アナウンス部ch

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2015/2/25  お疲れ様でした!

今回は、アナウンス部を卒業される3人が主役のアナウンス部ch.です!

1977年に入社し、今年でアナウンサー人生38年
この年のアナウンサーの採用は、男性5人女性4人の計9人でした。
私たち、1年目の草薙と山本にとっては、レジェンドであり、憧れであり、
母や父のような存在でした。
それはきっと私たちだけでなく、アナウンス部みんなが思っていたことでしょう。

そんな卒業する3人の大先輩たち。
それぞれの今の思いに迫りました!

 

まずは、吉澤一彦アナウンサー

38年間のアナウンサー生活のうちの26年が毎朝3時起きの生活でした。そこで色々な経験をさせていただきました。1981年に、「おはようテレビ朝日」という番組の中の、一つのコーナーとして、「やじうま新聞」が始まりました。当初、プロデューサーには、新聞を読みながら、“実況”をしてくれ、と言われました。止まっている新聞を実況できるわけがない、と最初は思いました。しかし、言われたからにはどうにかやるしかない。そうして試行錯誤を繰り返しながら、出来上がったのが、今の新聞紹介のスタイルです。

そういった一つのスタイルを作ることができたのは、自分の自信にも繋がりました。
振り返れば、毎日早朝の番組をやる影響で、外で遊んでいても、夜9時くらいには帰らなければならないのは、正直ストレスにもなりました。だけど、新聞を紹介する、そしてその記事を基に、出演者とフリートークを毎朝、生放送でできる喜びや楽しさは幸せなものでした。
テレビ朝日に入社して38年間経ちますが、テレビ朝日のアナウンサーになってよかったな、と今でも思いますし、これからもずっと思い続けるでしょう。
これからも、テレビ朝日の社員ではありませんが、一人のアナウンサーとして仕事をしていくつもりです。長い間、お世話になりました。本当にありがとうございました。
そしてこれからもよろしくお願い致します。

 

 

お次は、渡辺宜嗣アナウンサー

本当に長いこと現場に立たせていただき、幸せな38年間でした。心から感謝しています。
「朝まで生テレビ」の28年も私にとって忘れられない出来事ですし、戦艦大和の海底探査で350メートルまで潜ったことも、思い出ですし、他にもたくさん命を張ったこともありました。今でも色々なことを鮮明に覚えています。

皆さんの温かい思いが私を支えてくれたのだと思っています。
私はアナウンス部の後輩にとって、どのような先輩だったのか分かりません。あまり、後輩に対して、「ああでもない、こうでもない」と言うようなタイプではありませんでした。
このタイミングですから言いますが、それは、みんなそれぞれ好きなようにやって欲しいという私なりの思いからでした。先輩になんと言われようとも、気にせず、自分の信じるようにやって欲しいんです。振り返れば、自分自身もそうして育ってきました。
一緒に番組を作ってきたスタッフにも本当に感謝しています。苦しい時も、皆さんがいてくれたことでどれだけ心強かったことでしょうか。
柔らかいとか硬いとかは関係なく、私は現場に出るのが大好きな人間なので、60歳になったこれからも現場に出続けたいと思っています。
テレビ朝日のアナウンス部で働けたことを本当に誇りに思います。ありがとうございました。

 

 

続いて、宮嶋泰子アナウンサー

私自身スポーツに関わるのは予想すらしていませんでした。当時はスポーツを担当する女性のアナウンサーというのはいなかったので、イメージが全くできませんでした。
入社当時、私がアナウンサーとしてやりたかったのは、色々な国の文化や情勢というのがどのようにして人々の生活に反映され、どのようなものが生まれているのかを伝えることでした。しかし、仕事をしていくうちに、その私のやりたかったことが、スポーツを通じて伝えられると気づきました。人と人が、それぞれの異なる国の文化や考え方を背負った上で、スポーツのルールという、同じ枠の中で競い合っていきます。私のやりたかったことができるじゃないか、と気づくことができました。

どんな仕事についたとしても、きっとそこには何かがあります。こんなことはやりたくない、と投げ出さないでください。そこにある、何かを吸収してください。

1977年の4月から2015年の1月まで、テレビ朝日のアナウンサーという肩書で
仕事をしてきましたが、実はディレクターの仕事が多く、画面に出演するのは本当に少なかったように思います。コストパフォーマンスの悪いアナウンサーだったわけです。
しかし、それだけに、取材交渉、取材、編集、ナレーション、スタジオと、すべてにわたり
伝えたいことはしっかり伝えてきたと自負しています。
これからはテレビ朝日スポーツ局のスポーツコメンテーターとして仕事をしていきながら
大学でも教鞭をとっていく予定です。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
皆さんと一緒にお仕事ができてよかったです。ありがとうございました。

 

そして、この3人の『隣にいた人』 に3人との思い出を聞きました!

