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Vol.40 「月夜の音」(2006/10/16)

束の間の、空の五線譜。
もうじき夜の帳に包まれます。



夕闇と電線


ちょっとだけ、耳を済ませてみて下さい。

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音楽が好きだ。
だが、歌うことも奏でることも出来ない。
だから私は、音を纏う。
部屋で、道で、ベランダで。耳を包む旋律に、身を委ねる。

音楽を聴きに行くのは、決まって何かがあった時だった。
抜け出したいと思ったら、いつも、長い坂を上った。
繁華街の中心地。
ネオンの粒がぽんぽん弾ける雑踏の一角に、その店はあった。
かつて、60〜70年代に流行したというロック喫茶。
店内にはロックやブルースが流れ、
特別な日には、地下の小さなステージにてライブが行われる。
新人の頃、店にもライブにもよく通った。
白髪のオーナーは、ふらりと訪れた私にも気さくに応じてくれた。
人気のない夕方には、好きなアーティストのレコードを大音量でかけてくれて、
ウーロン茶を何杯もおかわりした。
なかなか悩みを言い出せず、他愛のない会話をしながらも、
最後にはそっと「…元気になりましたか?」と尋ねられた。

季節が過ぎ行き、仕事にも慣れ、
いつの間にか私は、何かがあった時に「なす術」を身に付けた。
その店にも、だんだんと行かなくなっていた。
ライブの日も、仕事に追われてはいたものの、今更訪ねることは出来なかった。
都合の良い時だけ訪れながら、店から足が遠のいたことへの負い目。
逃げ出した自分から、逃げていた。

「幸せに暮らしていますか」
先日、オーナーから、久しぶりにメールが届いた。ライブの告知だった。
近況報告をするには、随分と日が経ち過ぎていた。
嬉しくて、でも、申し訳なくて、ライブに行けない旨だけを返信した。

当日。
夜遅くに仕事が終わって携帯電話を覗いたら、留守番電話が入っていた。
「次は、祐子さんの大好きな曲です」
メッセージはそれだけだった。
懐かしい声の遠くでは、聴き慣れたメロディが奏でられている。
グラスの音や話し声に混じって、
繰り返し聴いていた旋律が、最後まで録音されていた。
冷えた夜道を歩きながら、くぐもった音色を何度も何度も聴いた。
「私は元気です」
気持ちをどうにかして形にしたくて、メールを送った。
でも、本当にやりたかったのは、もらった音楽を、音楽で返すこと。
でもやっぱり、私には歌うことも奏でることも出来なかった。

丸い月が、頭の上にぽっかりと浮かんでいる。
ハチミツのように、温かな色だった。

(「日刊ゲンダイ」10月16日発刊)
   
 
 
    
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