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Vol.12 8月29日 『Etre et avoir ぼくの好きな先生』

 
 夏休みの気配というのは、何年経っても敏感に察知するものだ。玄関先に置かれたプラスチック製の朝顔の鉢、子どもたちが手に提げているビニール製のプールバッグ、そういった小さなものが、くっきりとした輪郭で目に映る。
 早朝勤務を終えた午前中の帰り道、短縮授業を終えた小学生たちとすれ違う。彼らの足取りは軽く、いち早く「夏休み」を感知している。感情を素直に表すその姿を、少し羨ましく思う。
 最近では、事件を通して小学生が語られる。「少年犯罪」や「12歳」といった言葉が紙面を占める。ただ、自分が生活していて、普段何気なくすれ違う彼らがあまりにもあどけないので、いささか混乱してしまう。
 彼らは何を考えているのだろう。かつてそうだった私は、何を考えていたのだろう。
今回紹介するのは、フランスの小学校を舞台にしたドキュメンタリー映画である。

「Etre et avoir ぼくの好きな先生」

 フランス中部、オーベルニュ地方の小さな村。雪の降り積もる山道を、古いワゴンが走って行く。この村にたった一つの小学校サンテイエンヌ校へと生徒たちを運ぶスクールバスだ。小さな子から上級生まで次々にバスに乗り込んでいく。この学校が他の学校と少し違うのは、教室が一つ、全学年合わせて13人、そしてたった一人の先生しかいないこと。ロペス先生は20年間、この場所で教鞭を執っている。
 そんな彼らの生活と対話が、映像で淡々と綴られていく。このクラスの一年を物静かに撮っているだけ。全員でクレープを作ったり、ソリで雪山の斜面を滑ったり。特別なことは何も起こらない。
最初は6までしか数えられなかった4歳の少年ジョジョは、夏には1000、2000、20億、50億と数えられるようになる。それでも、数が永遠に続くことが理解できない彼に、ロペス先生は言う。
「数に限りはないんだよ」
 先生は、あと半年で35年の教師人生に幕を閉じる。
時間に限りがあるのも、現実だ。

 自分の胸に手を当てて考える。12歳、小学生の頃。国語と音楽と図画工作が好きだった。卒業式に「将来の夢は?」と聞かれ、正直に「まだ分かりません。それを決められるだけのたくさんの経験をしていきたい」と答えたら笑われてしまった。
 何が正しくて、何が間違えているのか。
 それを判断するのは、大人だって難しい。

ふと、当時の視点に立ち戻りたくなり、思い立って小学校の「国語の教科書名作選」を通信販売で購入した。「ごんぎつね」「スーホの白い馬」「スイミー」など、繰り返し読んだ作品の数々。想像の世界に遊ぶことが出来たのが、その頃の特権だったなぁ、と思う。感情を素直に表現することが許されたのも。ただ、今はその想像を掻き立てる媒体―インターネット、バーチャルリアリティーを駆使したゲームなど―の幅が限りなく広がっていることには間違いない。
小学生は小学生の半径で、日常を過ごす。その中で垣間見える現実の厳しさや、答えの分からないもどかしさ、どうしようもない事柄。それらを包んでくれるのは、親や先生の優しさだったり、教科書の行間に潜んだ数々のメッセージだったりするのだろう。

軒下の朝顔がもう咲いていた。昔、花の咲く瞬間を見たくてじっとその場に座っていたことがある。でも、叶わなかった。成長する瞬間や、その時何を学んでいるかなんて、案外分からないものだ。

   
 
 
    
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