帰り道に地下鉄
の先頭車両から窓の外を覗き込む。
見えるのは、真っ暗な闇ばかり―。
時々見える灯りは、合理的な明るさで、人を安心させるためのものではない。
大きな騒がしい音とは反対に、流れていく闇は物寂しいものである。
その時ふと真っ白な場所へ入った。
…駅だった。
目がくらむほどの明るさは「希望」という言葉を体現しているかのようだった。
昭和2年、地下鉄
は、まさに東京の「希望」として生まれた。
それ以来ずっと人々の希望を乗せて東京を走り続けてきた。
この話はそんな地下鉄
をめぐる不思議な物語。
ただのタイムトリップではない。深い哀しみと「希望」を携えた旅である。
観ているあなたもきっと一緒にタイムトリップしてしまう。
だから観終わった後は長旅から戻ったときのような、心地良い疲労感に包まれると思う。
いつもと同じようにして地下鉄
の駅に降り立った長谷部真次(堤真一)は
弟からの伝言を聞く。父親が倒れた、と。
真次の父親・小沼佐吉(大沢たかお)は一代で巨大な企業を立ち上げた人。
そんな父親とは、もう長いこと会ってない。
彼は父を憎んでいた。今も許せないでいた。
真次の兄は、横暴な父親と激しい喧嘩をして家を飛び出したある日、
そのまま還らぬ人となった。地下鉄
のホームから飛び降りたのである。
その時兄は一体何を想っていたのだろう。
「希望」の象徴だった地下鉄
のホームに立った兄の目には、
あの時何が見えていたのだろう。
兄は自らの「希望」ある未来を絶っていった。
そんなことを想いながら駅の階段を上がると、そこは昭和39年の東京だった。
真次がまだ小さかった頃のあの景色が、
何一つ変わることなく目の前に広がっていた。
昭和39年とは東京オリンピックが開催された年である。
日本は活気と「希望」に溢れかえっていた。
ハッとした真次が往来の人の手から新聞を奪うと、ちょうど兄の命日である。
兄はこの年のこの日の夜、自らの命を絶った。
突然の出来事を信じられないまま、真次はあの頃の兄を探し始める。
この手で兄の自殺を防ぎたかったからだ。
大人の真次と子供の兄が出会い、会話をするシーンは堤真一の表情が素晴らしい。
言葉に出して引き止めたい思いをぐっとこらえてそれでも、懸命に「今日はもう、うちを出るな」と訴える彼の切なさ、やりきれなさが、画面からワーッと押し寄せてくる。
地下鉄がホームに入ってくるときに沸き起こる風のように。
その後、現実の世界に戻った真次は兄の運命を変えられなかったことを知る。
やっぱり兄は生きていなかった。真次は落胆する。
こんな小説のような話を誰に話せばわかってもらえるんだろう?と真次自身が、
自分の身に起きたことを信じられない中、
恋人の軽部みち子(岡本綾)だけは真次の言葉を信じてくれるのだった。
地下鉄
が過去と現在を繋いだのは一度だけではなかった。
昭和21年の東京へといざなわれる真次。今度はみち子が一緒である。
なぜみち子が一緒なのか?ここが非常に大きな意味を持つ。
真次はそこで若き日の父親とその恋人・お時(常盤貴子)出会う。
真次は父親としてではなく、ひとりの人間として父親に魅了されていく。
そして兄や自分たち子どもの存在は父親にとっての「希望」だったことを知る真次。なぜ真次は、あれほど憎んでいた父親の若き日を見ることになったのか?
この話の中にはいくつもの「宿命」が登場する。
兄の死はどんなに過去を操作しても変わらない「宿命」である。
真次とみち子が惹かれあうのも「宿命」結ばれないのも「宿命」
そして真次たちが、父親の子どもとして生まれたのも「宿命」だ。
彼がどんなに憎んでも、恨んでも、彼は父親の子どもになる「宿命」を負っているのである。
「宿命」からはどうやっても逃れられない。
それは「血のつながり」という言葉にも置き換えられるような気がする。
血のつながりというのは理由無く存在するものである。
結婚するときに自分の親に似ている人を選ぶ人もあれば、
まったく逆な人を選ぶとも言う。
逆を選ぶというのは似ている人を選ぶよりもそこに強い意識を感じてしまう。
親に対する反発と愛情がグルグル絡み合っている気がする。
家族というのは煙たがりながらも永遠につながっているものである。
突き放したい日もあれば、温かさにうれし泣きしたい日もある。
嫌いだけど嫌いじゃ済まされない。
大好きだけど大好きだけじゃない。
血のつながるものと離れることなんて有り得ない。きっと出来ないんだろう。
これが家族だ。血縁というものだ。
これはそんな「血のつながり」を描いた物語である。
母親の体から子供の体へと血流がゆっくりと流れ伝わっていくように、
地下鉄
は駅から駅へと走り続ける。
「宿命」を恨み、それでも生きていかなければならなかった真次が、
なぜ今この時に、ずっと逃げ続けてきたこの「宿命」と対面しなければならなかったのだろうか?
ずっと「希望」を見出せずにいた真次が「宿命」と向き合うとき、
初めて「希望」への道が開かれたのだと私は思う。
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