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3月31日 現場で感じたこと。
   上宮菜々子

東日本大震災が発生してから2週間。
日に日に被害の甚大さが明らかになり、被災者の皆さんの大変な避難生活が明らかになっています。

私たちには一体何ができるだろう。
どのようにしたら役に立てるのだろう。
そんな自問自答をくりかえしながら、今日本中が、自分たちの生活を見直し、少しでも支援に参加できないかという思いを胸に過ごしていることと思います。

私たちの中には、地震発生直後に被災地を取材をしたアナウンサーがいます。
番組という限られた時間の中では伝え切れなかった想いを、
平石アナ、小木アナ、松尾アナ、佐々木アナに綴ってもらいました。



平石直之アナウンサー

地震発生当日の夜、東京を車で出発し、東北地方へ向かいました。
道中は大渋滞で、都心を抜けるだけでも数時間。
都心を抜けると、次第に地震の被害が目立ってきます。

停電で消えた信号、陥没した道路、崩落の危険があり通れない橋・・・。
迂回に迂回を重ねて北を目指します。

夜が明けて、街の様子が見えるようになると、
建物の被害も広い範囲に及んでいることに気づかされます。
倒壊した家屋に入って荷物を運び出す人々、
給水所でポリタンクを手に並ぶ人々・・・。
本来なら丁寧に取材をしていきたいところですが、
とにかく先へと進みます。

そして、16時間かけて仙台に入りました。
津波の被害を受けた現場は水に浸かっていて、
前に進むことができません。
はるか彼方に防風林が見えます。
あちこちで煙も上がっています。

その後、ヘリコプターでも取材しましたが・・・。
もはや描写をする気にもなれません。
あまりの事の重さに、いまでも気持ちの整理がつきません。

しかし、「私たちが元気を失ってはならない」と強く思いました。

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小木逸平アナウンサー

関越自動車道をつかって日本海側から入るルートを選ぶか 国道4号をひたすらに北上して被災地に入るか、かなり悩みましたが 最終的に後者を選択。
ところが原発事故の状況がつかめない状況下で やや遠回りを余儀なくされ、結局山形県の新庄市に入り、そこから 東進していくことになりました。被災地に近づくと、ひび割れや段差が 目立ってはくるものの通行は可能でした。
道路もライフラインだ、と考えさせられながらの22時間。目指したのは宮城県南三陸町です。

国道398号線を通って南三陸町の志津川地区に近づくと、海岸線から 約2.5キロほどのところに見えない境界線でもあるかのようにいきなり 壊滅的な状況が目の前にありました。
リポートしはじめた自分の声が震えて いるのが分かります。

ぎりぎり家の形を保っているわずか数軒をのぞき、ほぼ全てが津波に 破壊しつくされていました。
ありえない高さに車が、漁船が引っかかっています。
競売をひかえ山と積まれていた丸太も凶器となって襲い掛かってきたといいます。

「ここで生まれ育ち、ここで働くことが当たり前だと思っていた。でももう町そのものがない。
生き残れたが、これからどうしたらいいのか…」高校一年生の男の子の言葉です。

先の見えない不安のなか、それでもあっという間に瓦礫が取り除かれ 次々と車が通れる道が整備されていくのには驚きました。
重機を調達し 操作していたのは、被災された住民の方でした。

「もう何も残っていません。家の柱一本ありません。
78歳にして全て失ったけど、 お友達とね、明るく笑って元気に過ごして行こうねって言い合っているんですよ」 と朗らかに笑う女性がいました。
状況は依然厳しく、今後も様々な困難が 予想されますが、みんなで手を携えて立ち向かえば、必ず再び力強く立ち上がる 日がやってくる…そう確信した笑顔でした。

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松尾由美子アナウンサー

あまりにも被害が大きくて、
文章にするのもはばかられる思いです。
でも“伝える”のが私たちの役目。
少しでも皆さんに知っていただきたいという気持ちで、 見てきたこと、聞いてきたことをここに記します。

****

「島の人たちはプールの水を飲んでしのいどった…」
目に涙を溜めてそう語る役場の人がいました。
避難所の家族は、1つのおにぎりを3人で分け合っていました。
「母と連絡が取れないんです」と泣きつく人たち、 「あなたたちのおかげで無事でいると伝えられたのよ。
避難所にいる姿を見たんですって!」
そう話してくれたお母さん。
「私は無事です」「○○にいます」
避難所などの入り口や壁には、安否を記す紙が大量に貼られ、 大勢の人がすがるように見入っていました。

新潟中越地震や岩手宮城内陸地震、
過去に取材したどの災害よりも、今回は被災した地域が圧倒的に広く、 あまりにも被災者が多いことに愕然とします。
いまだ被害の全貌も明らかになりません。


発生から2日目の朝、私たちは出発し、翌日宮城県気仙沼市に入りました。
皆さんの中には、航空自衛隊が撮影した山火事のような映像を見た方も多いと思います。
真っ暗な中で炎が浮かび上がる、あの映像です。
この火災の被害を受けたのが気仙沼市、 鹿折(ししおり)地区という海沿いの地区と、その向かいにある大島という島です。

