『R−1グランプリ』でも活躍した寺田寛明が、一歩踏み出すきっかけになった初舞台|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#21(前編)

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>

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『R−1グランプリ2023』の決勝で、見事3位になったピン芸人が寺田寛明だ。今、隆盛する大喜利ライブシーンでも活躍する彼のフリップネタは、確実にお笑いファンの心を捉え始めている。
そんな寺田の初舞台は高校生のころだった。今、堂々とステージに立ち、たったひとりで笑いをかっさらっていく男は、初舞台で何を思い、芸人になる道を選択したのだろうか。
孤高のピン芸人・寺田寛明のFirst Stage=原点を聞いた。

若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage>
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。


お笑いのルーツは嘉門タツオ

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寺田寛明

──お笑いを好きになったきっかけは覚えていますか?

寺田 嘉門タツオさんですね。6個上の兄の影響で、小学校に上がるか上がらないかのころに替え歌を聴き始めて。替え歌だから元ネタも、そこで歌われるあるあるネタもよくわからないのに、ドハマりしてました。あるあるネタなんかは、実際に体験してから「あぁ、嘉門タツオが歌ってたのってこれか」って思うこともよくありました。「NIPPONのサザエさん」っていうサザエさんの情報をめちゃめちゃ早口で歌っていくのに腹抱えて笑ってましたね。そこから小学生の間は、嘉門タツオ漬けで。CD買ってもらって聴いてました。

──嘉門タツオからお笑いに入った芸人さんは珍しい気がします。

寺田 嘉門タツオって定期的にバズるんですよ(笑)。僕より下の世代だと、「アホが見るブタのケツ」だったり、『ピラメキーノ』(テレビ東京)で、おもしろフラッシュがやってたり。僕のお笑いの基礎は嘉門タツオさんでできてますね。

──そこまでですか。

寺田 知られてないですけど、歌ネタだけじゃなくて、ショートコントみたいなやつもあるんですよ。僕、小学生のとき「お笑い係」っていうのをやってた時期があって、そのころは友達と一緒に3人で嘉門さんのショートコントをクラスで披露してました。

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──人前に出るタイプの子供だったんですね。

寺田 小学生のころは明るかったんですよ。おもしろいことを言ってウケたい欲があって、授業でも積極的に発言して笑いを取りに行ってました。でも中学生で人見知りになるんです。中学っていくつかの小学校から合流するじゃないですか。そうすると、他校から来た子供の前では、僕が小学校6年間で積み上げた明るさを出せないんです。

──もともと人見知りだった自分に中学生で気づいたというか。

寺田 そうですね。たぶん根は暗いんだと思います。誰とも話さなくて平気だし。根暗のボケたがりです。

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──嘉門タツオ以外のお笑いには触れていましたか?

寺田 『オンエアバトル』(NHK)は録画して繰り返し観てて、そこで中学生のときにバカリズムさんにハマりました。初めて観たお笑いの単独ライブは、中3のときのバカリズムさんでしたね。あと伊集院光さんの深夜ラジオにどっぷりの時期もありました。振り返るとやっぱりひとりでやってる芸人さんにハマりやすい。

──ピン芸人を選ぶのも自然だった。

寺田 そうですね。コンビでやろうと思ったことはないです。まわりのお笑い好きな子は、ダウンタウンさんが好きだったり、『はねるのトびら』(フジテレビ)とか『ワンナイ(R&R)』(フジテレビ)観てましたけど、僕はそっちも全然通ってないですし。

初舞台は高校生、場所は「club asia P」

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──ネタをやり始めたきっかけはなんだったんですか。

寺田 高校がめちゃくちゃつまんなかったんですよ。男子校だったんですけど、まわりにどう思われてもいいやってなっちゃって。学校行っても誰ともしゃべらずに帰宅する日も普通にありました。

──学校になじめなかった?

