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Vol.62 「走春」(2008/03/31)

季節が巡って。
日脚が延びたこともあり、最近、走るようになった。
冬の殻をするりと抜けたかたつむり。むろん、スローペースで。
先日取材した、東京マラソンに触発された節もある。

高校時代は陸上部に所属していた。種目は3000m。
思えば、微塵もない自分の身体能力とは、長い付き合いになる。
ドッジボールでは万年外野、徒競走ではゴール前で足がもつれて転倒、
水泳は10mしか泳げない。

それでも運動部に入ろうと決めたのは、この季節のせいなのかもしれない。
出会って別れて始まって終わって。春の嵐は、時としてあらぬ方向へ吹いていく。目に染みる埃と、どんくさい自分への僅かな苛立ち。

運動すると決めてはみたものの、集団競技で周りにかける迷惑を考えると、
おのずと個人競技に絞られた。
ならば、陸上だ。そして、長距離だ。
先天的な能力とは別の世界の、積み重ねによって身につく持久力。
毎日コツコツの信念こそ、唯一残された道だった。
以後、3年間。
先輩と後輩には常に引き離され、地区大会では先頭集団より2周遅れてのゴール。
最後まで記録には恵まれなかったが、練習でカチカチになったふくらはぎは、
自分のものではないようで新鮮だった。
汗を流した後に飲む、ダイエットコーラの暴力的な味。


季節は巡って。
春めく陽気の中にも、肌寒さはわだかまっている。
軒先の花々に気付く程、鈍った体はなめくじペース。今も昔も、やっぱりどんくさい。
見慣れた駅前を横切って、坂を下り、自分の中だけでのラストスパート。
テープを切った記憶はないし、これからもきっとないだろう。
ぜえ、ぜえ、ぜえ。
でも…この感覚。
買い物袋を提げて、よろよろ自宅にたどり着くよりも。
びゅんとエントランスに駆け込むのは、
今日のゴールをくぐるみたいで、ちょっといい。


靴箱に眠っていたスニーカーを、引っ張り出しました

(「日刊ゲンダイ 週末版」3月31日発刊)
   
 
 
    
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