず、慶喜に帰郷を勧められた時もキッパリと断っています。篤姫はすでに徳川家の人間であり、徳川家を守るためなら死ぬ覚悟さえできていたのです。そして、いよいよ討幕軍の攻撃が江戸にまで迫ってきます。篤姫は、徳川家の基盤である江戸の町が焼き払われない様に、最後の手段として、かつての側近であり、討幕軍のリーダーである西郷隆盛にこんな嘆願書を書き送りました。
「徳川家に嫁いで来たからには、徳川の土となるのは当然です。でももし、徳川家に何かあったら私はあの世で、夫にあわす顔が御座いません。私の命を救うより、徳川家を救ってくだされば、これ以上の喜びはありません」
こうした彼女の働きもあり、江戸城への総攻撃は中止されたのです。世に言う「江戸無血開城」に篤姫は、大きな役割を果たしていたのです。また一説によると、篤姫は長年暮した「大奥」を離れる際、着物や調度品など、金目の物は全て置いていったのだともいいます。この時、立ち会った薩摩の藩士は、篤姫のあまりの潔さに涙が出たと書き記しています。その後の篤姫は、現在の港区・赤坂に居を構え、ある人物の教育に心血を注ぎました。世が世なら国を治めていたであろう、田安亀之助こと徳川宗家16代・家達(いえさと)です。江戸幕府が終焉を迎えてからも、徳川家を愛し続けた彼女は、家達が成人になるまで立派に育て上げたのです。さらに、かつて「大奥」に仕えていた奥女中たちの就職や縁談にも力を注ぎ、徳川家ゆかりの人間で困っている者がいると、どこへでも飛んでいき自分の蓄えをはたいてまで面倒を見たといいます。そして明治16年(1883年)11月20日、篤姫は48歳でその波乱の生涯を閉じたのです。死に際しての所持金はたったの3円。現在の貨幣価値に換算すると、わずか6万円しか持っていなかったのだといいます。最後まで、徳川の女としての人生を全うしたのです。そんな篤姫が埋葬される際は、およそ1万人の人々が彼女の棺を見送りに来たと言われています。徳川家を愛し、江戸の町を愛した篤姫は、江戸中の人々から愛されていたのです。徳川家繁栄の影に「大奥」あり。豪華絢爛な舞台の裏では、男達を支えるこうした血のにじむ女たちの闘いがあったのです。
300回? 小さいもんだよ。大奥は3000人だよ!
香取編集長も「いろんな人から言われた」とおっしゃっていましたが、局長と山南さんの再会、よかったですよね。誰もが待っていたゲストだったのではないでしょうか。というわけで、今週の格言は「3」つながりでお届けします。「堺さんらしく『大奥といえば、大奥三千っていうからなぁ…』って(笑)。あんな風にサラリと当ててしまうなんて、わけがわからないですよね(笑)。今日は、『篤姫』つながりのゲストの堺雅人さんと言うより、ちょっとVTRの中に出てた歴史研究家の人、みたいな、そういう人が来ちゃったような感じでサスガでした、っていうのと、まあ300回ということですよね。300回なんて小さいもんだな、って思えるくらいに、3000回を目指して…。ということは、10倍なので70年だ。70年…まあできないことはないのかな(笑)。この番組は、何でも挑戦できたりするし、その中で、まだお会いしたことない人にお話を聞きたいな、っていうときに、是非このSmaSTATION!!に来てもらいと思いますし、毎週、余計なことを考えずにいろんな特集を…今日のVTR明けに『面白い番組だなぁ』って言っちゃいましたけど、それくらいの気持ちでいつもできる場であればいいな、と思います。それと同時に、みなさんにも『面白かったな』『そんな時代があったんだな』って共感してもらえたら嬉しいです」。
堺雅人さん
7年間続けるのは凄いことだと思います。600回くらいのときに、また呼んでください(笑)。
放送300回の記念の日に初登場となりました。
つくづく、僕でよかったのかなって思いましたけど、でも、勉強にもなりましたし、とても楽しかったです。みなさん「1時間があっという間」とおっしゃっているのを聞いていましたけど、本当にその通りでしたね。
スマステはよくご覧いただいているそうですが、どんな印象がありますか?
生放送の面白さを凄く出している番組というか、そのときみんなが興味のある鮮度のある情報を与えてくれる番組ですよね。見ていても、「やっぱりそうだよな、これが見たかったのは僕だけじゃなかったんだ」と思うことがテーマになっていることが多い番組だと思います。
今回の「篤姫」や「大奥」もまさに、そんなテーマでしたね。大河ドラマで篤姫の夫で将軍・家定を演じていらっしゃった堺さんからご覧になって、印象的だったのは?
