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SmaSTATION-5アンコール・スペシャル!
昨年10月、5年目に突入したスマステーション。タイトルも「SmaSTATION-5」に進級、ニュースキャスター・古舘伊知郎さん、映画監督・北野武さん、財務大臣・竹中平蔵さんなどなど、様々なゲストとの対談も実現しました。一方、総力特集では、日本が誇る世界の映画監督・黒澤明を大特集。さらに、「日本人初の芸者・中村喜春」「天才小説家・三島由紀夫」「ニッポンを知ろう!落語・上方編」「孫悟空主演特別企画『西遊記』」「ニッポンのもてなし・帝国ホテル」「天才芸術家・イサムノグチ」などをお送りしてきました。そんな半年間の軌跡を振り返ります!
日産自動車奇跡の復活を成し遂げたカルロス・ゴーンの手腕
まずは、日本中の経営者から大反響のあったこの特集。上場企業としては史上最悪の6844億円という赤字を計上し、倒産寸前だった日産自動車を救ったカルロス・ゴーン氏。彼はどのようにして日産を立て直したのか――その驚くべき経営手腕を大特集しました。
マスコミや社員の不安をよそに、日産の社長に就任したゴーン氏は復活への青図をふたつのキーワードとともに記しました。それは『現場』そして『スピード』。日産にやってきたゴーン氏が真っ先に向かったのが“ゲンバ”だったのです。工場や、営業所に直接出向き、様々なセクションの人間にあらゆることを聞き出してまわったゴーン氏。彼が直接話した社員は1000人以上にも上ったといいます。
ゴーン氏が“ゲンバ”の声を聞き見抜いたのが、「いまの日産には『責任転嫁』の文化が根付いてしまっている」ということでした。「デザインが悪いから売れない」「販売が悪い」「マーケティングが悪い」と他の部署に責任を押し付け、組織として機能していなかったのです。更にゴーン氏は、時間のある週末には箱根まで競合他社の最新車を自ら運転し、その性能を確かめたり、それまでは本社の会議室で行われていた役員会を、月一回、新車の試乗が出来るテストコースで開くことを決めたりもしました。更にゴーン氏は、各セクションから若手のエース級社員200人を集め、部署の垣根を越えて、日産の問題点を洗い出させたのです。そうして、わずか3ヵ月で作り上げたのが、『日産リバイバルプラン』。それは、長年赤字を出し続けて、倒産寸前とまで言われた日産を、1年で黒字転換、さらに3年後には営業利益率4.5%達成を掲げた仰天プランでした。それには社員は勿論、財界、マスコミもこぞって耳を疑いましたが、ゴーン氏は確固たる表情でこう続けました。「もし来年度、黒字にならなかったら、私を含め、役員24人は全員退陣します」と。
ゴーン氏の日産リバイバルプランには、『現場』を知ることや『スピード化』による社内構造の改革の他に、徹底したコスト削減がありました。無駄な設備、無駄な時間を排除し、社員全員が責任を持って仕事する…それは根本からの構造改革だったのです。また、日産車がなぜ、ダサイと言われるようになってしまったのか、という問題にも真剣に取り組み、日産デザインチームの組織を一新。そして、チーフデザイナーに選ばれたのが、1993年の東京モーターショーで『ビークロス』という先進的なデザインの車を手がけ、ヨーロッパのデザイナーの度肝を抜いた競合他社である「いすゞ自動車」の中村史郎氏でした。もちろん、それまでの日産に優れたデザイナーがいないわけではありませんでした。しかし、デザインチームが権限を持たないために、新車のデザインが出来ても、営業や幹部の注文で原型を留めないほどにいじくり回され、結果、個性のない、印象の薄い車に仕上がってしまっていたのです。これが、日産車が日産らしさを失い、ダサイと言われるようになった原因でした。その凋落してしまったブランドイメージを回復するためには、新生ニッサンをイメージさせる車が必要だったのです。そこでゴーン氏が拘ったのは、全世界で一世を風靡した『フェアレディZ』でした。2001年1月、デトロイトモーターショーで、ゴーン氏は、このフェアレディZの復活を高らかに宣言しました。「日産の魂の復活だ!」。フェアレディZの復活は、社内の様々なセクションを活気づけ、まさに日産復活の象徴となったのです。そして『日産リバイバルプラン』は誰もが予想だにしなかった成果をあげました。『1年で必ず黒字にする』という目標を、驚くべき数字で達成したのです。2000年度の決算で日産は、当期利益3311億円、という創業以来、最高の数字を叩き出し、更に、この時点で、『3年後の2002年度には、営業利益率4・5%』というもうひとつの目標もすでに達成してしまったのです。
世界に誇る日本のもてなし・・・帝国ホテル特集
