アメリカを代表するトップR&Bボーカリスト・ビヨンセ。ディスティニーズ・チャイルドを経て2003年にソロデビュー。ファーストシングルでは、8週連続ビルボードチャート1位、続くセカンドシングルは9週連続1位、そして2004年度のグラミー賞では5部門の受賞を果たすなど、いま世界が最も注目する歌姫のひとりです。そんなビヨンセのバックバンドでキーボードを務めているのが実は日本人女性であることをご存知でしょうか。それが辻 利恵さんです。ビヨンセの世界ツアーにももちろん同行する辻さん。9月の日本公演の際も華麗なパフォーマンスを披露。そして「IRREPLACEABLE(イレプレイスブル)」のPVにも出演するなど、チーム・ビヨンセの一員としてなくてはならない存在となっているのです。 辻さんがビヨンセと仕事をするきっかけとなったのは、ことし6月に行われた公開オーディション。ビヨンセ25歳の誕生日に発売される、セカンドアルバムに参加するバンドメンバーを女性限定オーディションで募集していたのです。当時、すでにアメリカにわたり、ジャズピアニストとしてのキャリアをスタートさせていた辻さんは、友人からの勧めもあって、気軽な気持ちで応募したそう。全米5都市で開かれた公開オーディションには世界中から応募者が殺到、辻さんと同じキーボートだけでなんと1万人が参加しました。それだけの競争率にもかかわらず辻さんは順当に勝ち進み、最後はビヨンセ本人の前で演奏して見せたそうです。 辻さんは世界ツアーが終わった現在も、引き続きビヨンセのバックバンドとしてテレビ番組やイベントに出演しています。来年4月から始まるビヨンセの世界ツアーへ、契約の来年9月までは行動をともにする予定だそうです。
アメリカ・ニューヨークのライブハウスで毎週、開かれている、ライブショー。たくみな話術とジョークでニューヨーカーを爆笑させているコメディアンの中に、ひとりの日本人がいます。小池良介さんです。小池さんは、アメリカンカルチャーを象徴するといわれるスタンダップコメディーの世界で、ニューヨーカーの心を見事につかんだ日本人唯一のコメディアンなのです。 小池さんが挑戦するスタンダップコメディーとは、アメリカで独自に発達したコメディースタイル。ステージに主にひとりで立ち、時事や風刺も交えつつ、早口でジョークを連発・・・・巧みな話術はもちろん、客の反応をみてどんどん話を変えていくという、即興性も要求される、非常に難しいコメディーです。ロビン・ウィリアムス、ジム・キャリー、エディ・マーフィ、ウーピー・ゴールドバーグなど、多くの俳優もスタートはスタンダップコメディー。現在もニューヨークでは、およそ1000人ものスタンダップコメディアンが活躍しています。しかし、そのうち外国人は5人に満たず、しかもその中で英語が母国語でないのは小池さんただひとり。英語力、文化の違いから外国人が演じるのはほとんど不可能と言われているのです。当初はなかなか、お客の心をつかめず悩む日々が続いていたという小池さん。先輩芸人の中にはアドバイスしてくれる人もいましたが、小池さんは、決して耳を傾けようとはしなかったそうです。そんな中、小池さんに成功のきっかけとなるチャンスが訪れました。2003年に、全米からコメディアン1000人が集まったコメディーオーディション番組に唯一の外国人として出演、審査員に絶賛されたのです。 小池さんが評価されたのは、その独特のスタイル。アメリカ人のコメディアンのように声が大きいわけでもオーバーリアクションでもなく、中央でただじっと、ボソボソ喋るという、動きの面白さに頼らないその喋りがニューヨーカーには新鮮だったのです。しかもアメリカのコメディアンはステージの都合でショーの時間を短くしたりすると、オチを作れず、終わったりすることもありました。そんな中、小池さんはどれだけ時間を変更されてもきっちり最後に笑わせて終わる・・・その力量も高く評価されたのです。今後は全米でもツアーを行っていくという小池さんは、伝説のコメディアンを目指し、今日も舞台に立ち続けています。
世界のありとあらゆる人、そして文化が集まる街、ニューヨーク。ここで、日本が世界に誇る武道、剣道を30年以上にも渡って教え、「侍」の心を伝え続けているニッポン男児がいます。片岡 昇さんです。片岡さんが師範をつとめる道場、「ニューヨークシティー剣道クラブ」では、アメリカ人はもとより、カナダ・ドミニカ共和国・キューバ・台湾など実に様々な国籍の人々、およそ50人が一心不乱に竹刀を振り続けています。その人気振りから、ことし5月にはニューヨークタイムズで特集を組まれるほど・・・。 片岡さんがニューヨークに道場を開いたのはいまから30年前の1976年。しかし、当時まったくと言っていいほど剣道は知られておらず、ニューヨークで、自分の道場を作り上げることは、決して容易なことではありませんでした。