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Vol.84 「都電に乗って」(2009/08/10)

都電荒川線を借り切った。
「電車の旅に欠かせないグッズ紹介」という趣旨の、ニュース番組の取材で。

当日は雨。始発駅の早稲田に、少し早く到着する。
大学が近かったこともあり、この界隈はよく歩いた。
そういえば、なすと豚肉の味噌炒めで有名だった定食屋が惜しまれつつ閉店した。
記憶の中の風景は、少しずつはがれ落ちていく。


10時発。
音もなく滑り込む都電のおでこに、“貸切車”の文字。
参加者は、旅と列車が好きな女性たち。
車内では、それぞれの必携品を、披露したり議論したり。


大判のストールは、うたた寝の枕代わりに。よだれもこっそり拭けるしね。
お菓子を食べすぎてもお腹が目立たぬよう、
ジーンズの上にはふんわりワンピースを。

座席の下方、オレンジや黄色が横並びに咲いている。
サンダルからのぞく、きれいに塗られた色とりどりのペディキュア。


面影橋、学習院下、鬼子母神前。

雨で滲んだ窓越しに、ホームで目を丸くする男児。
ねえ、どうして乗れないの?
ごめんね、次の電車にね。手を合わせ、手を振って、いざ。

「列車が好き」と言うと、大抵怪訝そうな顔をされる。
厳密には、列車で旅するのが好きだ。
すると、遠慮がちに「…何かを忘れたいのですか?」と問われる。

飛鳥山、王子駅前、荒川車庫前。

濡れそぼつ電柱や古びた屋根は、煮しめのようにつややかだった。
鮮やかではなく、醤油のしみた、こっくりした色。
揺られながら、頭にフタをしてくつくつ思いを巡らす。
煮詰まったなら、車窓から放てばよい。

学生の頃。休講と知るや、庚申塚の鯛焼きを求めて飛び乗った。
目白から早稲田へ向かう途中の、急な坂道。
忘れるどころか、思い出す。

もう、終点の三ノ輪橋だった。


ええと…次は何時発?


(「日刊ゲンダイ 週末版」8月10日発刊)
   
 
 
    
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