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Vol.68  「始発バス」  (2004/07/09)

実家の母から電話があった。
日頃寡黙な父が、夕食の時、珍しく自分から話し始めたという。

父は、始発バスに乗って出勤している。
決まった時間に、決まった乗客が、決まった乗車位置で駅に向かう。
その中には小学4、5年生くらいの少年がいて、
毎朝、高架下の停留所まで母親に見送られていた。
心配そうに見上げる母。
けれども、決して目を合わさない少年の赤くなった両耳を、
父は後部座席から眺めていた。

ある時から、少年は一人で乗ってくるようになった。
親子に、何かがあったのだろう。

数週間後。
いつものようにバスが高架下を右折して、歩道橋に差し掛かった時。
少年が、急に横を向いた。
視線の先、錆びた歩道橋の中段には、いつかの母親が隠れるように立っていた。

母は少し手を挙げて、少年はわずかにうなずく。

乗客からは見えにくい場所で、誰にも知られずに。
母親は息子を見つめ、息子は母親に応える。

「今日はずっと、やさしい気持ちになれたなぁ…」

父の話を聞いていた母は、途中から食事が喉を通らなくなったという。
受話器越しの私も、胸が詰まった。

実家では、両親と妹が暮らしている。
妹も社会人になり、最近は専ら夫婦二人で食卓を囲むことが多いそうだ。
広いテーブルに、父と母。
最近は、めっきり野菜の煮物が多くなったらしい。

きっと、いつものように、母が一方的に話しているのだろう。
父は、黙ってうなずいているのだろう。
そんな中、父がとつとつと話し始める情景が、何故か鮮明に目に浮かぶ。
   
 
 
    
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