松本人志の代役でブレイクしたものまね芸人・JP「初舞台では叱られました」19年の下積み時代を振り返る|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#16(前編)

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>

 lg_f-s_16_t_a

2022年1月、コロナウイルスが猛威を奮い、テレビ業界でもタレントの番組欠席が相次いだ。

そんななか“代役”として活躍し、一気に話題をかっさらったのが、ものまねタレントのJP(ジェーピー)だ。欠席する松本人志(ダウンタウン)に代わり、JPが松本のものまねで出演したのは『ワイドナショー』(フジテレビ)。その出演によって、一夜にして……もとい、一朝にしてブレイクした。

JPのデビューは2003年だ。当時20歳だった彼の初舞台について、そしてブレイクまでの19年間をどう過ごしたのか。ものまねを脱いだ、素のJPに聞いた。

若手お笑い芸人インタビュー連載<First Stage>
注目の若手お笑い芸人が毎月登場する、インタビュー連載。「初舞台の日」をテーマに、当時の高揚や反省点、そこから得た学びを回想。そして、これから目指す自分の理想像を語ります。

ものまねでヤンキーから身を守った

th_TK_Re_220914_C00131_j

JP

──最初は声優学校に入ったそうですね。

JP そうですね。滋賀出身なんですが、地元の農業高校を卒業して、声優の専門学校に入りました。学生時代からものまねが得意で、ものまね芸人になりたいと思ってたんですが、声優になれば、できると思ってたんですよ。大きな勘違いでしたね。声優はマネをするんじゃなくて、声だけで演技をする職業だった。そんなことにもやってみるまで気づきませんでした。一応、声優養成所は卒業しましたね。

──学生時代からものまねは好きでやっていたんですか。

JP そうですね。子供のころからずっと何かしらものまねはしてて。それこそ松本人志さんのものまねも小学生からずっとやってるんですよ。といっても、そのころは『(ダウンタウンの)ごっつええ感じ』(フジテレビ)のごっこ遊びでしたけどね。

──コント番組のごっこ遊びをしていたんですか。

JP そうです。戦隊ヒーローとか『仮面ライダー』とかも好きで、そのごっこ遊びをするのと同じように、『ごっつ』のキャラクターになりきってたんです。のちに持ちネタになるMr. BATERとかもずっとやってましたね。学生時代は僕、いじめられてたんですけど……

th_TK_Re_220914_C00141_j

──そうだったんですか。

JP いや、ここ笑ってほしいところです(苦笑)。20分の休み時間、ヤンキーに呼び出されて毎日のようにボコボコにされてたんです。でもあるとき、当時流行ってた宮藤官九郎さんが脚本を書いてた『池袋ウエストゲートパーク』(TBS)の長瀬(智也)くんのものまねをしたら、めちゃくちゃウケたんです。

そこで「ものまねしてる間は殴られへんぞ」と気づくんですよ。今までは昼休みはサンドバッグにされるだけやったけど、その代わりにものまねしようと。そこからヤギだったり、(笑福亭)仁鶴師匠、桂小枝師匠、(桂)南光師匠のものまねもし始めて。

関西やからみんなわかるだろうと思ってやってるのに、ヤンキーに「誰や、それ」って言われてむしろ殴られることもありましたけどね(笑)。

そんなこんなで、昔は20分フルで殴られてたのが、5分に短縮されたんです。

──殴られることには変わりない……(笑)。

JP そうですね。でも、だいぶマシですよ。ものまねは僕にとって最高の趣味であり、最大の防御策だったんです。

“どこまでも遠くへ”行けなかった下積み時代

th_TK_Re_220914_C00097_j

──声優学校の卒業後はどうされたんですか。

JP 大阪吉本の養成所、NSCに入りました。大阪でいうと同期はGAGとかDr.ハインリッヒ、東京だとオリエンタルラジオやトレンディエンジェル、はんにゃあたりですね。

──そのころからもう、ものまねをしていた?