もとは住宅と水産加工場が混在していた鹿折地区。
100台以上出動した東京消防庁の消火活動によってほぼ鎮火したものの、 火は丸3日、くすぶっていました。
足元にはドロっとした重油。
焦げ臭い煙がたちこめ、白い灰が舞います。
周りに見える高い建物といえば焼け焦げた歩道橋くらいで、 家屋はほとんど形をとどめておらず、 散乱したアルバムなどが、ここが住宅地だったと知らせてくれます。
工場の鉄骨は爆風にさらされたかのようになぎ倒され、 巨大な船が腹を見せてめり込んでいました。
ここにあった日常が、一瞬にして消えてしまった、 津波の破壊力をまざまざと見せ付けられました。

近くに座り込んでいた1人の男性。
目を腫らし泣き疲れた様子。
「大丈夫ですか」と話しかけると、 彼が見た光景を語ってくださいました。
津波が町を飲み込み、火に包まれる様子。
その時彼は、港で漁業関係の仕事をしていたそうです。

立っていることのできないほどの揺れ。
「津波が来るぞ!」
一斉に港を離れ、高台へ急ぐ。
途中、忘れ物をして戻ると、遠くに津波が迫っているのが見えた。
慌ててトラックに乗ってその場を離れる。
とにかく遠くへ。
いったいどれくらいの猶予があったのか。
飛び込んだ公民館の窓に津波が打ち付けてきた。
「過信があったと思うよ。
今まで何度も地震が起きていたけど大丈夫だった。
まさかこんなに大きな津波が来るなんて…。」
津波がやっと収まりかけたと思ったら、
今度は湾を挟んだ島側で火の手が上がるのが見えた。
その火が海の上を渡ってこちら側の岸に向かってくる。
火のついた重油は波に乗って住宅地に入り込み、 飛び火して、瞬く間に炎は広がっていった。

彼は、離れ離れになった妻を捜し歩いていて、 その日ようやく再会を果たしたところでした。
妻も夫を探して職場の近くまで来ていたのでした。


2008年に起きた岩手宮城内陸地震では、
地震発生の数日後には、自衛隊により仮設のお風呂が設置されています。
ところが今回は、
人命救助のための自衛隊や消防は早く到着したものの、
仮設のお風呂どころか、トイレ、水や食料などの物資すら、届くのに時間がかかりました。
物資が遅れた背景には、
全国的なガソリン不足、放射能の心配、被災地が広範囲にわたること…
様々なことが重なった結果だと思います。
私も何か力になれればと持っていってみましたが、そんなのスズメの涙。
ましてや避難生活が長引くとなれば、 一時的な物資提供ではなく、
継続して調達できるようにシステムを構築する必要が行政側にあると思います。


金曜日に東京に戻って気付いたことがあります。
若者がとっても多い!
パワーも創造力もみなぎる人たちが東京には溢れているのを発見しました。
おそらく、どの県よりもそうなんだと思います。
あの地震を境に、様々なことが変わってしまったような気がしますが、
こういう時だからこそ、
西日本の方たちはもちろん、
東京だって、節電や早々の店じまいにめげない、パワーの見せ所だと感じませんか?
不安や心配を跳ね除けて皆で前に進む、
そんなエネルギーが、これからの復興を引っ張っていく原動力になる気がします。
くじけず、一歩ずつ、でも着実に、一緒に前へと進んでいきましょう!

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佐々木亮太アナウンサー

私が宮城県に到着したのは、発生から3日目の日曜日の早朝。
高速道路が通れず、また原子力発電所の状態を見ながらの移動となったため、なかなか現場にたどり着けないもどかしさがありました。

道中に次々と入ってくる新たな情報に、我々は、
「一体現場はどんな状況なんだ。何が起きているんだ。」
と緊張感を増していき、それと同時に
「我々は被災地のためにいったい何ができるだろうか」
という想いを強くしていました。

被災地に報道スタッフが行く−
当然ながら、我々はほとんどの人にとって、邪魔な存在です。
そんな中で、「何とか被災地・被災者の皆さんのためになることを伝えたい」
その想いで取材を続けました。

少しでも、情報が皆さんに届いたら。
少しでも、皆さんの要望が届いたら。
少しでも、皆さんが前向きな気持ちになれる放送ができたら。
少しでも、人探しや伝達など、我々が皆さんのお役に立てたら。

まだまだ我々のできることはたくさん残っています。

 

 
Q&Aの紹介
 
 
こんにちは! いつも質問メールありがとうございます。
このコーナーでは皆さんのご質問にズ・バ・リお答えします。
番組のこと、テレビ局のこと、ニュースのこと、○○アナウンサーのこと、いろいろと皆さん疑問に感じていることに、テレビ朝日のアナウンサーが直接このコーナーでお答えします。皆さんからの質問をお待ちしています。
なお、上宮菜々子が責任を持って担当します。よろしくお願いします。
 
 

    
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