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Vol.58  「ロールケーキ」  (2004/01/19)

駅前のケーキ屋には小さな喫茶スペースがあり、ぼくたちはいつも窓側に座る。
ぼくは2杯目のコーヒーを注文した。
彼女はもう湯気の立っていないホットミルクと、くるくると「の」の字に巻かれたケーキを食べている。

「恋愛はロールケーキね」突然彼女が言った。
「いろんな思いが渦巻いているじゃない?」
びっくりして彼女を見た。
「何でもありだし。最近はプリンが丸ごと入っているものもあるんだって」
生クリームがたっぷりのそれを、ぼくはあんまり好きじゃない。
「フルーツだってごろごろ入ってるよ。だから、適度にすっぱいの」
彼女はぼくの好みを思い出したように言い足した。

こういう時間すら、久しぶりだった。
仕事の話を延々とするぼくに、彼女がこんなおかしな話を大真面目に切り出したのだ。
でも、もうぼくの中には、なんにも渦巻いていない。

ぼくには分かっている。
言い出す勇気がない自分が、無言で彼女に甘えていること。
それが彼女をものすごく苦しめていること。
彼女が、こんな話をすることで、ぼくを遠まわしに促していること。

「ね、甘すぎる?」
皿の上には、ケーキの敷かれていた銀紙がきちんとたたまれている。
「私はいくらでも大丈夫なんだけどなあ」
ぼくが残したコーヒー用の砂糖は、彼女のホットミルクに入れられていた。

焼き上がったケーキの匂いが、急に夕方の店内に強く香った。
降り出した雨のせいだろうか。

「このケーキ、買って帰る?」
上ずった声で聞いたぼくに、彼女は窓の外を見たまま言った。
「ううん、大丈夫。もう、お腹いっぱいになっちゃった」

さっきよりも強まった雨で、ガラス越しの滲んだ風景が崩れ落ちていく。
   
 
 
    
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