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Vol.52 8月27日 『ディア・ドクター』





虚偽。捏造。隠蔽。

思いつく限り、懐疑的な語彙を並べてみる。
それらは反射的に、絶対悪へと結びつく。

インチキ。まがいもの。

微塵の迷いもなく、皆が眉を顰める。

なりすまし。

依然として漂う、負のにおい。
同時に、固定されたはずの概念は、ひらりと身を翻して迫ってくる。

それは、誰にとって?

山あいの小さな村で、
“神さま仏さま”よりも頼りにされている医師、伊野治(笑福亭鶴瓶)。
診察、薬の処方、独居老人の健康チェック…。
伊野は、ベテラン看護師の大竹(余貴美子)と共に、
全てを一手に引き受けていた。
そこへ、東京の医大を出たばかりの研修医、相馬(瑛太)が赴任してくる。
“ぼんぼん”の相馬は最初こそ戸惑うものの、伊野と一緒に働くうちに、
都会では味わったことのない充実感を覚え始める。
とある、夏の終わりの夕方。
伊野はふらりと診療所を後にして以来、忽然といなくなってしまう。
ひた隠しにしてきた、一つの嘘を残して。

自分は、何者なのか。
肩書きを示すことで、おおよその物事は潤滑に運ぶ。
病院の医師も、レストランのシェフも、番組のアナウンサーも。
だが、同じ肩書を持つ者とて数多い。
シェフのA氏がB氏に代わったとしても、
腕を振るう人がいる限り、味は変わっても店は存続する。

代わりは、いる。
自嘲しようと謙遜しようと、現実は揺らがない。
追いやられたちっぽけな自我は、別の場所へとたどり着く。
名刺や資格からは、計り知れないこと。むしろその場では必要とはされないこと。
たとえば、A氏は独身の男性で、B氏は子を持つ母で。
名前があり、住まいがあり、故郷があり…。
そこに、代わりはいない。

平凡で平穏。
取るに足らない一方で、明日をも知れぬ毎日。
時に、取り繕い、調子を合わせ、それでも何とかやり過ごす。
曖昧な自己は、周囲と繋がることで形を成していく。
優しさだったり、だらしなさだったり、弱さだったり。
誰かにとっての何かであり続ける以上、ぽろぽろ散らばる、嘘と誠。
あり続けたいから、足掻く。悲しい。いとおしい。

夏の夜の場面がある。
村人たちが寝静まる中、伊野は机の上に医学書を広げている。
人知れず、頭を抱え、医学の知識を叩きこむ。
朝が来れば、いつもの一日が始まる。
相馬の運転する真っ赤なカブリオレで、棚田を颯爽と走り抜ける。
そこには、待っている村人たちがいる。

医師の伊野、ではない。
伊野が、医師だった。

村はずれの長い坂道。
脱ぎ捨てられた白衣は、白旗にも見えた。

代わりは、いる?


©2009『Dear Doctor』製作委員会

♪作品データ♪
『ディア・ドクター』
原作・脚本・監督: 西川美和(『きのうの神様』ポプラ社刊)
出演: 笑福亭鶴瓶、瑛太、余貴美子、井川遥、香川照之、八千草薫
配給: エンジンフイルム、アスミック・エース/2009/日本
※ シネカノン有楽町1丁目ほか全国ロードショー
『ディア・ドクター』公式サイト
http://deardoctor.jp/
   
 
 
    
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