まずは、「はい!テレビ朝日です」で、吉澤さんの隣に座っていた久冨アナ


久冨アナ

まだ私が就職活動をしていた頃、「どんなアナウンサーになりたいですか?」
と聞かれてこたえていたのは、吉澤一彦アナウンサーです!
私の家は、朝の番組は『やじうまテレビ』と決まっていて、
ある日吉澤さんが夏休みで番組をお休みしている時、
「いつもと番組の雰囲気が違うな~。早く夏休みから帰ってこないかな~。」
と思ったんです。
私もいるだけで雰囲気が良くなるようなアナウンサーになりたいなと思っています。

そんな吉澤さんと『はい!テレビ朝日です』の司会を約1年務めました。
ゲストを招いてインタビューをすることが多い番組ですが、どんなゲストとも楽しく会話をする吉澤さん。いつもゲストの方々は気持ちよくインタビューに答えてくださっています。それは吉澤さんの作る番組の雰囲気だと思うんです。アナウンサーは言葉を扱う職業ですが、それ以外によい雰囲気を作るってとても素敵だと視聴者としても、アナウンサーとして働くようになってからも思います。


続いて、「スーパーJチャンネル」で、宜嗣さんの隣に座っていた八木アナ
       


八木アナ

宜嗣さん、ご定年おめでとうございます!
長くキャスターをされていると、
“視聴者目線”や“普通の感覚”を大切にすることって
実はすごく難しいことなのではないかと思うのですが、
宜嗣さんはテレビに映る姿そのままというくらい
いつでも気さくで庶民的で、
ご家族も大切にされていますし、スタッフからの信頼も厚いです。
「夕方の空気感を大切にしよう」という大先輩のもとで
私たち後輩は沢山のことを教わっています。

昨年12月に宜嗣さんの還暦祝いで
赤いちゃんちゃんこを着てもらったことが思い出深いです!

ご本人は少し嫌がっていましたが・・・、
正直、めちゃくちゃ似合っていました!!!笑
報道フロアで皆でお祝いして、楽しかったです~^^♪

今後ともJチャンファミリーの長として、
宜しくお願いいたします!!


続いて、宮嶋さんの隣にいた人!といえば、
アナウンス部のデスクで、いつも隣に座っていた下平アナ


下平アナ

アナウンス部の座席は共有デスクで、誰がどこに座るか決まっていません。
でも、私はいつも宮嶋さんのお隣に陣取ってきました。
就職試験で「どんなアナウンサーになりたいですか?」と聞かれたら、他局の面接でも「テレビ朝日の宮嶋泰子さんのように、番組の制作にも関われるアナウンサーになりたいです。」と答えていました。ご縁がなかった局があったのは、宮嶋さんのせいかもしれません。
モーレツキャリアウーマンとして知られている宮嶋さん、意外な面がたくさんあります。
お着物が似合う。おいしいお店をよく知っている。洋服を自分で染め直したり、鞄の取っ手を替えたりするリメイクが好き。ユニセフにずっと寄付している。ご主人ととても仲良し。
何年もお隣に座り続けて、やっぱり目指すべき素敵な女性であることがわかりました。
これからも、そのままの宮嶋さんで、走り続けてくださいね。

 

 

そして、先日アナウンス部主催の三人への「感謝の集い」が開かれました!

アナウンス部以外にも、ゆかりのある方々が出席されました。

懐かしい映像を流したり、ご家族からのメッセージVTRを流したりしました。
涙している方もいて、「感謝の集い」は大成功でした!

一人ずつ、熱い言葉をもらい、

  

 

最後に、3人が卒業されると、アナウンス部の最年長となる森下アナが一本締めの音頭をとって、会はお開きとなりました。

本当にいろんな人の感謝の思いがこもった送別会でした。
入社1年目の私たちは、3人と少しの時間しか接することはできませんでしたが、
自分たちがこの場に立ち会えて、光栄だと思いました。
3人のように、最後まで愛されるアナウンサーになりたいと、私たちだけでなく、
誰もが感じたでしょう。

3人がいないアナウンス部は、とっても寂しいけれど、
3人から学んだことを忘れず、アナウンス部を盛り上げていきたいです!

 

吉澤さん、宜嗣さん、宮嶋さん、本当におつかれさまでした!
そして、これからも宜しくお願い致します。

 

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