寺田 別に深夜アニメの話をする友人とかは普通にいたんですけど、なんか学校という場所がつまらかった。でも何もしないまま3年間過ぎるのは、さすがにまずいなと思って、高校生お笑いの大会に出たんです。当時は『M-1甲子園』が有名でしたけど、当然ひとりじゃ出られない。だからいろいろ探してみて、アナ学(東京アナウンス学院)が主催してた『お笑い検定』に出たんです。放送作家の元祖爆笑王さんがプロデュースしてましたね。

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──どんな大会だったんですか。

寺田 かなりマイナーなイベントでした。審査も動画じゃなくて音声テープをアナ学に送るんです。パソコンに安いマイクをつなげて録音しましたね。結局、本戦に来たのもたしか6組くらいでした。定員割れだったんじゃないかなぁ。

──『M-1甲子園』や、今も続く『ハイスクールマンザイ』と比べると、盛り上がりに欠けますね。

寺田 そうですね。会場もだいぶ変で、渋谷のclub asia Pっていう完全なクラブなんですよ。円形のフロアで、普段はDJブースがあるステージでネタを披露して。

──円山町のクラブって、高校生を集める場所とは思えないですね(笑)。

寺田 さすがに高校生だけだと誰も来ないから、ゲストにプロの芸人さんが呼ばれてて、その方々目当てで集まってる方はけっこういましたね。当時ブレイクしてた柳原可奈子さん、三拍子さん、タイムマシーン3号さん。司会は今マセキで先輩になったあきげんさんでした。

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──披露したネタは覚えていますか。

寺田 ノートに書いておいた強いボケを読み上げるだけのネタです。当時は伊集院さんのラジオの影響が強くて、ハガキ職人的に、めちゃくちゃでもいいからとにかくおもしろいことを連発すればウケると思ってたんです。今でこそYouTubeでいろんなお笑いが無料で観られるから、お笑い始めたての人でもある程度スタイルがありますけど、僕らのときは参考になるものがほとんどなかったので、荒削りでしたね。ネタ動画なんて、Yahoo!動画で吉本の有料チャンネルがたまに無料で観せてくれるのだけでしたから。

──実際にネタをやってみて、いかがでしたか。

寺田 やっぱりめちゃめちゃ緊張しいなので、かなりひどい出来だったと思います。そもそも人前で自分のネタを見せるのも、そこが初めてだったんですよ。うまくいくわけがない。ネタもノートを持ったまま、そこに書いておいた文章を読み上げるという。

──結果はどうでしたか。

寺田 『お笑い検定』なので、優勝とかじゃなくて、1級から5級までランクづけされるんですよ。それで結局みんな4級か5級でした。

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──そこに出てて今も芸人している方はいるんですかね。

寺田 トリテンっていうコンビがいて、福岡よしもと所属になったと思うんですけど、今も続けてるんじゃないかな。ちょっと前にM-1の予選で名前を見かけたんで。(※)

※トリテンは2020年に解散。奥口・B・裕也はコンビ「居残りサミット」として活動中

──結果は芳しくなかった初舞台ですが、終えたときの心境は覚えていますか。

寺田 自分の人生を一歩踏み出せた高揚感ですね。もちろんうまくいってない反省もあるんですけど、『オンバト』に出てた方々と一緒にライブに出られたことにも満足してました。当時はまだ芸人になりたいとは思ってなかったので、いい思い出ができたなと。ただ、もう一回くらい大会に出て、ウケてみたいなと思い、そこから少しずつライブに出るようになりましたね。

客席に身内ゼロでも、実力のあるヤツはウケる。

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──大学進学後もお笑いサークルに入らず、フリーでライブに出続けたそうですね。

寺田 当時は僕が入った獨協大学にお笑いサークルがなかったんですよ。それに僕は高校生のころから大人と一緒にライブに出てたんで、サークルに入らなくてもお笑いをやれるって知ってたんですよね。

──大学お笑いの世界では、サークルに入らないと大会もアウェイばかりじゃないですか。

寺田 身内を連れてこられるヤツが強いのは、たしかにそうですね。僕は大学でも高校でも、学校の友達にはお笑いやってることは誰にも言わなかったんで、身内はゼロでした。でも、自分のネタがおもしろければちゃんとウケるんで、むしろ自信がつきました。粗品(霜降り明星)も当時は関西にいましたけど、たまに東京の大会に出て優勝してすぐ帰ってて。実力があるヤツは、どんな場でもちゃんとウケるんですよね。

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──寺田さんのネタ自体は、どのように変化していったんでしょうか。

