ディレクターズアイ


■ロックと革命の間で
 1958年、京都市で生まれた。 小学生の頃、ゲバ棒と火炎瓶で武装した京大生と機動隊が激突するのを見た淡い記憶がある。 しかし、高校生になった1970年代− 無事、三無主義のシラケ世代に成長した私にとって、町はすでに閉塞感に包まれていたが、ブルースとソウルとロックンロールが溢れていた。 京大西部講堂や拾得・磔磔などのライブハウスで見た「ウエストロードブルースバンド」、「上田正樹とサウス・トゥ・サウス」、「村八分」。 そんな中で、ひときわ異彩を放ち、嵐のように垂れ流されるフィードバックノイズに眩暈を覚えるグループがあった。 「裸のラリーズ」。 語源は、いつもラリっている連中。 吐き気を覚え、会場から出ようとしても、なぜか足が動かなかった。
  この時、「昔、ハイジャック犯がおったんや」・・・と、チラっと聞いたような気がする。

 程なくして、発売禁止になっていた「頭脳警察」のファーストアルバム自主制作盤を通信販売で買った。 PANTAのアコギとTOSHIのコンガによるシンプルな演奏に乗せた革命3部作(「世界革命戦争宣言」「赤軍兵士の詩」「銃をとれ」)の絶叫を聴いた時、70年代前半、音楽と革命の境目がとてもあいまいだったことに気付いた。
長髪を切り落とし、革命家になったロックミュージシャン。 ラリーズの初代ベーシスト、若林盛亮に興味を持った瞬間だった。 当時、パンクという言葉はまだなかったが、ラリーズや頭脳警察こそが元祖パンクロックではなかったか? その生き様も含めて。

 それから、40年近い月日が流れた2010年4月3日。 私は再び京都大学にいた。 よど号事件40周年シンポジウム。 この時、還暦を過ぎた元ロックンローラー&ハイジャッカーは、平壌からの生電話でこう語った。 
「我々は"あしたのジョー"として23歳で国を出て、あっという間に63。 還暦過ぎて、未だ政治亡命犯でいるのはふがいない。 懲役15年でも帰国したい・・・」
拉致問題については断固否定したが、ハイジャックについては罪を認め、裁判を受けてもいいというのだ。


大学時代の若林盛亮
還暦を過ぎた若林(今年、平壌にて)


 シンポジウムの2ヶ月前、平壌で行われたジャーナリスト原渕勝仁のインタビューで、 若林は同志社大学軽音楽部時代をこう振り返っている。 
「ビートルズがなかったらここにはいなかった。 高校時代は優等生だったが、このまま大学卒業していい会社に入って何になるのかと考えていた時に、ビートルズの『抱きしめたい』を聴いて衝撃を受けた。 バンドから学生運動へのきっかけは、10・8羽田闘争(注:佐藤総理ベトナム訪問阻止で山崎博昭が死亡)。 命かけてやってるんだと見直し、社会を変えるためバンドを辞めた。」
一方、名門都立高から東大医学部に進学した小西隆裕はこう語っている。
「私は癌の研究をしてたらここにはいない。 最初は医学一本。 そもそも東大医学部に入ったのも、人のためになることをしたいという想いからで、革命家と医学どっちが人の為になるかを考えて、革命家を選んだ。」

 ミュージシャンや医学者とハイジャック犯との垣根があまりに低かったあの時代―
それは、音楽や医学で世の中を変えるか、銃と爆弾で世の中を変えるかの違いでしかなかった。 同じようにストーンズを聴いて"ただの不良"にしかならなかった私も、生まれるのがあと少し早かったら、ハイジャック犯になっていたのであろうか? 
猛烈に、あの時代、彼らを駆り立てたものの正体を知りたくなって取材を始めた。
平壌を目指していたよど号がソウルに着陸した謎や、極限状況の機内で何があったのか・・・いくつかの真相を掘り当てることはできたが、哨戒艇沈没事件の影響もあって、放送までに北朝鮮取材は実現しなかった。
よど号事件とは何だったのか? そして、北に亡命してからの9人の本当の消息は? 真実は、まだまだ闇のベールに包まれている。 引き続き、取材を続けて生きたい、

<追記>
それにしても、革命とロックの間で揺れ動いたもう一人のミュージシャン、裸のラリーズのギタリスト水谷孝は生きているのだろうか? 彼も本当はよど号に乗りたかったのではないか? その消息は、平壌のよど号グループ以上に謎だった。

プロデューサー:原 一郎
■「よど号事件」取材後記 
江崎氏取材


「よど号ハイジャック事件」が起きてから40年、更には現在も北朝鮮の平壌に住むよど号ハイジャック実行犯4名が、帰国への動きを活発化させているという状況の中、この企画は動き出した。

 私たちが最初にコンタクトを取ったのは、VTRの中で出てくる機内での実際の録音テープを録音した、横田氏の関係者の方だった。その方は番組でのテープ音声の使用のみならず、生前、横田氏から聞いた録音のいきさつを、事細かに説明してくれた。

 なぜ彼が、当時珍しいカセットレコーダーを機内に持ち込んでいたか――。それは、横田氏の知人に旅行好きの方がいて、旅行の際録音したSL機関車の音を何度か聞かせてもらっていた。そんな折、横田氏に内科医学会のために福岡への出張の話が来る。福岡への出張、これまた当時一般の人はなかなか乗る機会の無かった飛行機での旅となる。「よし、飛行機の機内の音を録ってみよう――」そのような形で録られたのが、あの昭和史に残る「よど号ハイジャック事件」その起きた瞬間なのである。

 一方、よど号のコックピット内での様子を取材させてもらったのが、元副機長江崎氏と元機関士相原氏である。相原氏に、一番恐怖を感じたのはいつだったと質問した時、意外な答えが返ってきた。それは「北朝鮮の空港に着陸するとき」。よど号が金浦空港を飛び立ったのは日が沈み始めた夕刻。おのずと北朝鮮へ着陸は暗闇迫る中での行為となる。夕刻の離陸を決意したのは当時の石田機長。機長の決定は絶対である。しかし、着陸することを決めた北朝鮮の空港は、誘導指示も無ければ、誘導灯すら灯っていない「滑走路らしきもの」がある空港。さらに、舗装も徹底されておらず、着陸の際には車輪が吹き飛んでしまうのではないかと思えるほどの衝撃だったという。

 事件から40年、当時10代、20代の若者だったよど号ハイジャック犯たち。その彼らも、還暦を迎えた。そして、さまざまな形であの事件に関係した人たち。過去の資料や文献などを基に、アポイントを取ろうとする中で、石田機長を始め、すでに他界した方や、高齢の為に取材が出来なかった方などがおり、40年という歳月をそのような形で感じる取材だった。

 よど号ハイジャック事件、昭和史最大の未解決事件――昭和の未解決事件は数多あれど、人質として獲らえれた乗員乗客の数、そして国家を跨いでの国際的事件であるよど号ハイジャック事件は、まさに昭和史最大の未解決事件ではないだろうか。

ディレクター:越後健治
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