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9月6日 我慢と逆転のランナー、シモン その1

これまでは、一部のマラソン通だけが知っていたリディア・シモンと言う名前。しかし、今年1月の大阪国際の優勝以来、日本のほとんどの人がその存在を知ることとなってしまったのです。弘山晴美選手とのデッドヒートは、すさまじい意地と意地とのぶつかり合いで、鬼気迫るものがありました。

あのレースのビデオを何度見ても、シモンの表情には圧倒されます。それまで下を向いて淡々と走っていたシモンが、ある瞬間、かっと目を見開き、まっすぐ前を見つめたかと思うと、その表情は可憐な少女から般若へと変化。草食動物が、一瞬にして肉食動物に変わったかのような、欲望をむき出しにした走りに変わったのです。40キロを走ってなお、ぐぐっと伸びるストライド。そして最後の一滴まで力を使い切って、ゴールのテープを切った瞬間、その喜びを表現する全身でのガッツポーズ。

静と動、我慢と爆発、相反するものを内包しながら、ある一瞬を待ち続けるランナー、それがリディア・シモンなのです。

ルーマニア国籍のシモンが、トレーニング基地にしているのは、米国コロラド州ボルダーです。

ボルダーと言えばランナーのメッカ。このロッキー山脈の麓の閑静な住宅地は、かつては米国で一番犯罪率の低い町などと言われたこともあり、日本の選手たちも10年ほど前からここでトレーニングを行っています。有森裕子さんは、この町の環境が大変気に入ってしまい、今ではここに家を買って住んでいます。また現在、積水の高橋尚子選手や、資生堂の弘山晴美選手が練習しているのもこの場所です。バルセロナ五輪の前にはロサ・モタや、アトランタ五輪の前はピッピヒの姿もここで見かけました。

いつからランナーたちが集うようになったのかは定かではありませんが、今から23年前、私はこの町に住むフランク・ショーターを訪ねたことがあります。彼は、この町のことを「冬はスキーができるし、山もすぐ横にあって、トレーニングをするのには最適の場所だ」と言っていました。彼はこの町でフランクショーターランニングギアなる会社を興したようですが、その頃から、この町がランナーのメッカになったのかもしれません。

標高16000メートルは、心肺機能を鍛えながら、かつスピードトレーニングを行うのには最適の高度なのでしょう。車で15分も走れば、標高3000メートルの山道もあり、高所トレーニングも十分にできます。さらに町の人々の健康に対する意識が高いのも特徴で、10年前から、すでにスーパーマーケットで低脂肪の乳製品や無農薬野菜などを、手軽に手に入れることができました。

ただ残念なことに、今では近くであのジョンベネ事件がおこったり、高校乱射事件が起きたりと、物騒な話題も少なくない町になってしまいました。

シモンはこのボルダーで練習をするようになって、今年で4年目。長い間模索してきたトレーニング方法がようやく確立できたと言います。確かにここで練習をするようになってから、大阪国際で3連覇を飾るなど、その実力はぐんとアップし、安定してきています。

シモンが今シーズン、シドニーオリンピックのために本格的にトレーニングを開始したと聞いて私たちがボルダーを訪れたのは6月下旬でした。走っている姿は大きく感じるのですが、実際に横に立ってみると、色が真っ白で、か細くて、ひ弱な感じで(失礼!)さらには、悲しげな表情をしているものですから、思わず「お加減は大丈夫ですか?」と聞きたくなってしまうほどです。でも、これにだまされちゃいけないんですね。なんといっても彼女は二面性の女ですから!

シモンのマラソンデビューは17歳と他の選手に比べてもかなり早い時期でした。

ルーマニア陸連の方針で、当時、若い数人の選手が強化選手として選ばれていたのです。初マラソンはなんと2時間58分18秒。今はトラックから転身してくる選手が多いので、こんな遅い初マラソンタイムを持つトップレーサーを捜すのは難しいほどですよね。とにかく、こつこつ、耐えて、耐えてここまで来たのがシモンなのです。

シモンのマネージャーをしているのは日本人の岡本英司さんです。岡本さんが彼女のマネージャを引き受けることになったのは、95年の世界選手権のある出来事が、きっかけでした。

「95年のイエーテボリの世界選手権でシモンは両足豆だらけになって走ったんです。靴を血で真っ赤にしながら、それでも10番目に入っていきました。ゴールした後靴を脱いだら、血に染まっている靴下が皮膚にめり込んで、脱げないんですよ。こんな足になりながら10番。普通じゃできませんよ。ここまでがんばってきた選手を何とかしてあげたいと思ったのが最初ですね。」岡本さんは続けます。

「とにかく、どんなことがあっても我慢する。97年のアテネの世界選手権では嘔吐しながら3位に入った。去年のセビリアの世界選手権では、急性盲腸になりながら市橋には競りまけましたけれど意地の3位。翌日緊急手術をして、医者からもう少しで腹膜炎になるところだったと言われたんですよ。」

今年の大阪国際女子マラソンの後も、弘山とデッドヒートを繰り広げゴールした後、自分では歩けないほど脚にダメージを受けながらも、シモンは記者会見でさらりと言ってのけたのです。

「勝ちたいと言う気持ちと根性が、少し私の方が上でした。」と。

痛みなどの肉体から出される警告を無視するほどの精神力の強さ。勝利に対する欲望と忍耐。シモンの強さはここにつきます。

どうして彼女だけがこんなにアクシデントを乗り越えることができるのでしょうか。
それは彼女の生い立ちを知る必要がありそうです。
次回は、そのことをお話しましょう。



・1973年9月4日生まれ
・157cm
・44kg
・ベストタイム 2時間22分54秒
1990年 初マラソン 2時間58分18秒
1995年 世界選手権イエーテボリ 10位
1996年 アトランタ五輪 6位
1997年 世界選手権アテネ 3位
1998年 大阪国際 優勝
1999年 大阪国際 優勝 ロルーペを破る
1999年 世界選手権セビリア 3位
2000年 大阪国際 優勝 2時間22分54秒 弘山を破る。
2000年 ロンドン 2位 ロルーペに破れる

<画像はロッキー山脈の麓>

 
スポーツ古今東西
 
モスクワ大会に始まり、ロス、ソウル、さらには冬の大会も経験し、シドニー大会がなんとオリンピック取材10回目になる宮嶋泰子アナウンサー。取材ではその選手の持っている「根」を掘り起こそうと歳甲斐もなく?大声を張り上げて走り回り、スポーツを縦から見たり横から見たりと大忙し!他とは一味違うスポーツ企画をこのコーナーでぜひお楽しみください。
 
 
    
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