ディレクターズアイ


 ■「佐賀市農協事件」取材後記
ついにカメラの前に現れた市川元検事 手前左が井手D

今回の後追い取材は、大阪地検特捜部の事件、発覚直後に
長野智子が「佐賀農協事件に似ていると」と言ったところから始まりました
 
しかし、これまで幾度となく冤罪を取材してきた私たちでも、一度すら
実際に冤罪を生み出した検事から話を、じっくり聞くことは出来ませんでした
それが、タイミングだったのでしょうか。
大阪地検特捜の事件が起こり、世間の目も、これまで絶対の正義であった
検察に対して疑問を持つようになったことも関係しているのかもしれません
 
そして、元検事から話を聞いた瞬間、確信しました
これまで私たちが疑惑を抱いた、冤罪と思われる事件の真実を・・・
 
検察でまず教えられることは「起訴ありき、有罪ありき」
そして、自白偏重主義も「認めさせることから、反省が始まる」という
身勝手な教えからだそうです
さらに、特捜への勝手な幻想など、歪んだ検察の意識
 
だからといって、すべての検事が冤罪を作り出すわけではないはずです
ただ、今の環境はいつでも、第2の前田、市川を生み出すかもしれないのです
 
ただ、今回の取材で市川元検事を擁護するわけではないのですが、
謝罪をする勇気は、すごいと思いました
放送では感じなかったかもしれませんが、会う直前も、また会った直後も
手がずっと震えていました・・・
 
そして、謝罪を受け入れた副島健一郎、静子さん、その寛大な心に深く敬意を抱きました
それは市川氏自身も、心から思っていたことです
 
今回の番組を放送することによって、検察のことを知らないに人に知ってもらうこともありますが
検察関係者に見てもらい、明日はわが身と感じ、今ある状況と真剣に向き合ってもらいたいと、
切に願っています


担当ディレクター: 井手康行

 「名張毒ぶどう酒事件」取材後記

 名張毒ぶどう酒事件の取材は6年前から。今回のぶどう酒の王冠をめぐる取材のきっかけは、去年夏、弁護団最古参、78歳の小池義夫弁護士からの手紙がきっかけだった。
 小池先生が名張事件に関わられたのは、昭和52年から。今から34年前。第5次再審請求の時からだという。(再審4回目までは奥西死刑囚自身による)
先生の事務所の壁一面の戸棚は、名張事件の捜査・裁判資料で覆い尽くされている。何度も足を運んだ場所で、先生は、「名張事件では、二回無罪が出されている」とおっしゃった。「一度目は、一審の無罪判決。そして二度目は、6年前の名古屋高裁の再審開始決定である」と。
 しかし二度とも、最高裁は死刑判決を変えなかった。誰もが捜査当局の強い誘導を感じる、重大な住民たちの証言変更。最高裁は、なぜか、これまでの決定の中で、このことを取り上げ、評価したことはない。
 冤罪は、誰が作るのだろうか?警察や検察官だろうか?
 否、裁判官だと私は思う。不自然な調書や証拠を見逃してきた裁判官が冤罪を作るのだと思う。捜査当局が不当な取調べをしていないかを、十分にチェックし、捜査当局に警告をしてこなかった裁判所の責任が、一番大きいと思う。  
 事件から50年。私が生まれてまもなく起きた事件。気が遠くなるような時を今年85歳になった奥西勝氏は、名古屋拘置所で生きている。自由を奪われ、死刑という恐怖の中で。皆が注視している。皆が疑問を持っている。回答を出す裁判所に注目をしていきたい。彼に残されている時間は長くないのだから。

担当ディレクター:ディレクター・田中伸夫(でんろく所属)



 「布川事件」取材後記
布川事件で冤罪を訴える桜井昌司さん


 3月16日、本来なら出されるはずだった「布川事件」の再審判決。だが、東北そして関東を襲った震災のために延期となっていた。
震災後、桜井さんに「早く判決を聞きたいのでは?」と質問したが、意外にも素っ気ない返事が返ってきた。
 桜井「…淡々としてますよ。」
20歳の時に逮捕され、無期懲役の刑を受け、出所後も無罪を勝ち取るために
闘い続ける日々…。45年もの間待ち続けたはずの判決の日、さぞその日を、その時を、
想像を絶するほどの想いで待っているのでは…。
けれど、桜井さんの答えは拍子抜けするようなものだった。
 桜井「答えは決まってるんですから。無罪に決まってるんですから。どうってことないです。」
そう、桜井さんの中では、とうの昔に答えは出ていた。
 桜井「なにもやっていないんですから。」
1967年8月28日、あの「布川事件」が起きた「大事な日」。
だが、桜井さんにとっては「なんでもない、ただの日」。桜井さんにとっては、いつもとかわらぬ、殺人事件など関わりのない、「なんでもない日」。
それと同じように、判決の日も、裁判で下される判決内容も決まっているのだと。
なんでもない、なにもやっていないという判決…
 桜井「無罪に決まってるんですから。」


担当ディレクター:越後健治



 「松川事件」取材後記

今から60年前に起きた松川事件。
戦後最悪の冤罪事件と呼ばれるこの事件を、今どれだけの人が知っているのだろうか?
取材当初、その疑問が抑えきれず福島駅にいた20代と思しき女の子に聞いてみた。
 「松川事件って知っていますか?」
 「あぁ、電車が転覆した事件ですよね…」

日本がGHQ、すなわちアメリカの支配下にあった時代。
3名の尊い命が奪われた事件は、すぐに労働組合員など20名が逮捕された。
事件は大量解雇に反対する“テロ”として扱われた。
しかし、事件と20人を結びつける物証はほとんどなかった。数少ない物証であるボルトナットを外したとされるスパナ。そもそもこのスパナでは強度的に線路のボルトナットを外せないのだが、加えて“当初”使用痕すらなかった。なぜ“当初”なのか?というと、検察側はマスコミを集めて、この証拠品であるスパナを使って線路のボルトが外せるか実験を行ったのである。ボルトは当然外せなかったが、スパナにはこれで使用痕がついたのだ。捜査機関の心ひとつで事件をどうにでもできるという恐ろしい逸話である。
その後も不利な証拠を隠した“諏訪メモ”など検察の不正義が次々明らかになる。
最高裁の無罪判決確定の日、検察はこう反省の弁を述べていた
 「この際、捜査ならびに控訴維持の全般に通じまして反省すべき点があれば、率直にこれを反省し、よって今後の検察運営に活かしたい所存です」
60年前の事件の反省を検察は今も覚えているのだろうか。

冒頭の福島の20代の女の子によると、
地元では松川事件について話を聞く機会が時々あるとのこと。
忘却の波から事件を守り続けている、福島大学・松川資料室の伊部先生の尽力に感謝したい。


担当ディレクター:竹内克典


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