チャンバラ映画のスターに憧れ、高校入学と同時に剣道の世界へ足を踏み入れた片岡さん。ここですばらしい先生と出会ったことから、本格的に剣道を学ぶようになりました。社会人となった22歳の時には、全日本剣道選手権に高知県代表として出場するなど着実に剣の腕を上げていった彼は、この頃すでに、「いつかは海外の人に剣道、侍の心を伝えたい」と考え始めていました。そんな片岡さんに転機が訪れました。勤めていた会社が大幅に業務縮小することとなり、早期退職者を募集。まだ23歳だった片岡は夢を実現させようと、これを機に、防具と竹刀だけを手に思い切って海外へと飛び出したのです。ニューヨークに居を構えた片岡さんは道場の開設を目指し、レストランのウェイターやタクシードライバーなどのアルバイトでお金をため備品を揃えました。最も苦労したのが、道場探し。日本のように剣道専用の板張りの部屋があるわけもなく、踏み込みに耐え切れずに床が抜けたり、打ち込みの掛け声をきいた近所の人から「ホロコーストのようだ」と警察を呼ばれたことも度々。剣道をまったく理解されず、近所の住民から「火をつけるぞ」と脅されたこともあったそうです。何箇所も追い出されながら、ついにめぐり合ったのがヤン・フス教会の体育館でした。こうして1976年、片岡さんはついに念願の道場、「NY剣道クラブ」を開いたのです。そのときの生徒数、わずか3人。しかし、当時ブルース・リーの映画がアメリカでもヒットしたことなどから、東洋の武道に興味を持つ人が増えたことや、片岡さんの教え方の上手さから、日系人など剣道経験者の間でも評判を呼び、年を追うごとに生徒の数もどんどん増えていきました。いまでは、教えた生徒が遠くアフリカやヨーロッパなどで剣道を教えるまでになっているそうです。
ことし5月、ニューヨークのオークションで、ある楽器が354万4000ドル、およそ3億9000万円で落札され話題を呼びました。その楽器とはストラディバリウス。300年前に制作されたヴァイオリンです。そのまさに同じ日、ポーランドで開催されたヴァイオリン製作における最高峰のコンクール「ヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン製作コンクール」でひとりの日本人が優勝を飾りました。それが菊田 浩さんです。菊田さんは、イタリア北部のクレモナで工房を開く製作者。この街は、古くから弦楽器の制作が盛んで、いまも世界中のヴァイオリニストが憧れてやまないアントニオ・ストラディバリもこの街で1000以上のヴァイオリンを生み出しています。そんなクレモナの町にはストラディバリウスの音色に憧れる世界中のヴァイオリン製作者が集まってきているのです。 菊田さんがこの街に移り住み本格的にヴァイオリン制作を始めたのは、ほんの5年前。40歳のとき。実はそれ以前は、日本のとある企業に務めるサラリーマンだったといいます。 「実は私は20年間、放送局のエンジニアとして、音声の仕事をしていておもにクラッシック番組を担当していました。それで、オーケストラとかクラッシックの番組で、ヴァイオリンを録音する機会が多かったんですね。そこで、名器といわれるストラディバリウスとか、いい楽器を聞く機会がたくさんあったんですけれど、音を聞くうちに、ヴァイオリンというそのものに興味を惹かれるようになりまして、音もそうなんですが、ヴァイオリンの形を見ているうちに実際に作って仕事に出来たらいいなと思いまして…」 菊田さんは、初めは仕事の傍ら独学で制作技術を勉強していました。しかし5年も過ぎた頃、独学の限界を感じるようになります。 「独学でやっていくのは限界かなとあるとき思いまして、ちょうどそのとき、いまの師匠である、ニコラ・ラザリーさんの楽器を見かけることがありまして、自分がやりたい楽器というのはこれしかないと、自分が目指す楽器もこういうものだと思いまして、実際にこの楽器を作るにはクレモナに行って本人に習うしかないと思って、会社をやめてイタリアにいく決心をしました」 一念発起した菊田さんは、20年間勤めた会社を退職。イタリア・クレモナに移住し、国際ヴァイオリン制作学校で本格的にヴァイオリン作りを学びました。学校を首席で卒業すると、翌年にはチェコのコンクールで4位に入賞するなど、驚くべき集中力で短期間のうちに技術を高めていったのです。 「凄くハングリーな状態でイタリアに来ましたので、見るもの聞くもの全てが新鮮と言うかスゴイ勢いで吸収できたと思うんですよ。それが楽器製作が上達した理由だと思うんですね」 そんな中、ことし8月、菊田さんはポーランドで開催されたビエニアフスキ国際ヴァイオリン製作コンクールに出品します。このコンクールはヴァイオリン製作の最高峰と呼ばれるもので、入賞者のほとんどは20年以上のキャリアを持つベテランばかり。日本人が優勝したことはもちろんありません。 