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8月30日 プレイバック・報道ステーション企画その7
『清水宏保が外側から始めてみたオリンピック・スピードスケート』


清水さんがことのほか気にしたのは、同じ北海道、十勝出身の15歳、木美帆さんでした。

清水:「木選手に頼まれたこれ、なめたけです。差し入れで買ってきました。」

宮嶋:「選手村って結構たいへんですか?」

清水:「選手村は食事がない、なかなかあうものがないので、彼女の場合、こうした長期の海外始めただろうし、相当大変だろうと思いますね。」


  

  

もちろん、選手村には食堂があり、各国の料理がふんだんに用意されています。
しかし、試合前の体重コントロールなどを考ると、なかなか難しいものがあるようです。

宮嶋:「清水さんからなめたけとどきましたか?」

木:「結構前に届きました。毎日食べています。日本人の口にあう米がないので、自分たちで炊いて、そういう梅とかなめたけとかもっていってという感じです。」

美帆さんは、ご飯とちょっとしたおかずを持ち込んでこの食堂に通ったのです。

この選手村で、25日間、
二人一部屋、6人が一緒に生活をしながら、それぞれが異なるレースに照準をあわせて、調整していきました。


  

  

  


美帆さんの成績は1000mが最下位の35位、1500mでは23位と振るいませんでしたが、清水さんは温かく見守ります。

清水:「残念な結果と捉えられがちですが、よくやったと思います。選手村での生活というのは予想以上に大変なんです。試合が近くてぴりぴりして監督コーチもぴりぴりして、普段出ない人間性も出たりとか。」


  

  

清水さんは、19歳で初出場したリレハンメルオリンピックで、選手村でのストレスから、血尿が出たといいます。


  
初出場のリレハンメル五輪にて

木:「こういう長期の遠征で、自分の調子をマックスに持ってこれないというところがあるので、うまくしていけたらなという感じです。」

今回、美帆さんがチームパシュートのメンバーに選ばれ、みんなで協力しあうムードが生まれたことは、美帆さんにとって幸いでした。

同じ部屋で暮らしてきた穂積雅子さんのうれしい気遣いもありました。

穂積:「木の思いもしっかり一緒に滑っているという気持ちもこめて、「木、手袋かして・・っていいました」。


 

美帆さんの手袋が、3人のすべりにパワーを送ります。

日本は前半からリードしていたものの、ラスト一周でドイツに猛烈に追い上げられます。
勝敗は肉眼で確認できないほどの僅差でした。


  

  

  

勝負が分かれる100分の1秒の世界。
そして同時に、人の優しさも知ったオリンピックでした。

「先輩方のおかげで自分がこんなにいい思いが出来て感謝の気持ちでいっぱいです」


 

清水宏保さんの目が、バンクーバーで最も鋭さを増した日、
それは男子500メートルの日でした。



長島圭一郎さんが、1本目の6位を挽回しようと臨んだ2本目のレース。
この日、最も速いタイム34秒88をマークして、銀メダルを獲得しました。

そのときのレース感覚は今まで体験したことのないものでした。



 

長島:「もう一周いけるんじゃないかというきもちよさっていうか。レース自体は勝手に体が動いてくれて、今までやってきたことを、僕はただ、前、見ているだけで、気持ちがいい状態で、ずっと500回ってました。脚も疲れていなくて、まだまだいける感覚があって」

それは、清水さんが長野で金メダルを獲得したときの感覚ととても似ていました。

清水:「このままレースを終わらせたくないなと思いながら、気持ちいい状態で滑っていましたね。ああ、これで4年間のすべてがここで終わってしまうのかな、もったいないなって、もっとこの緊張感や雰囲気を味わっていたいと思いながら滑っていましたね。」

気持ちのよい状態は、力を出し切った二人に共通している感覚でした。


  

  

レース後、清水さんに会って長島さんが口にした言葉、
「清水さんの金って、すごいなって」
それは本心からだったのでしょう。


 

そして今回、頂点を目指しながらも銅メダルに終わった加藤条治さんも
改めて清水宏保さんの偉大さを感じていました。

加藤:「スケートって言うと清水宏保っていう名前が一番に出てくると思うんですよ。
それを清水さんが現役のときに超えられなかったっていうのは正直残念だったなって。」


 

ともに世界記録を更新し、常に頂点を目指してきた清水宏保さんと加藤条治さん。

加藤:「清水さんが作ってきたもの、メダルも何個もとっていますし、スピードスケートは強いって言うイメージも植えつけてきて。それを守り続けていきたいなとおもいます。」


  

  

長野オリンピックの清水宏保さんの姿を見て、オリンピックを目指したいと思った若い世代が、今、そのバトンを受け継いでいきます。


  

  

  

  



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編集後記

身長162センチ、この低い背では、世界を舞台に戦うことは無理だと高校時代から言われつづけてきた清水宏保さん。喘息持ちで、発作が出ると苦しくて、試合の直前でも椅子に座ったまま眠ったといいます。自分が持てる条件は決して恵まれたものではなかったですが、その清水さんを常に励まし続けたもの、それは子供のころから練習を見てくれて、早世したお父様の存在でした。

胃がんと診断され、余命いくばくもないと宣告されてからも、時間と競争するように宏保さんの練習を見続けたお父様。自分の息子のことを「清水!」と呼び、自らのことを「コーチ!」と呼ばせ、「お前は体が小さいんだから、人一倍、努力すれ」といい続けてきたといいます。

私が清水宏保さんのことを始めて意識したのは、彼が高校生のとき、僅差で代表の座を逃した1992年のアルベールビル五輪の代表選考会、富士急ハイランドでのことでした。
記者に囲まれ、その真ん中に小さな清水選手がいたのを今でも鮮明に覚えています。

1993年の12月、当時ニュースステーションで清水宏保さんの特集を作りました。
それは清水さんにとっても、初めて取り上げられた企画ものだったそうです。

最初に特集を作った私が、今回、清水宏保現役最後の特集を作ることができたのは、とても幸せなことでした。
取材者冥利に尽きることが続いたバンクーバー五輪でした。



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