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Vol.58 「旅行記(ウィーン編)」(2007/12/10・2008/01/07)

去年訪れた、中欧の旅行記。
クロアチアに引き続き、後編です。

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クロアチアを発ち、ウィーンに降り立ったら、またしても雨だった。
雨宿りがてら、早速カフェへ。

コーヒーと、泡立てたミルクを半々に入れた“メランジェ”。
ホイップした生クリームを浮かべた、“アインシュペナー”。

ガイドブックで下調べをする性質ではないのだが、
カフェの品書が記された頁だけは、何度も熟読した。
季節の果物たっぷりのケーキも欠かせない。



温かくしてサービスされる、カッテージチーズのパイ


ケーキと一緒にアラカルトも頼めます


夜になると、濡れそぼつ石畳が鈍く光る。
影絵のように聳え立つ国立オペラ座も、雨音に耳を傾けている。
深夜のホテル・ザッハーは、昼間に比べて空いていた。
さて、どうしよう。
名物のザッハートルテを注文してから、しばし考える。
切羽詰らない範囲での迷いはどこか心地よい。

翌日。
日暮れと共に国立オペラ座へ。公演中の『ばらの騎士』の立ち見券を購入した。
料金は、ボックスシートの150ユーロ(約25000円)に比べ、
僅か2.5ユーロ(約400円)。
服装も、立ち見席ではある程度大目に見てもらえる…が、何せ狭い。
ラッシュアワーの車内さながらではあったが、
気力さえあれば、いつでも音楽に触れられることに驚く。
仕事帰りのお父さんたちも、立ち飲み屋で一杯ならぬ、ふらりと一幕。



弦楽による、やわらかな調べ


オペラの後は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地、
楽友協会ホールへ。開演時間が迫っていた為、とにかく慌てて滑り込む。
始まったのはオーケストラではなく、フランスから来たカルテットだった。
観光客は他に見当たらず、満席でもない。
だが、この小さなコンサートこそが、この旅で一番の音色だった。
冷えきった耳たぶが、尚に赤く染まるのが分かる。
チェロの低音は、毛布の衣擦れのように柔らかい。
ふわりと束ねられた音数の少ない旋律は、
どこの誰かも分からない私をするすると解いていった。

公演後、同じくザッハートルテを食べながら。食器が触れ合う音までもが美しい。



老舗の「ホテル・ザッハー」にて


カフェ、カフェ、カフェ。
何かあれば、いや、何もなくともお茶をする自分にとって、
数メートル間隔で行き当たるこの街は、夢のような場所だった。

まず、店に入ったら。
「コーヒー、一杯」ではなく、「コーヒー、○○で」と注文する。
日本でいうと、牛丼店のシステムと似ているかもしれない。
「並」「つゆだく」といった文言さながらに、
「グラスで」「ミルクを泡立てて」「ラム酒を少し」などなど。カップの大きさも様々だ。
少なくとも、ガイドブックにコーヒーとケーキの解説が詳細に記されている国を他に知らない。

カフェインたっぷりのお腹をとぷとぷ揺らしながら、街をそぞろ歩く。
古いカフェの分厚い扉を、ぎぃと押し開けると…
煙草の煙がもうもうとゆらめいていた。ウィーンのカフェの殆どは喫煙席だという。
新聞を読みながら、談笑しながら、人々はその空間をまるで居間のように過ごす。

禁煙席を探して辿り着いたのは、日本でもお馴染みの緑の看板のカフェだった。
熱いモカを注文して、ソファに沈み込む。

やにわに背後で小さな声が上がった。
慌てて振り向くと、学生と思わしき女の子に、
背の高い男性がばらの花を手渡している。
大きなスーツケースと、雨粒の跳ねたダッフルコート。
空港から真っ先に恋人の元に駆けつけたのだろう。
すっかりくしゃくしゃになった一輪を見つけるや、彼女はきゅうっと男性に抱きつく。

わわわわわわ。
目の前で、映画のようなシーン。

旅をしていると、知らぬ間に世の中を外から眺めている。
所在無さと所属していない気楽さの間で漂っていた私を
きゅうっと引き寄せたのは、一輪のばらの花だった。

日本では、こうはいかないなぁ。
何故か自分が照れながら、あれこれ考える。
モカはまだ温かい。
ウィーンにいる限り、冷めない現実をぼんやりと味わっていた。


(「日刊ゲンダイ 週末版」12月10日・1月7日発刊)
   
 
 
    
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