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2月4日 永井さん、ありがとうございました


去る1月31日(土)、「永井譲治お別れの会」に出席してきました。
初めて名前を聞く方も多いかもしれません、中目黒にある「東京アナウンスセミナー」というアナウンス専門学校の代表を務めていらっしゃった方です。
 永井さんと私の出会いは、まさに今から丁度四半世紀前の1984年2月のことでした。理工系単科大学3年生だった私が、清水の舞台から飛び降りる覚悟で入学した恵比寿にあるアナウンス専門学校の教務をなさっていたのが永井さんでした。授業でアナウンスメントを教えて下さる先生ではありません、主に生徒のカウンセリング担当で、「永井さんのカウンセリング」といえば予約待ちが数日かかるなど、その学校の名物でもありました。私は毎日のように自主トレに通い、そのあと必ず寄った居酒屋で他の生徒と一緒に永井さんを囲み、「僕はこんなアナウンサーになりたい」「私はこんな風になりたい」と夢を語り合っていたので、それがカウンセリング代わりでした。週に1度教えていただく先生より、毎日のように居酒屋で相談相手になってくださる永井さんが、私にとって一番身近なアナウンス学校の恩師でもありました。割り勘がルールでしたが、永井さんは必ず多めに支払われます。いつの日か永井さんに恩返しがしたい…テレビ朝日に内定した夜に、永井さんと2人きりでその居酒屋に行き、「今日は僕に御馳走させて下さい!」と言った事を、座敷で座った位置とテーブルも含めて今も鮮明に覚えています。
 テレビ朝日のアナウンサーになってからも、私は頻繁にその居酒屋に顔を出し続けました。それは学生時代にその居酒屋に行くと、全国からアナウンサーの方々が東京出張の度に永井さんを訪ねて下さり、私たち後輩に語って下さる話は何事にも代えがたいものだったからです。局アナになった今、私がお返しにその役目になれるのであれば…“おこがましい”とう言葉を常に意識しながらも、現役の生徒さんと話をするために毎年通い続けました。年平均すると1ヶ月に1回程度でしょうか?でも25年間で300回は軽く超えています。OBの中でもその居酒屋出席回数は、おそらくベスト5くらいには入っているのではないでしょうか?そのおかげで、この25年間に全国に旅立ったかなりの数のアナウンサーの皆さんとコミュニケーションが取れました。10年前に永井さんが独立して新しい学校(東京アナウンスセミナー)を立ち上げる時には、局アナという立場上直接のサポートができないので、同期の仲間を中心にして全国のアナウンサー仲間に声をかけ、数百人規模のカンパパーティーを企画したのも懐かしい思い出です。
 昨年4月に、私がアスクの学校長に就任することになったとき、一番喜んでくださったのが他ならぬ永井さんでした。「永井さん、こんなことになっちゃいました」「いや〜松井さん、素晴らしいですね〜、一緒に頑張りましょうね〜」…その後もライバル校(?)の責任者同士という不思議な関係になってしまいましたが、相変わらず私はその居酒屋に通い続け、永井さんや生徒と語り合ってきました。
 2008年9月3日、朝…。永井さんは突然この世を去られました。前日も、いつものように自分の学校に行って生徒にカウンセリングをし、夜はいつもの居酒屋へ行き、いつものように生徒と語り合って、指導して、いつものように自宅に帰られました。そして持病の不整脈が原因で、自室で一人旅立たれたのです。 52歳という若さでした。
 永井さんとの思い出はあまりにもありすぎて、ここでは書き切れません。生前、永井さんがおっしゃった事に、「嬉しいのは、生徒が『先生、合格しました!』と言ってきてくれた時です。でも、もっと嬉しいのが『先生、またダメでした。でも、今回は自分で納得できる出来だったんです!』と言ってきてくれた時です」というのがありました。生徒がアナウンサー試験に落ちたのに“嬉しい”のはおかしいと思われるかもしれませんが、アスクの学校長を短い期間ながら努めてきて、それが痛いほどよくわかります。アナウンサー試験はしゃべりのテクニックで合格するものではありません。人間で合格するものです。自分で納得できる状態になれたら、遠くない将来に素晴らしい結果が約束されているのです。

永井さん、ありがとうございました。安らかにお休み下さい…。


2009年2月4日 テレビ朝日アスク 学校長 松井康真
   
 
    
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