家定の母親の本寿院がお姉さんの縁故採用で「大奥」に入ったということですね。よく、お姉さんのオーディションについていったら妹が受かっちゃったみたいな話を聞きますけど、それを地で行っていたんだなって(笑)。そんなふうに大河ドラマで描かれることがなかった情報を知ったことは面白かったですね。それにしても、大奥のトップの収入が4000万円とか大奥の経費が200億円とか、大奥とは当時の政治指導者がそれだけの国家予算を割く価値があると判断した組織だったんだなって。そんなことも改めて思いましたね。
篤姫の人柄に関して紹介されたエピソードも印象的でした。堺さんからご覧になって、篤姫はどんな女性ですか?
僕は出身が宮崎なので、やっぱり南九州の女性特有のあったかさというか、真っ直ぐさというか、そういう雰囲気には惹かれますね。大河ドラマで篤姫に初めて会って一緒にお芝居をしたときに、そんな気持ちを感じたんです。もちろん、篤姫を演じる宮崎(あおい)さんは東京の出身の方ですけど、なんか、懐かしい感じがしたんですよね。それが、僕の故郷の宮崎の雰囲気だったのかなって思いましたね。
お久しぶりにお会いした香取さんはいかがでしたか?
ふたりでおしゃべりできただけでも、懐かしく嬉しかったですし、何より4年前に『新選組!』を撮っているときにも、収録が終わるとここに来てこの番組をやっていたのかと思うと、改めて頭の下がる思いですね。7年間っていうのは凄いことだと思いますし、今後もずっと続けていってほしいと思います。600回くらいのときに、また呼んでください(笑)。
少しでも香取さんの役に立つことが、私の願いです。
放送300回、本当にあっという間の7年でした。スタート当初は、自分が番組にどう関わっていいのかとまどったこともありました。でも、当時から変わらずやさしく接してくださった香取さんが、自然の流れの中で番組を楽しむということを教えてくださったように思います。それでいつの頃からか、私もリラックスしてやらせていただけるようになったと思います。そんな香取さんに毎週土曜日にお会いできるというのは、仕事とはいえとても幸せで楽しいこと。その上、毎回お迎えする素敵なゲストの方にお会いできるんですから、本当に贅沢なことだと思っています。香取さんの横に座らせていただいてきて思うのは、生放送での5秒間のまとめ方、短い時間での仕切り、ユーモアのまぶし方が素晴らしいということです。それを毎回、毎回、シャワーのように浴びていると、自然に影響されているんですよね。日々のほかの仕事でも役に立っているなと思うことも多いですし、香取さんには感謝の気持ちでいっぱいです。今後、少しでも香取さんの役に立ちたい。それが、今の私の一番の願いです。 そんな記念すべき300回の「篤姫」特集、とても勉強になりましたし、面白かったですね。そして、堺雅人さんが素敵でした! うちの母や姉からも「うらやましい〜」と盛んに言われました(笑)。堺さん、将軍・家定とも山南さんともダブって見えるのに、とても自然体な方でした。アナウンサーとしては、滑舌のよさも気になりました。お口を大きく開けて話されるわけじゃないのに、発声がシャープなんですよね。日頃から、発声練習とかされているのでしょうか。次回、ご出演されることがあれば、うかがってみたいと思いました。
堺さんに会った瞬間、あのときの時間に戻ったような気がしました!
◆300回…思いのほか、みなさんから『おめでとう!』と言っていただきましたが、そこまでも(笑)。ホント、まだまだ全然…毎週生放送をこうやってやらせてもらってもらってますけど、区切りっぽくて。オープニングで冗談っぽく『今夜で実は…300回を迎えましたぁ!』って言いましたけど、あんまり言わなくてもいいかな、っていう感じ(笑)。もうちょっとサラリと『300回だねぇ…』って言ってて、気づいたときにはもう350回になっていたりするといいな、って思いました
◆でも嬉しいです。堺さんが言ってたのかな。「生で、しかも『新選組!』のときもやってたんでしょ。『ハットリくん』のときもやってたんでしょ」って。改めてそういう風に考えるとなかなか凄いですねぇ
◆その堺さんと久々にお会いしたんですけど、不思議なもので、会った瞬間にあのときの時間に戻るというか…。『新選組!』のときの人たちにお会いすると、結構、そうなるんですよね。会った瞬間に、うわっとその時の空気が蘇るというか…。当然、みんなあの後それぞれお仕事をされていて、雑誌とかで『ああ、堺さん映画やるんだ…』って見たりすると、ちょっと離れちゃったような感じもしていたんだけど(笑)、会ったりすると急激に『新選組!』な空気がするんですよね
◆今回、結構、いろんな人に言われたんですよ。打ち合わせとかする前に、別の番組のスタッフから『今度、山南さん来るんだって?』って言われて、『えっ、いつ来るの?』って(笑)。みんな、局長と山南さんが会うんだ、って注目してくれていて、それはそれで嬉しかったです
◆特集は、『新選組!』にも堺さんにもちなんだものだったので、余計に面白かったです。大河のことも思い出したし…。大河を見たことないまま『新選組!』をやって、それ以降、また見ていないボクとしては改めて『篤姫』が見たくなりました(笑)。