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Vol.15 「新地の夜」 (2005/03/19)

「よし、新地で飲み直そう」
すっかり酔った父は、上機嫌だった。
還暦祝いの食事会の帰り道。
偏頭痛の母こそ辞退したが、父と妹と私。
家族で初めての二次会だ。

老舗の飲食街といえば、東京では銀座、大阪では新地らしい。
滲んだネオンの路地を進み、ビルの一室の扉を開けると、
ジャズが流れる小さな部屋に辿り着いた。
「あらぁ、村上さん。お久しぶりね」
程なくして、琥珀色のウイスキーがカウンター越しに注がれる。
皿に盛られた、そら豆スナックとピスタチオ。
お品書きはないらしい。

ママさんは、店内を軽やかに動き回っていた。
お酒は決して切らさない。
その様子を眺めながら、手持ち無沙汰な私はますます緊張した。
上機嫌でウイスキーをお代わりする妹を横目に、ウーロン茶をごくごく飲むばかりである。

にわかに、カラオケのイントロが大音量で流れ出した。
隣に座っていたサラリーマンたちの一人が、マイクを持って立ち上がった。
「何、歌うの?」
「スピッツや」
「スピッツ?スピッツって何や?」
「犬やがね」ママさんが、さらりと口を挟む。
「犬!?俺らが、会社の犬やがな!」
会話を聞いて思わず吹き出したのをきっかけに、その人たちと話をするようになった。

「え?親子なん?」
どうやら私たちを、上司と部下だと思っていたらしい。
還暦祝いの帰りだと告げると、急にマイクを譲られた。
「お父さんに、『父に捧げるバラード』歌ってあげて!」
おろおろしながら、分厚い曲集のページをめくる。
父に捧げる歌…父への歌…。

「決まった?」と、父。
「うーん、『世界に一つだけの花』かなぁ」
「お父さんの『世界で一番の花』は…菜の花です」
父は、完全に酔っ払っているらしい。
こうなれば、腹をくくって歌うことにしよう。
すると、今まで個々に盛り上がっていた人たちも次第に手拍子で加わってくれて、
最後は店中が全員での大合唱となった。

「娘さんを連れて来はるなんて、ええなぁ」
「お父さんに、親孝行したりや!」
拍手が鳴り止まないうちに、いつ選曲したのか、『百万本のバラ』のイントロが聞こえてきた。
さり気なくマイクを握ったのは父だった。
小声で、「…お母さんに」。

菜の花ではなく、真っ赤なバラだったのね。
そんな父と、新地の夜に、完敗。


(「日刊ゲンダイ」3月19日発刊)
   
 
 
    
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