寺田 大学に入ってからはフリップを使い始めました。けど、それも厚紙の両面にコピー用紙を貼りつけただけで、机の上に置いてやってました。イーゼルを使うようになったのは、事務所に入ってしばらくしてからで、やっぱりめくりやすいからウケるようになりましたね。若いころは本当にネタの中身さえおもしろければいいと思って、見せ方とかフォーマットはこだわらない変なトガり方をしてました。

──ネタの内容には自信があった。

寺田 そうですね。高校生のときと同じで、自分がおもしろいと思った文章とか単語を羅列すればいいと思ってて。最初に作ったフリップネタはインターネット検索のネタで。それも検索ワードを並べるだけでした。おもしろい言葉を見せるために、検索窓っていうフォーマットは使いやすいんですよね。実際、大学お笑いではけっこうウケてました。あとはことわざのネタ、もう塾講師キャラも使ってました。

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──スタイルとしては、すでに今のかたちに近いものがあったんですね。

寺田 そうかもしれないですね。ただ、当時は全然ネタが作れなくて、けっこう長い間このふたつを使い回してました。ネタの中身、大喜利的な言葉だったり文章だったりはいくらでも思いつけるんですが、肝心のフォーマットがなかなか生み出せなくて苦労しました。でも、今みたいに繰り返し観に来てくれるお客さんもいないので、2個でもじゅうぶんライブや大会を回れちゃったんです。卒業してマセキに入ってからは、月に1本は新ネタを下ろさなきゃいけなくなったので、コンスタントに作れるようになったのはそこからです。

『R-1グランプリ』勝利のために事務所へ

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──寺田さんは常々、サツマカワRPGさんをライバル視する発言をしています。出会いは大学時代ですか。

寺田 サツマカワが入ってた明治大学の木曜会Zっていうサークルが、だいぶ早くからYouTubeにネタを上げてたんです。それで観て知って、お笑い始めたばっかりでこんなことできるんだって衝撃を受けて。だから大学1年生のころから「負けたくないな」って意識してますね。初めて会ったのは、K-PROがやってるU-22のライブ『レジスタリーグ!』でしたけど、別にしゃべりはしなかったかな。

──プロのお笑い芸人を目指そうと思ったのはいつですか。

寺田 大学のころからですかね。大会に出ても、R-1とかの賞レースにアマチュアのフリー芸人はなかなか通らないなって思ってて。だったら事務所に入ろうと。実際、事務所に入った芸人たちは、僕と同じくらいのウケでも1〜2回戦を通過していくんです。だから芸人として生きていきたいっていうより、賞レースに勝ちたいから事務所に入ってプロになった。まぁ、別に事務所に入ってもR-1は全然勝ち上がれなかったですけどね(笑)。

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──マセキ芸能社を選んだのは、バカリズムさんがいるからですか。

寺田 それもありますけど、とにかく養成所に行きたくなかったんですよね。お金を払ってお笑いを学ぶなんて、当時は信じられなかった。

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──高校時代から活動してきて、下地はできてますしね。

寺田 でも今思えば、養成所は行っておけばよかったです(笑)。もっと理論を学んでおけば、ネタも効率的に作れたのかなって。数年前まで感覚だけを頼りに作ってましたから。もっというと、演技、歌、ダンスの授業も今めっちゃ受けたいですもん。歌えたほうが絶対便利だし、踊れたほうが得する場面もある。あと、同期がいないのも寂しいですしね。芸歴も厳密にいうとあやふやで、便宜上、事務所に入ったところをスタートにしてますから。いまだに吉本の人と挨拶するときは、「この人、先輩か後輩どっちだろう」って困りますね(笑)。

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文=安里和哲 撮影=青山裕企 編集=後藤亮平、田島太陽

寺田寛明(てらだ・ひろあき)
1990年10月6日、埼玉県出身。塾講師として働きながらピン芸人として活動する。『R-1グランプリ』(フジテレビ)では2021年から3年連続で決勝に進出し、2023年は自身最高の3位に。次回の『R-1』がラストイヤーとなる。大喜利に強く、大喜利ライブ『大喜利千景』を主催する。また、アイドルファンとしても知られ、さまざまなアイドルイベントにも出演している。Twitter:@teradann、@tottemogenkiman

 

【前編アザーカット】

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【インタビュー後編】

孤高のピン芸人・寺田寛明が語る、R-1、アイドル、新しい大喜利|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#21(後編)

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>