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身長
173cm
出身地
大阪府松原市(~9才)、佐賀県(~18才)
出身校
佐賀県立鹿島高校→
早稲田大学政治経済学部政治学科
入社年月日
1997年4月1日
星座
獅子座

2016/3/17 “明るい未来”の町はいま

■「足をあげろ」?

見えない放射線を
警戒しながらの取材を終えて、
駐車場に停車。
息苦しい防護服をようやく脱げると思い、
車から降りようとドアを開けると、

「そのまま降りないでください!」

4~5人の人たちが車に駆けよってくる。
いずれもマスク姿で
小型の機械を手にしている。

「座ったまま足を出してください」

言われるがままに、
私たちはシートに座ったまま、
ドアの外に向かって足を伸ばす。

マスク姿の人たちが
車の周りにしゃがみこんで、
私たちの足の裏に金属の棒を丹念にあてる。

高濃度の放射性物質がついていないか
足の裏の放射線量を確認する作業だ。

こうしたチェックを終えて、
ようやく人々が暮らせる土地に“再上陸”し、
防護服を脱ぐことができる。

放射性物質を外に持ち出さないために、
立ち入りが制限された区域の周辺に
いくつも設けられている
スクリーニング場では、こうした過程を経て、
住民も作業員も区域の内外を行き来している。

東日本大震災、そして、
福島第一原発事故から5年。
“原子力による明るい未来”を
信じ続けていた町はいまどうなっているのか。

住民であっても
自治体の許可がなければ入ることのできない
いわゆる“バリケードのなか”を
取材する機会を得た。

■原発から3キロの町

福島県双葉町。
福島第一原発から約3キロの
JR常磐線・双葉駅から伸びる
町の目抜き通りに人通りはない。

時が止まったかのような静寂。
歩いていると、防護服のマスクのなかの
自分の息だけがきこえてくる。

震災発生前、約7000人いた住民は、
いまもなお避難を余儀なくされていて、
町には1人も暮らしていない。

入口のガラスが割れて、
店のなかがむき出しになっている洋品店では、
売られていた商品が、
ハンガーにかけられたままになっている。

一見すると、
きのう地震が発生したかのような
錯覚をおぼえるが、
部屋のなかにかかっているのは
2011年3月のカレンダー。

原発事故発生後、
あわてて避難したときのままの状態が
5年がたったいまも残っている。

一方で、住民が1人もいないがゆえの
大きな変化もある。

町のいたるところで、植物がアスファルトを
突き破って生えてきていて、
人の背丈をこえるほどの高さになっていたり、
家屋のなかにまで入り込んで
茂っているものもある。

ある美容室では、店先に生えていた植物が
出入り口全体を覆うほどにまで
成長してしまい、
人が出入りできない状態になっている。

住民がいなくなり、時が止まった町のなかで、
植物の成長だけが
「5年」という歳月の
長さ、重さを感じさせる。

■原発事故さえなければ・・・

町の中心部を離れれば、
鳥のさえずりがきこえてくる。
梅の花も咲き始めている。

津波の被害のなかった双葉町の中心部は、
高台移転などの必要もなく、
原発事故さえなければ、いまごろ街は
活気を取り戻していたかもしれない。

■撤去された“明るい未来”

「原子力 明るい未来の エネルギー」

町の目抜き通りに掲げられていたPR看板は、
震災発生後もそのままの状態で残り、
いわば“原発事故の教訓を伝える象徴”とも
なっていたが、事故から5年の
節目を迎える直前に撤去された。

周辺の放射線量が高く、補修工事ができず、
老朽化して落下する恐れがあるからだという。


看板の土台

小学6年のときにこの標語を考えた
大沼勇治さん(40)は、
「自分のこれまでの人生を
否定されたような思いです」
と語っていて、
今後もなんらかの形で残して、
後世に教訓を伝えていきたいという。

こうした帰還困難区域では、
いつ町に戻れるのか、
5年がたってもなお、
そのメドすら立っていない。

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■取材後記

“帰還困難は5年”が
1つの目安とされてきましたが、
その5年を前に4度にわたり
帰還困難区域に入りました。

福島第一原発に近い、手つかずの場所では、
持参した線量計で、
毎時20マイクロシーベルトを
超えるような場所もありました。

知れば知るほど、
その現実は厳しいものでした。

放射線量が高いので中に入らないようにと
バリケードで覆われていることによって、
結果として、現実を知る機会まで
失われてしまっているようにも思えます。

また、避難している
住民のみなさんにとっては、
5年がたっても、
まだまだ先が見えない不安と
向きあい続けていることも
忘れるわけにはいきません。

やはり行ってみなければ、
見てみなければ、わかりません。

(ちなみに、
4度の取材での積算放射線量は、
33マイクロシーベルトでした)


スタッフ全員が防護服で中継

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