「出品しても予選落ちとか恥ずかしい成績だったらマエストロに申し訳が無いし、ギリギリまで悩んだんですね。でも出すことで、自分の問題点と言うか、何が足らないかを知るいいきっかけになると思い出品しました」 そして表彰式の2日前、1本の国際電話が菊田さんのもとへ。コンクールで菊田さんのヴァイオリンが優勝、音響賞を同時受賞したことを伝える連絡でした。美しい形を生み出す設計、そしてその美しい音色が高く評価されたのです。製作をはじめてわずか10年という快挙でした。 天才ヴァイオリニスト 神尾真由子 14歳の時から、世界の一流オーケストラとともに演奏し、世界中から絶賛を浴びている弱冠20歳の日本人女性がいます。神尾 真由子さんです。わずか4歳でヴァイオリンを始めた神尾さん。そんな彼女の名を一躍しらしめたのは、、若き才能の発掘の場として知られるフランス・メニューイン国際ヴァイオリンコンクール・ジュニアの部門での11歳という、最年少入賞でした。その後も神尾さんは成長を続け、2000年にはプロの登竜門と呼ばれるアメリカのヤング・コンサート・アーティスツ国際音楽オーディションで第1位に。弱冠13歳での快挙は世界を驚かせました。そして2001年、14歳にしてボストン・ワシントンでリサイタルデビュー、「天才の中でも、最も卓越した才能」と大絶賛されたのです。その後も世界中を飛び回り、精力的にコンサート活動を行いました。2003年にはパリ・ルーブル美術館のリサイタルで大絶賛され、2004年にはイギリスの名門BBCフィルハーモニック管弦楽団とイギリス・デビュー公演を行い、その模様はBBCを通じ世界中に放送されました。その演奏は、「正確なテクニックとあたたかいビロードの音色で示す強じんな表現力」と常に高い評価を受け続けています。
いまでこそ世界中で活躍を見せる、日本の若きヴァイオリニストたち。しかし、さかのぼることおよそ50年、海外への道を切り開いたひとりの日本人女性がいたことをご存知でしょうか。前橋 汀子さんです。4歳の頃から、母の勧めで始めたというヴァイオリン。いつしか、前橋さんは、ただの習い事の域を越え、ヴァイオリンが弾けることの楽しさを憶え、熱中していったのです。そして前橋さんは「日本の女性ヴァイオリニストの生みの親」とも言われる、ロシア人・小野アンナに教えを受けるようになります。 前橋さんが小学4年生のとき、転機が訪れます。それは、来日したソ連の巨匠、ダビッド・オイストラフの演奏会。ヴァイオリンが体の一部になっているような自然な演奏に感動を受け、彼のような演奏をするにはソ連で勉強するしかない、と、ソ連への留学を決意したのです。戦後間もない1950年代の日本、楽譜を手に入れることすら大変なこの時代に、ましてや共産主義のソ連に留学するなどまったく前例がないこと・・。しかし、夢をあきらめ切れない前橋さんは、何度もソ連大使館へ嘆願に。もちろん、その度にまったく相手にされず追い返されていました。が、それでも前橋さんはヴァイオリンの練習のないときには、当時ほとんど学ぶ人のいなかった、ロシア語の勉強に精を出したのです。そんな前橋さんに奇跡が起こりました。チャイコフスキーを輩出したソ連の超名門、レニングラード音楽院が創立100周年記念として、初めて共産圏以外の留学生を受け入れることを発表したのです。高校2年生、17歳で念願のソ連行きのチケットを獲得した前橋さんは、日本人女性初のソ連へのヴァイオリン留学生として意気揚々と船に乗り込みました。あまりにも日本とは違う環境にとまどい、ホームシックになることもあったそうですが、前橋さんのソ連留学は実に実りあるものでした。本場のチャイコフスキーのオペラやバレエを観劇、また練習の合間にはエルミタージュ美術館に足を運び、本物の美しさを学んだのです。こうした「本物を見る目」「街に根付くクラシックの精神」をヴァイオリンの演奏に活かしていったのです。 日本人女性初のソ連での留学生活を終えた前橋さんは、アメリカ・ジュリアード音楽院への留学を経て、20世紀を代表するヴァイオリニスト、ヨゼフ・シゲティ氏の教えを請うためスイスへと向かいました。教養高いシゲティに、ヴァイオリニストとしてのあり方を一から教わった前橋さんは、ついに念願の演奏会デビューを果たします。その場所は、世界中の音楽家たちの目標であり憧れ、ニューヨークのカーネギーホールでした。国際的なヴァイオリニストとしての一歩を踏み出した前橋さんは、その後、ベルリン・フィル、英国ロイヤル・フィル、イスラエル・フィルなどの有名なオーケストラと共演、活躍の場を広げていきました。そんな前橋さんは現在、クラッシックに接する機会の少ない人たちに本物のヴァイオリンを聞いてもらうため、日本各地の会場でリサイタルを開いています。より円熟味を増したといわれるその優雅な音色、そして凛としたステージマナーで、観客を魅了し続けているのです。