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2018年10月19日

“象徴”天皇の傍らで…美智子さまが84歳に

“象徴”天皇の傍らで…美智子さまが84歳に

美智子さまは20日に84歳の誕生日を迎えられる。そして来年は、天皇陛下とご結婚されてから60年となる。天皇陛下は記者会見などで繰り返し「象徴のあるべき姿を模索してきた」と語られているが、その傍らには常に美智子さまがいた。ご婚約が内定した時に天皇陛下が詠まれた歌がある。『語らひを重ねゆきつつ気がつきぬ われのこころに開きたる窓』。
“開きたる窓”とは、どういう意味なのか。
美智子さまと皇太子さまの出会いは、長野県軽井沢のテニスコート。当時、皇太子妃の候補として名前が上がっていたのは、元皇族や華族だった。それが、なぜ民間出身の美智子さまになったのか。皇太子さまは、教育係の小泉信三氏に結婚相手について「自分は生まれからも、周囲の境遇からも、世間の事情にうとく、人に対する思いやりの不足する心配がある。どうしても十分人情に通じて、そういう思いやりのある人の助けを得なければならぬ」と話されていた。それは、当時の写真にも表れていたという。10年半、侍従長を務めた渡辺允宮内庁参与は「私の印象から言えば、若い時の写真には孤独の影があるという感じがする」と話す。1959年4月10日、ご成婚パレードでは53万人が沿道を埋め尽くした。敗戦から14年、高度成長が始まるなか、新しい時代の到来を告げるものだった。同時に陛下にとっても大きな転機になったという。陛下は結婚50年の記者会見で「結婚によって“開かれた窓”から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます」と語られている。
1991年、長崎県雲仙普賢岳が噴火した。天皇陛下は即位後、初めて被災地を訪問。この時の様子が話題となった。陛下は、体育館の床にひざまずいて、被災した人々と同じ目の高さで話を聞かれ、向き合われた。この姿は、昭和天皇の時代にはなかった新しい時代を象徴するものだった。実は、そのルーツは、皇太子の時代にあった。1986年、伊豆大島の三原山が噴火し、全島民が島の外に避難した。当時、皇太子だった陛下は、東京都内の体育館に身を寄せた被災者の話を最初は立ったまま聞いていた。ところが、隣にいた美智子さまは、ひざまずいて被災者の話に耳を傾けられていた。しばらくすると、陛下も同じ姿勢に。渡辺氏は「皇后陛下がそういうお育ちの方としてなさったことが陛下にうつっていった一つの証なのかもしれない」と話す。

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