JP そうですね。ただ、コンビで漫才のテイでやってました。相方が「エントリーナンバー3、中田カウス!」って呼び込み、僕がものまねをするかたちです。吉本と松竹の若手芸人が集まる漫才大会でもファイナリストになったりはしたんですけど、結局解散しました。

──それはなぜですか。

JP ひとりでやるのが性に合ってたんですよね。自己完結したい人間だった。あと、関西って当時はものまね文化が東京とは全然違ったんですよ。

僕は東京のテレビ番組で活躍するコージー冨田さんや原口あきまささん、ホリさんみたいに、「ザ・芸能人」のものまねがしたかった。でも大阪は中川家さんとか友近さん的な、普通の人のあるあるネタだったり、楽屋での師匠方といったものまねが主流だったんです。

だから自分に合った環境を求めて、NSCを辞めて、いったん自動車工場で働いてお金を貯めてから、上京しました。

th_TK_Re_220914_C00147_j

──東京に出てきたのはいつごろですか。

JP 20歳の年なので、2003年ですね。最初はワタナベコメディスクールに入りました。そのときの同期はハライチ、バービー、サンシャイン池崎あたりですよ。

──そうそうたるメンツですね

JP でも、僕はハライチより先にテレビに出たんですよ!(笑) GACKTさんのものまねで「何処までも遠くへ〜♪」と歌いながら砲丸投げをするネタで。手応えもあって、これは売れるなぁ〜と思ったんですけど、全然あとにつながらない。

R-1』も準決勝止まり、テレビのオーディションも引っかからなかったので、ショーパブに専念しようと思いナベプロを辞めたんですが……。その直後に、織田裕二ものまねでナベプロの山本高広さんがどかーんと売れて……。「残っとけばバーターとかあったかも……」って情けない後悔してましたね。

ショーパブでの初舞台、オーナーに叱られる

th_TK_Re_220914_C00156_j

──JPさんの初舞台はいつになるでしょうか。

JP お金もらってステージに上がったのはショーパブですね。20歳のとき、オーナーにネタ見せしたら「採用。今日の夜から出て」ってえらいスピード感で初舞台が決まって。

オーナーは「呼び込みも全部俺がやるから、任しとき。おっちゃんが全部ケツ拭くから思いっきりやって」と言ってくれましたよ。当時はまだ素の松本人志さんのものまねはなくて、代わりに子供のころからやってた『ごっつ』のMr. BATERをやって。

「ほか、何があるの?」って振られて、長瀬くんやって。カメラのCMで「カンタン、キレイ、色あせない」とかやって。あと、アンガールズさんのふたりもやってましたね。「どっちもできるの、すごいね〜」なんて言ってもらって(笑)。

th_TK_Re_220914_C00196_j

──初舞台なのに、すごいレパートリーですね。

JP ものまねはずっとやってきたので、いくらでもありましたね。当時結成したての南海キャンディーズさんもやったし、まだブレイク前の麒麟さんもふたりともものまねさせてもらってました。

ショーパブのお客さんなんてお笑い好きでもなんでもないから、誰も知らないんですよ。でもそこが僕の強情なところで、「これがおもしろいんだよ」ってやり続けてました。初舞台の最後は、子供のころからずっと好きだった『男はつらいよ』の渥美清さんの口上でまくし立てて、しまいにはオーナーに「長いよっ!」と叱られて終わりました。

──初舞台なのに、堂々とやってのけたんですね。緊張はあまりしないタイプですか?

JP いや、めちゃめちゃアガリ症ですよ。初舞台も緊張しました。ただ、放し飼いにしていただいて、好き勝手ものまねするぶんには、いいんですよ。だから初舞台もまだマシだった。問題はネタ番組とかですよね。かっちり決まった尺と台本があると、そればっかり意識して、うまくできなくなります。

th_TK_Re_220914_C00197_j

──このインタビューでも、当意即妙なので、アガリ症は意外です。素のJPさんっておしゃべりがうまいんだなと驚いています。

JP それもショーパブで培ったスキルでしょうね。僕のショーパブって自分の出番以外は接客するんですよ。テーブルについて、お客さんと話させてもらって、その合間に舞台に上がる。

ほんと変わったおもしろいお客さんばっかりなんですけど、毎日のように相手にしてると、会話ってパターンなんだなというのが見えてくる。それで「この言葉にはこう返す」「その次は……」っていう方程式がたくさんできていって、だんだん話せるようになりましたね。その上、最初に働いてたショーパブが26歳のときにつぶれるんですよ。

──そこからどうしたんですか?