世界のセレブたちにも愛され続けている、帝国ホテル。ここで最高のサービスを提供するホテルマンたちには帝国ホテルならではの「もてなしのこだわり」があるといいます。
1910年、館内を改造し、ホテル内に自営の大型ランドリーを設置、サービスの向上を図った帝国ホテル。90年以上の歴史を持つこのランドリーサービスは、いまも高い評価を受け続けています。洗濯やプレスは勿論、最初からとれていたボタンまでつけてくれるという徹底ぶり。そのため帝国ホテルのランドリーには100種類以上のボタン、数え切れないほどの糸が常にストックされているのです。30年以上このランドリーで働いているという栗林さんは、ホテル内で付いた飲食物のシミなら100%綺麗に落とせるといいます。ホテルのレストランがどんな食材を使っているのか全て把握しているため、シミを完璧に落とすことができるのです。
ホテルの顔、ドアマンは、数百人にも上る常連ゲストの車のナンバー、そして名前を覚えているのはもちろん、その配慮ははじめて訪れるゲストにも向けられています。彼らはタクシーでやってきたゲストが1万円札しか持っていないことを想定し、常に両替ができるよう、ポケットに1000円札を忍ばせているのです。
ホテルのサービスとしては欠かせない、モーニングコール。帝国ホテルでは、コールしたオペレーターが、「このゲストは2度寝しそう・・」と判断した時には、5分後、もう一度モーニングコールをする、というきめ細かいサービスを実施しています。
何気なくゴミ箱に捨てられる、数々のゴミ。これはチェックアウトの後ももう1日、保管されます。もちろん、「間違って捨ててしまった!」というゲストの要望に応えるため。そしてよくありがちな、部屋に放置した飲みかけのペットボトルや、使いかけの化粧品。これらはゴミとは判断されず、最短でも1日、長ければ2年保管されることになっているのです。
そしてゲストのあらゆる要望、質問に答えるのが、ゲストリレーションズ。(コンシェルジュ)。「近くにおいしいレストランは?」「歌舞伎のチケットを取って欲しい・・」そんなリクエストに応えるのはもちろん、「秋田犬を連れて帰りたい」「石灯籠を持って帰りたいんだが・・・」という相談にも親身に対応しているのです。日本人の誇りでもある「もてなしの心」。それこそが「帝国ホテル」なのです。
芸に生きた天才喜劇俳優・藤山寛美
藤山寛美特集では、波乱に満ちた芸人の人生に迫りました。『親バカ子バカ』の大ヒットによって、当時大卒の初任給が2万円という時代に80万円、いまの額に換算すると月給1000万円以上を手にした寛美は、夜な夜な、派手に遊びまわりました。しかしその一方で、家庭は火の車。5人の幼子がいたにもかかわらず、寛美は給料を全くといっていいほど家庭に入れなかったのです。なぜ、寛美は豪遊を続けたのか――そこにはお茶屋を経営をしていた母・キミの教えがありました。「役者は遊んでないと舞台で華が出ない・・・」。そのため寛美は、貧しかった大部屋時代から豪快に金を使ったのです。が、寛美は羽振りの良さを誇示するため、やがて借金に手を出しました。気がつくと・・・その額、5000万円。いまの価値にして約2億円。1年半で利息が付き、あっという間にそれは1億8000万円にまで膨らみました。いまの価値にして約7億2千万円という巨額の借金です。寛美は月々の返済も滞り、遂には、寛美が振出し人となっている手形が、不渡りを出してしまいました。そして『破産』。客席やロビーにもヤクザがたむろし、当然、客が寄り付かなくなっていきました。
そんな中、1965年(昭和41年)松竹は、寛美にクビを勧告しました。致し方ない決断でしたが、寛美がいなくなると、松竹新喜劇への客足はすっかり遠のいてしまいました。松竹は、テコ入れのため、当時、人気漫才師だったミヤコ蝶々と南都雄二(なんとゆうじ)を呼んで2枚看板として売り出したり、チケットの値段を下げたり、とさまざまな対策を講じましたが、客足は一向に戻ってこなかったそうです。客は、藤山寛美を観たかったのです。結局、松竹は、寛美の莫大な借金を肩代わりすることで彼を舞台に呼び戻すことを決定しました。藤山寛美の松竹新喜劇復帰公演は大盛況のうちに幕を開けました。舞台へと帰ってきた寛美の演技は、まさに水を得た魚・・・。寛美の芝居への打ち込み方は、尋常ではなかったといわれています。稽古場では、演技の鬼と化し、殺気すら漂っていたそうです。寛美は常々、こんなことを言っていました。『芸は水に文字を書くようなもの。書き続けないと見えない・・・』。そして、1990年5月21日・・・喜劇役者・藤山寛美は『笑い』に全てを賭けたその壮絶な人生に幕を閉じました。享年60。死因は肝硬変でした。60年の生涯のうち、実に55年を舞台に注ぎ込んだ天才喜劇役者、藤山寛美。彼の楽屋に掛けられていたのは、「芸」の一文字だったそうです。
テレビ朝日がW杯日本VSクロアチア戦の放映権を獲得!
