皆様すっかりご無沙汰しております。ご無沙汰したあとのメッセージはお別れのご挨拶です。この度、アナウンス部から旅立つことになりました。報道センター経済部記者からも、しばし離れることになりました。長い間応援していただきありがとうございました。
ちょっと私のアナウンサー人生を振り返ってみたくなりました。
私がアナウンサーになったのは本当に偶然の出来事です。わたしはなぜか中学2年生の時に、コンピューターのシステムエンジニアとして一生働くことを決めました。そのため剣道部の活動のほかに、コンピューターの研究会に入り、プログラマーのアルバイトなどもして着々と準備を整えていたのです。ところが大学4年生の春に、就職の面接ってどういうものなのかしら?と受けてみたアナウンサーの講習会(当時)で、テレビ朝日やフジテレビとに受かりご縁ができました。先輩たちの話を聞いてみるとなかなか面白いらしい。やり甲斐もある様だということでその気になり、トントン拍子で入社が決まりました。つまりいわゆる記念受験だったのです。(もうすぐ汐留に移る某局では「君はなぜマニキュアをつけていないの」と突然聞かれ、上手く切り返せずに落ちてしまいました。(と自分では思っています)
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△年前のプロフィール写真 |
○年前のプロフィール写真 |
1986年4月にテレビ朝日に入社、アナウンサーとしてど素人の私は研修でシゴカレ特訓特訓の毎日でした。以来モーニングショーのリポーターで始まり、ニュースステーション、ミュージックステーション、歌謡ビンビンハウス、やじうま新聞、こんにちは2時、早起きチェック、んー書ききれない、ニュース、バラエティー、スポーツ、リポーターから司会まで本当に様々な仕事を担当してきました。生放送も多かったですね。緊張感は堪らないのですが、終わった時の達成感も忘れられません。
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ミュージックステーションでは |
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ニュースステーションでは |
あまから問答では |
タモリ倶楽部では |
ここ3年半は、ニュースステーションのディレクター、そして経済部では東京証券取引所、国土交通省担当の記者をアナウンス部と兼務しました。株価のリポートからファッション、海外ブランドなどのリポートなどをしましたが、元気のない日本でがんばっている人や会社をもっと取材したかったなと思います。
アナウンス部では「voice」を立ち上げたことがきのうのように思い出されます。voiceも今年第3回、成長していますね。
これからは取材し伝える事が自分ではできなくなりますが、それは後輩達に任せて、、、
テレビ朝日として何をするか企画していこうと思っています。
異動先の部署は「お客様フロント部」です。新しくできた局のまっさらな部署です。何をするかも決まっていません。ただ視聴者の皆様を大切に考えてテレビとしての役割を果たして行こうということは決まっています。これまで応援していただいた皆様から頂いたお手紙をほとんど残してありますので、もう1度読みなおしてみようと思います。
そして素敵な企画を携えて皆様に夢をお届けしたいと思います。
今後ともテレビ朝日をどうぞよろしくお願い致します。
また逢う日まで、お元気で!
2003.1.31
テレビ朝日 木下智佳子
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