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特集

2019年4月29日

昭和から引き継がれた平和への思い

平成も残すところあと2日。天皇陛下は80歳を超えてもなお、国内外で慰霊の旅を続けてこられた。なぜ、そこまで強い思いをお持ちなのか。その原点を探った。

昭和8年生まれで85歳の天皇陛下は、戦争を知る最後の世代で、「日本人が忘れてはならない」と陛下が語る『沖縄慰霊の日』『広島原爆の日』『長崎原爆の日』『終戦記念日』の4つの日には、毎年、黙とうを続けてこられた。陛下のこの特別な思いに触れた人がいる。チェロ講師の寺田義彦さん(61)は皇室との縁も深く、亡くなった高円宮さまにも教えていた。9年前からは、月に2、3回、天皇陛下の練習を手伝うようになった。練習後、陛下から演奏者や作曲者について色々と質問されるという。さらに、両陛下が過去の体験を話されることもあるという。寺田さんは「去年の終戦の日の翌日、皇后さまが『A級戦犯の判決が出て、裁判長が“Death by Hanging(絞首刑)”と言った声がラジオで流れて、それを私は今でも覚えています』と話された」という。A級戦犯として裁かれたのは、東條英機ら戦時中の軍や政府の指導者で、このうち7人が絞首刑となった。処刑されたのは12月23日で、その日は、当時、皇太子だった陛下の15歳の誕生日だった。「皇后さまが『陛下のお誕生日に処刑されましたね』と陛下におっしゃったら、お二人がお互いが顔を見合って、うなずかれていた」と寺田さんは語る。美智子さまは、5年前、記者団からの質問への回答の中で“A級戦犯”について「まだ中学生で、戦争から敗戦に至る事情や経緯につき知るところは少なく、従ってその時の感情は、恐らくは国と国民という個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということに対する身の震うような怖れであったのだと思います」と触れられていた。 当時の指導者の判断の誤りによって、先の大戦では、日本人だけで約310万人が犠牲となった。戦争中、日光に疎開していた陛下は、終戦の3カ月後に東京に戻ってこられた。その2カ月後、陛下は書初めに『平和国家建設』と書かれた。陛下と一緒に『平和国家建設』と書いたというご学友・榮木和男さん(85)は「戦争は嫌だという気持ちで書いた」と話す。戦争の傷跡がまだ残る終戦の翌年から、陛下の父親である昭和天皇は戦争で疲弊した国民を励まそうと、全国各地を回り始めた。原爆で大きな被害を受けた広島も訪問。

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