2005年の最後を飾ったクリスマスイブには準レギュラーのふたり、稲垣吾郎&草なぎ剛がやってきました。この日の特集は、「祝!テレビ朝日 ワールドカップ日本VSクロアチア戦放映権獲得!舞台裏完全公開」。ワールドカップ・ドイツ大会の大一番「日本×クロアチア」戦をテレビ朝日が完全中継することが決定!!初戦のオーストラリア戦、3戦目のブラジル戦はNHKが中継。そのためこの第2戦の放映権は日本テレビ、TBS、フジテレビ、テレビ朝日の民放4社による抽選が行われることに。そして見事その一番くじを引き当てたのがテレビ朝日 編成制作局 編成部企画担当副部長・武居康仁(40歳)。「スマクリニック1分ドック」で日本の典型的なサラリーマン像を演じるこの男が引き当てた一番くじ、その影には劇的なドラマがあったのです。抽選会3日前。神奈川県山北町には日本の滝100選にも選ばれている洒水の滝があります。全長115m。なんと武居は、運気を呼び込むために自ら滝に打たれることを決意したのです。実はこの日の日本は、全国的な大寒波。気温、実に5度。更にただでさえ冷たい山の水はなんと3度。滝行に挑んだ武居は、最後に右手を滝に打たせました。そしてこの日のスマステーション終了後、武居は、ワールドカップ予選で応援団長を務め、スタジアムに足を運んだ全ての試合で勝利、という不敗神話を持つ香取編集長からも運を分けてもらい、抽選会に臨んだのです。
抽選会当日。出席者全員でおまいりをすませ会場へ。そして、見事一番くじを引き当て、民放唯一の日本戦を引き当てたのです。抽選会後、テレビ朝日へ凱旋帰社。すると、いち早く館内放送によって放映権獲得を知った全社員が迎えに! クロアチアといえば、ヨーロッパ予選で強豪スウェーデンを押さえ、無敗で勝ちあがってきた東欧のブラジルとも呼ばれる強豪国。前々回のフランスワールドカップで1対0と惜敗した相手でもあります。クロアチア戦は予選2試合目ということで、まさに本戦出場をかけた大一番なのです。 「引きました!香取さん、一緒にドイツへ!!」。運命の試合は2006年6月18日。ニュルンベルクにあるフランケン・シュタディオンで日本時間午後10時キックオフです。放送するのはテレビ朝日! さあ香取編集長、ドイツへ行きましょう!!

テレビ朝日がW杯日本VSクロアチア戦の放映権を獲得!
10月8日「スマトーク」ゲスト・古舘伊知郎
10月15日「世界のクロサワ~初級編~」ゲスト・太田光(爆笑問題)
10月22日「芸者・中村喜春」ゲスト・崔洋一
10月29日「北野武対談直前SP」ゲスト・岸本加世子
11月5日「真剣対談 北野武VS香取慎吾」ゲスト・北野武
11月12日「Smaクリニック3本立て」ゲスト・戸田恵子
11月19日「世界のクロサワ~中級編~」ゲスト・太田光
11月26日「天才作家・三島由紀夫」ゲスト・中井貴一
12月3日「竹中大臣1日密着取材」ゲスト・竹中平蔵
12月10日「政界の暴れん坊・浜田幸一」ゲスト・浜田幸一
12月17日「落語~上方編~」ゲスト・笑福亭鶴瓶
12月24日「テレビ朝日W杯放映権獲得!舞台裏完全公開」ゲスト・稲垣吾郎 草なぎ剛
1月7日「西遊記特集」ゲスト・内村光良
1月14日「日本のもてなし・帝国ホテル」ゲスト・三谷幸喜
1月21日「天才芸術家イサム・ノグチ」ゲスト・寺尾聰
1月28日「LetZ's KISS~キス特集~」ゲスト・竹下景子
2月4日「天才喜劇役者・藤山寛美」ゲスト・三宅裕司
2月11日「ジェームス・ディーン特集」ゲスト・石坂浩二
2月18日「日産を甦らせた男カルロス・ゴーン」ゲスト・カルロス・ゴーン
2月25日「武道とロックの聖地・日本武道館」ゲスト・吉田秀彦
3月4日「マドンナ伝説vol.1」ゲスト・BoA
3月11日「時代を駆け抜けたラブレター」ゲスト・草なぎ剛 広末涼子
3月18日「世界のクロサワ~完結編~」ゲスト・太田光
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