JP 取り残された若手で、新しくショーパブやらないといけないなと。そうなると、26歳の僕は先輩になってしまうので、「俺が引っ張らないといけないな」と腹決めましたね。もともとはヤンキーにいじめられるような、陰キャで口下手ですよ。無遅刻無欠席の引きこもりだったところから、がんばってなんとかしゃべれるようになりました。結局、ショーパブ人生は15年くらい続きました。

19年間、俺は絶対売れると信じて疑わなかった

th_Re_220914_C00215_j

──ショーパブのステージに上がり続けるなか、テレビの仕事はいかがでしたか。

JP 2015年には『ガキ使』(『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』/日本テレビ)の「笑ってはいけない」に香取慎吾さんのものまねで出させてもらい、翌年は『ダウンタウンDX』(日本テレビ)で初めてご本人の前で、松本さんのものまねをさせてもらう。長瀬さんとも『行列(のできる相談所)』(日本テレビ)で共演させてもらいました。いろいろ素敵な仕事はさせてもらうんですけど、なかなかコンスタントに仕事をもらえる状況にならなかった。テレビの仕事は月1本あればいいほうでしたね。

──ご自身で「19年も地下芸人だった」なんて言うこともありますが、腐ることはなかったんですか。

JP 不思議となかったですね。頭の恐怖を感じる部分みたいなのが、ぶっ壊れてるんだと思います。常に俺はそのうち売れるって信じて疑わなかったですから。それにものまねが好きっていうのはずっと変わらないんですよ。

──今はものすごく謙虚な人に見えますが、トガってた時期は……?

JP ありますあります! 「なんで俺のものまねがわからんの、ちゃんと勉強せえよ」って、心の中で思ってました、口には出せない(笑)。後輩にだけグチりまくってましたね。でも、コロナで仕事が一切なくなった時期に、苦しすぎた反動で、もう一切悪口言うのやめようって思ったんです。

th_TK_Re_220914_C00221_j

──わりと最近ですね。

JP そうです(笑)。もともとは、ことわざにあるみたいに、外に出たら7人の敵がいると思いながら生きてるタイプの人間です。

──ヤンキーにいじめられていましたし、そうなるのも必然ですよね。

JP はい。学生時代は毎朝、仏壇にお祈りして、毎日帰ってきて仏壇にキレてましたよ。「あんなに祈ったやんけ! なんで今日も殴られんねん!」って。でも、気が済むまで悪態ついたら、お茶入れて、きんつば供えてました。

──現在は研音に所属されていますが、どういう経緯があったんですか。

JP ショーパブのお客さんに研音の方がいらっしゃって、声かけてくれたんです。ほとんど俳優さんの事務所なんですけど、もともと僕が戦隊ヒーローとか『仮面ライダー』に出演したいっていう夢もあったので、2018年の年末からお世話になることにしました。

おかげさまですぐドラマにも出させてもらえたんです。演技がうまいわけじゃないから、オファーが続くことはなくて(苦笑)。でも、芸人なんて腕っぷしがよければどこの事務所にいても関係ない、売れないのは自分のせいやと思って、やってましたね。

──そこにコロナ禍が来てしまう。

JP そうなんですよね。仕事が全部吹き飛んでしまって、食べるのも大変になってしまった。それで、これからはテレビにこだわらず、営業で地道に食っていく方向はないかなと模索し始めました。

そこに1本の糸が垂らされるわけですよ。見上げたら金髪坊主のマッチョがいて(笑)。糸をつかませてもらったら、一瞬ですべてがひっくり返った。初舞台からここまで長かったですねぇ。続きは後編で(笑)。

lg_f-s_16_t_b

JP(ジェーピー)
1983年7月31日、滋賀県出身。2003年にものまねタレントとしてデビュー。2022年、松本人志が『ワイドナショー』を欠席した際、松本人志のものまねで代役として出演し、話題に。ものまねのレパートリーは500を超える。YouTubeチャンネル『モノマネモンスター JP』も更新中。Twitter @jpmaesaka

文=安里和哲 写真=青山裕企 編集=龍見咲希、田島太陽

【前編アザーカット】

th_TK_Re_220914_C00123_j

th_TK_Re_220914_C00200_j

th_TK_Re_220914_C00252_j

th_TK_Re_220914_C00264_j

th_TK_Re_220914_C00244_j

 

【インタビュー後編】

ものまね芸人・JP「毎日死ぬ気で挑むだけ」松本人志のものまねを始めた偶然と必然|お笑い芸人インタビュー<First Stage>#16(後編)

若手お笑い芸人インタビュー連載 <First Stage>