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4月21日 『ボートピープル・ベトナム難民たちの今』


こうして多文化まちづくり工房で手伝いをすることになったハーさん。
外国籍の人に日本語を教えたり、翻訳をしたりする仕事の合間に、今、最も力を入れているのが、無償でおこなっている中学生の勉強サポートです。





数学の数式はすらすら解けるけれど、日本語の読み書きが十分でなく、設問の意味がわからないという子どももいます。学校の成績の鍵を握るのは日本語の理解力なのです。

ハーさん: 「私のときもそうだったんですけれど、高校受験が一番大変で」

ハーさん自身、ここで、勉強を見てもらって高校に進学することが出来ました。

中卒だと貧困に陥る確立が5割といわれる現代社会、高校入試は難民2世たちにとっても切実な問題です。


  


ハーさん:「みんな本当は潜在能力があるので、それを伸ばしていってほしいし、日本社会の一員として活躍してほしいという思いがあります。」

きれいな字で漢字をおさらいしているゴックちゃんは、小学生のときからハーさんに勉強を見てもらってきました。


   

ゴック:「日本大好きです。自然は超きれいだし、日本のみんなすごく優しい」

ハーさんはゴックちゃんから贈られた一枚の絵を大切に飾っています。



「ハーさんのおかげで日本がすきになった・・・・ハーさんへの最高の感謝の気持ちです。」



アジアスポーツフェスタ 県立横浜国際高校にて

難民の人々が、日本の社会に溶け込めるようにと、今では草の根でさまざまなイベントが企画されるようになりました。


   

   

地域が難民の人たちをマイナスと捕らえるのではなく、その地域に入ってくるプラスの力と捉えることが求められる時代になってきたのです。





多くの文化が交錯するいちょう団地。
難民の人々自らが、地域の力をパワーアップさせようとしています。

ハーさん:「まずはこの地域で日本の人と外国籍の人が一緒に生活できて、もっとよりよい町が出来たらいいなと思って。」


   

助けられて育ってきたからこそ、今度はみんなを助ける立場になりたいというベトナム難民1・5世が、地域を変えるために奮闘しています。




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編集後記

私が大学生だった頃、毎日のようにテレビでボートピープルのニュースが報じられていました。ベトナムから小さな船に乗って大海原を木の葉のように揺れながら、やっとの思いで日本の領海にたどり着いた人々のニュースでした。どれだけの人々が海で命を落としたことでしょう。そして、その危険を賭しても新天地に逃れたいという気持ちは、日本に到着してから報われたのでしょうか。

2010年、日本はミャンマーから難民を正式に受け入れました。彼らはこれから日本でどのように生活をしていくのだろうかと考えるうちに、30年前に日本にやってきたベトナム難民の人々の生活をぜひ知りたいと思うようになりました。

日本に帰化した人、家族を呼び寄せた人、ベトナム籍にこだわる人、帰化したくても法律の壁で帰化できない人、米国やオーストラリアに移住した人、また、移住したけれどアジアのほうが住みやすいと戻ってきた人、百人百通りでした。そして、それぞれ違いはあるけれど、皆たくましく生きていました。今という時間を、精一杯生きていました。

国連難民高等弁務官駐日事務所の全代表、滝沢三郎さんは、「大切なことは、国の支援、地域自治体の支援、さらにコミュニティーのNGOなどの支援がうまく回っていくこと」とおっしゃっていました。日本はいつの間にか多文化共生の社会になってきています。取材をしながら痛感したのは、まだまだ企業や行政など外国籍の人々の生活を支える雇用面で理解が足りないことです。それと同時に、地域では少しずつ理解の我が広がっていることも知りました。そして、スポーツが相互理解のために大きな役割を担えることもよくわかりました。

社会の中で生きる人間、そして、その中でスポーツが果たす役割などをこれからも見つめていきたいと思っています。


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